第22話 大切な時間
——萌咲ちゃんを
菱沼は声を掛けたいところを、ぐっと堪えた。この姿でいる時は、彼女に不必要な声掛けをしないほうがいいと思っているのだ。これは仮の姿。本来は、この世界に存在してはいけないのだから。彼女との接点はなるべく減らさなければならないのだ。
更に自分たちの時間的制約もあるが、聡が警察に通報しているはずだ。まもなく警察が駆けつける。その前には、この場から立ち去らなくてはいけない。菱沼は努めて淡々とした声色で、事務的に話をした。
「彼は しばらく起きることはないでしょう。警察がすぐにやってきます。それでは我々はこれで——」
立ち去ろうと腰を上げると、不意に伸びてきた萌咲の腕が、菱沼の腕を掴まえた。
「萌咲ちゃん……」
「菱沼さん。ありがとうございました。怖かった。怖かったです」
「そうだね。怖かったね。萌咲ちゃん」
踏みとどまろうとする気持ちが緩んだ。彼はそっと萌咲を抱き寄せて、それから肩を撫でた。
「軍曹。時間が——」
小田切の声がインカムから響く。
——わかっている。わかっているのだが……。
萌咲は、菱沼の瞳をじっと覗き込んできた。
「あの。変な質問かも知れないんですけれど」
「なんだい?」
「あなたは、菱沼さんではありませんか?」
「そうですよ。僕は菱沼です。菱沼
「いいえ。違います。あたなは、菱沼糺さんなのではないですか?」
萌咲の瞳は思いつめた色を浮かべている。笑って「冗談はやめてください」などとは言えなかった。菱沼は押し黙って、萌咲の視線を受け止めた。
「だって。その瞳は。菱沼さんなんです。私の大好きな菱沼さんの瞳なんですから——」
——私の大好きな?
「軍曹! 限界です!!」
泣きそうな小田切の声に、菱沼は萌咲の手を振り払った。
「すまないね。今日はここまでのようだ」
「待って! 待ってください!!」
菱沼は踵を返す。するとそこに聡が姿を現した。三人を逃がすために機転を利かせてくれたのだ。
「萌咲! どうしたんだよ。なにがあったの?」
聡は、萌咲が菱沼を追いかけようとしている前に立ちはだかる。
「ちょっと、どいてよ! 聡。邪魔!」
「邪魔ってなんだよー。せっかく迎えに来てやったのに。心配していたんだぞ。ストーカーされているって言うから。——あれ! なんだ、この男は! 怪しいじゃないか。え? 萌咲が捕まえたの?」
聡はわざとらしく大きな声を上げて、矢継早に萌咲に声をかけた。その間に菱沼は、暗闇に紛れる。小田切の自家用車のところにたどり着いた時。三人はすっかり今の姿に戻っていた。
「もう……もう痛くてかないません。ああ、一歩も動けません」
飯塚の言葉に、菱沼と小田切も「同感だ」と答える。三人は、少しも動くことができずにしばらくの間、地面に座り込んでいた。
***
あれから。駆けつけた警察が、意識を取り戻した吉成を連行していった。居残っていた石桁たちも出てきて、現場は大騒ぎだった。萌咲も聡も警察から何度も事情を聞かれ、解放されたのは、深夜を過ぎた頃だった。と聡は三人に聞かせてくれた。
萌咲は、菱沼たちのことを警察には話さなかった。最初、萌咲は「一人で吉成を確保しました」と言った。しかしそれでは、あまりに信ぴょう性がない話だ。結局は聡も協力をしたという偽証をしたことで、なんとか納得してもらえることになったそうだ。
菱沼たちは三日くらい、誰一人として、まともには動けなかった。
菱沼の様子を見て、70歳を目の前にした菱沼の娘は、怒りを通り越して呆れているようだった。かなりの時間、説教をされて、それでも仕方ないと家に泊まり込みをして身の回りのことをしてくれた。
買い物に出かけた娘の帰りを待ちながら、縁側で日向ぼっこをしていると、ふと猫が一匹、縁側のところに駆けてきた。
鯖トラ猫のマルコだった。
「マルコ?」
菱沼が目を丸くすると、それに続いて萌咲が顔を出した。
「こんにちは。菱沼さん」
「萌咲ちゃん……どうしたんだい?」
萌咲は見慣れない私服姿だった。桃色のブラウスに、濃紺のスカート。ポロシャツにチノパンスタイルの彼女とは、まったく違って見えた。
「驚いた。なんだか別の人に見えるよ」
「いつも地味な恰好ですしね」
いつもは一つに巻き上げられている髪も、今日はそのまま下ろされている。萌咲の艶やかな黒髪は彼女の肩に掛かり、ふんわりと爽やかな香りを振りまいていた。
「そんなことはないよ。デイサービスでの萌咲ちゃんもかっこいいけど、今日の萌咲ちゃんは、また素敵に見えるね。——それよりも。今日はどうしたんだい? 仕事は?」
「辞めたんです」
萌咲はそう言うと、マルコを抱き上げた。菱沼は彼女を縁側に呼び寄せ、そこに座らせた。
「辞めた?」
「そうなんです。菱沼さんは、先日の吉成くんの事件、お聞きになられていますか」
「ああ、飯塚から聞いたよ。吉成くんが犯人だったんだってね。あんなに大人しそうな子がね……。でも、吉成くんは退職したそうじゃないか。なにも萌咲ちゃんが辞める必要はないと思うがね」
「ですけど。やっぱり申し訳なくて……。私が吉成くんに勘違いさせるような態度をとったのが悪いんです。私のせいで、随分と石桁さんにもご迷惑をおかけしましたしね」
萌咲はそう言うと、菱沼を見た。
「菱沼さん。ありがとうございました」
菱沼には、萌咲の「ありがとう」の意味がわからない。とりあえず、それに応えるように頭を下げた。
「こちらこそ。萌咲ちゃんには、お世話になったね。デイサービスの職員でなくなってしまうと、萌咲ちゃんには会えなくなってしまうのかな。なんだか寂しいね。僕の人生は、そう長くない。萌咲ちゃんと過ごせる時間、楽しかったんだけどね」
萌咲は少々恥ずかしそうに視線を伏せると、「あの……」と遠慮がちに口を開いた。
「一つだけ……。どうしても叶えたいことがあるんです。すっごくご迷惑なお願いだってわかっているんですけど——」
菱沼は目の前で俯いてしまっている萌咲を見守った。
「昔から、人の顔色ばかり伺って生きてきました。みんなに良い顔してしまうので、今回みたいなことも起きたんだと思うんです。いつも自分を押し込めて、周囲を優先してきました。けれど——」
「萌咲ちゃん……」
「——どうしても、どうしてもこれだけは譲れないっていうか。……あの、菱沼さんの残された大切な時間を。どうか私にも分けてはくれませんか?」
萌咲は顔を上げたかと思うと、そう言った。彼女のうるんだ瞳は、菱沼をじっと見据えている。彼女が、なにを言わんとしているのか、菱沼にはわかった。
「もう私と菱沼さんは、なんの関係もない他人になってしまいましたが、私は、そうはなりたくないんです。お願いです。あの、時々でいいので、こうしてまた……菱沼さんのところに遊びに来てもいいでしょうか?」
菱沼は「そうだね」と言った。
「そう大した人間でもない。けれど、人と人として付き合ってもらえるなら、いいのかも知れないね」
萌咲は、ぱっと表情を明るくした。それから、「それでいいんです」と言った。
彼女はあの日の夜のことを口にはしなかった。あの時、あそこにいたのは菱沼自身だ、ということを彼女は理解している証拠だ。しかし二人にとってみれば、そんなことはどうでもいいことなのだ。ただ黙っていても、萌咲と菱沼の間には、確かに通じるものがあるのだから——。
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