第43話 血


「まだ準備できないのかよ」


 苛立ちが隠せないジュニアは、一階の応接室の扉を開けた。いつもは整然としているその場は、今ではまるで研究施設だ。スミスはソファに腰を下ろし、試験管に入っている試薬をいじっているところだった。


「うるさいな。もう少しだ。もう少しで確認できるのだ」


「ち、あの女。うるさくてイラつく。なあ、血で済むんだったら、さっさと抜いて始末しようぜ」


 スミスは大きくため息を吐いてから、ジュニアに視線を遣った。


「そう短気を起こすな。もう少しで完成するのだ。彼女が不要かどうかの判断は最後にしても遅くはない。血だけでは済まないかも知れないからな。本体が必要になった時、始末してしまったら、取り返しがつかないだろう。それに、ミスター菱沼たちが乗り込んできたら……。彼女は大切な人質になる」


 スミスは試液が注がれている試験管に、スポイトで深紅の液体を垂らす。スミスが両者を混ぜ合わせるために試験管を振ると、試験管が青白い光を放ち始める。


「おお。おお」


 スミスの歓喜の声。しかしジュニアはあまりにも強い光に、思わず腕で視界を遮った。


「What’s!? なんなんだよ。これは——」


「反応しているんだ。彼女の血が——DNAが。反応しているんだ。ああ、これで鍵が……とうとう解放される!」


 眩い光に包まれた部屋。スミスは「彼女を連れてこい!」と叫んだ。ジュニアは仕方ないとばかりに、部屋を出ていく。


「——これだ。これを求めてきた。私はこれが欲しかった!」


 廊下から「離して!」という女性の声と、「Shut up!(黙れ)」という声が聞こえたかと思うと、ジュニアが萌咲を連れて戻ってきた。


「連れてきたぜ」


「やあ、萌咲さん。——いや、ミス斑目」


 両腕を後ろで縛り上げられている萌咲は、スミスを睨みつけていた。


「なにをしているか、わかっているのでしょうね!?」


「知っているさ。人生をかけた研究を、成し遂げようとしているだけだ」


「研究? なんの話なの!?」


「キミはなに一つ知らずに生きているのだね。まったくもってお気楽で幸せな子だ」


 スミスが目で合図をすると、ジュニアは萌咲をそばの椅子に押し付けた。


「離して!」


「うるさい女だ! Key(鍵)じゃなかったら、首の骨、へし折っているぜ」


 ジュニアの脅しに、萌咲は黙り込んだが、その瞳には反抗の色が浮かんでいる。彼は忌々しそうに萌咲を見下ろした。スミスは「ああ、その目だ」と言った。


「ドクター斑目もそういう目をしていた」


「だから、その斑目って誰なの?」


「キミのひいおじいさんだよ」


「え——?」


 萌咲はスミスをじっと見上げる。彼はスミスであってスミスではなかった。物腰柔らかな彼とは違い、その瞳は冷徹。萌咲を見下ろしているというのに、その視線は萌咲を見ていなかった。


「あの時もだ。あの時、さっさと僕に渡せばよかったんだ。研究も、この解除キーも。そうすれば、あんな無様な死に目に遭うことはなかったのに」


「無様って……私のひいおじいちゃんの死と、なにか関わりがあるっていうの?」


「そうだ。あの男は、こんな素晴らしい研究を、ミスター小林と封印すると決めてしまったんだ。日本軍は敗戦の混乱で、この研究を続けるような状況ではなかった。しかし僕は忘れていなかったよ。戦前、ドクター斑目の元に弟子入りしていたから、彼らの研究を知っていたんだ——」


 スミスは言った。


「彼らは、この技術を医療に活用するために研究していた。自然界の気で、人の病や怪我を治す。そんな研究だった。しかし、研究を進める内に、それだけでは収まらないことに気がついたのだ」


「収まらない?」


「そうだ。人体の損傷部位を修復できるなら、老いた細胞も修復できるのではないかという仮説が持ち上がったのだ。つまり、これらの技術を活用すれば、老化した細胞を活性化し、人は若返る。それを繰り返せば、人は死ななくて済むのだ。わかるか? 不老不死だ。人類が夢見る不老不死が手に入るというわけだ」


「そんな……。人はみんな死ぬのよ」


「凡人はな」


 天井を彷徨っていた視線が、萌咲に戻る。


「お前はミスター菱沼と同じことをいう。そして、ミスター小林とも同じことをいう。ドクター斑目もだ!」


 スミスは苛立ったように叫んだ。


「僕のこのからだを見ろ! 僕は本来であれば110歳を超える。だがしかし、見た目は70歳だ。どうしてだかわかるか? ドクター斑目が拳銃で頭を撃ち抜いた時にその血と小銃に触れた。そこから、僕の老化のスピードが鈍化したのだ。最初は気がつかなかった。妻や周囲の友人や知人は老いていくのに、僕だけが時間のはざまに取り残されたみたいだ。そんな感じを味わったことがあるか? ないだろう?」


 スミスは孤独だったのだろうか。萌咲はそう感じた。彼の目は、まるで迷子になっている子どもみたいに、不安で揺れていた。


「気がついた時は遅かった。ドクター斑目の死から十年は経過していた。そして、斑目の子孫の存在も追うことができなくなっていた。敗戦国とはひどいものだ。戸籍などもめちゃくちゃになって、なにがなんだかわからくなっていたのだからな」


「あなたは……。本当に不老不死を望むの? 寂しかったのではないの?」


「お前になにがわかるというのだ!」


「わからない。わからないわ。あなたではないもの。でも——その辛かった気持ちは、理解することが出来る」


 スミスは一瞬、言葉を切った。彼は目の前にいる萌咲と対峙していなかった。心はどこか遠くにあるように、ぼんやりとした瞳のまま、萌咲の首に手をかけた。


「理解してもらいたいと、誰が言った。余計なお世話ばかりの、でしゃばり女。あまりうるさくしないでくれ。キミのことは生かしておきたい。利用価値があるからね。僕の気が変わらないように、せいぜいご機嫌取りでもしてくれ」


 まるで氷のような視線だった。萌咲は黙り込む。


「賢い子だよ。本当に。そうだ。大人しくしていれば、悪いようにはしない。別にからだをバラバラにするって話じゃない。ただちょっと。キミのDNAが欲しいだけだからね」


 スミスは口元を歪めて笑みを見せた。その時——玄関のチャイムが鳴った。


「こんな時に誰だよ」


 ジュニアは、はっとして萌咲から手を離す。


「ジュニア、用心するに越したことはない」


 スミスは腰を上げると、重い足取りでインターホンの応答をした。


「突然すみません。梅沢市役所の者です。現在、市内には大雪警報が出されていまして。ご高齢の方などがいらっしゃれば、避難所へのご移動をお願いに参りました」


 インターホン越しの男は、黒ぶちの大きな眼鏡をかけた30代くらいの男だった。髪をぴったりとなでつけ、地味な鼠色のスーツを纏っている。スミスは大きくため息を吐いた。


「結構です。確かに僕は高齢ですがね」


「そんなことを言わずに。あの、では少々お時間いただけませんか? せめて、安否の確認をさせてもらいたいのです」


「——ああ、わかりましたよ。お待ちください」


 インターホンの通話を切ると、スミスは玄関に向かう。


「おい、こんなくだらない奴、相手にするな。雪がなんだ」


「ジュニア。先ほど隣の女性と話をしていた男だ。隣のお嬢さんは、あることないことを言いふらすのが上手だからね。丁寧に対応するのがよかろう。僕は善良な市民だからね。すぐに帰ってもらうから、そう心配するな」


「でも——あいつらだったら……」


 スミスは大きな声で笑ったかと思うと、すぐに優しい声で諭すように言った。


「お前はからだばかり大きくなって、臆病だね。そんなところがかわいいがね。安心したまえ。僕に任せておけば万事うまくいくのだから。お前はさっさと彼女を戻せ。それから、何事かあってもいいように、注意を怠るな」


 スミスはそばにあった杖を手に取ると、玄関口へと向かった。





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