第25話 来訪者
萌咲は野菜を入れたエコバックを片手に、足取りも軽くその道を歩いていた。
——先週は失敗しちゃったからな。今日はちゃんとできるかな……。
バックの中に入っている食材を頭で思い返しながら、腰高の木戸を押し開き、中にからだを滑り込ませる。綺麗に整えられている庭木を横眼に、ガラスがはめ込まれている玄関前に立った。
「こんにちは~。萌咲です」
萌咲は建付けが少々悪くなっている引き戸を開いてから、中に顔を入れる。
「こんにちは! 菱沼さん、いらっしゃいますか? ——あれ? おかしいなあ」
玄関先には、菱沼がいつも履いている革靴、それからサンダルなどが置いてある。外出しているのではないらしい。
萌咲は、居間の入り口に取り付けてある手のひらサイズの鏡をのぞき込んだ。菱沼が在宅している場合、大概は居間のソファに腰を下ろしている。耳が遠くなってきているので、来客があったかどうかわからないと困る、という理由で、こうして居間の入り口に鏡を設置しているのだという。
ソファから玄関が見えるのと同様に、居間の様子もよく見える。
萌咲は背筋を伸ばしたり縮めたりしながら、鏡の中を注視した。すると——。ソファで菱沼が居眠りをしている様子が見て取れた。
「菱沼さんったら……」
萌咲は靴を脱ぐと、それを玄関にそろえてから、中に上がり込んだ。
「菱沼さん」
彼は明るい萌黄色のソファにからだを預け、すっかり寝息を立てていた。彫の深い顔には、皺が幾重にも刻まれていて、彼の生きてきてた時間の長さがうかがえる。
『萌咲ちゃん——!』
萌咲の脳裏には、菱沼の曾孫だと名乗る男性の顔が浮かんだ。キリリとした眉。意志のしっかりと見て取れる双眸の輝きは、まるで菱沼と同じだった。
——あの人は、菱沼さんなんですよね?
一体、どんな魔法なのかわからない。けれど、旧陸軍の軍服を纏い、萌咲のピンチを何度も救ってくれる彼は……彼こそが菱沼その人である——と萌咲は確信していた。
——どうしてそう思うかなんてわからないけど……。女の勘ってやつかな。
寝息と共に、微かに震えているまつ毛を眺めていると、不意にその瞼が開かれた。
「萌咲ちゃん」
萌咲は慌てて視線を逸らす。
「す、すみません。何度も声をかけたんですよ。でも、菱沼さん、出てこないから……。玄関も開いていたし、勝手に入ってしまって、その——」
「いや。すまないね。ついうたた寝をしてしまったようだね」
にっこり笑みを見せる菱沼に、萌咲は顔を熱くしてから、「今日は」と声を上げた。
「今日はポテトサラダを作ろうと思ってきたんです。お好きですか?」
「大好きだよ」
「よかった!」
萌咲はさっそく立ち上がると、鞄からエプロンを取り出した。
「台所、お借りしますね」
ニコニコデイサービスを退職してから、萌咲はこうして週に一回、菱沼の家を訪れては、食事作りの手伝いをしていた。
元々仕事ばかりしてきたおかげで、家事は得意ではない。菱沼にごちそうできるほどの腕前がないのだ。毎週、この時ほど緊張するものはない。萌咲はポケットからスマートフォンを取り出すと、レシピサイトを開く。
「えっと……ポテトサラダ、ポテトサラダ……。まずはジャガイモを茹でるんだよね!」
萌咲は気合を入れて料理に取り掛かった。
***
萌咲が来る日。菱沼家はいつもよりも明るい雰囲気に包まれる。菱沼は台所から聞こえてくる音に耳を傾けながら、新聞を開いたり閉じたりしていた。時々「痛っ」、「あちゃー」と声が漏れ聞こえてくる。菱沼は腰を上げようとしては見ても、すぐにソファに座り直す。
萌咲の気持ちを無碍にはできないと思ったのだ。
五十代の頃。妻を亡くした。あれからずっと一人暮らしだ。戦中から身の回りのことを厳しく指導された。それを忠実に守ってしまう自分に呆れながらも、無理に止める必要もなく、菱沼は規則正しく、身の回りのことをすべて自分でこなしてきた。
だからこうして、萌咲が手伝いに来てくれなくても、なんら困ることなどないわけない。おそらく、菱沼のほうが萌咲よりも上手にポテトサラダを作れてしまうだろう。だが、こうして苦手な家事を必死にこなしてくれる彼女の気持ちが、菱沼には嬉しく感じられたのだ。
「で、できました」
肩で息をしながら、嬉しそうに顔を出す萌咲。菱沼は口元を緩めてから、膝に手をついて立ち上がった。
「すみません。今日はちょっと、苦戦しましたけれど……」
「いやあ、おいしそうだねえ」
萌咲の両手に収まっているボウルには、ポテトサラダが山盛り出来上がっていた。彼女の指先には絆創膏が何枚も貼られていた。それらに気がつかないふりをしながら、菱沼はボウルの中のポテトサラダを少しつまんで口に放り込んだ。
「おや。不思議な味がするね」
「不思議、ですか?」
萌咲はじっと菱沼をしたから見つめている。「これは……」と呟きながら、菱沼はその味の正体を突き止めようと、口の中の感覚を研ぎ澄ませた。
——おや。この味は。どこかで食べたような……。
「これは——ごま油?」
「わ! 当たりです。よくわかりましたね」
萌咲は両手叩いて、笑みを見せた。
「我が家では入れたことがないけれど。うーん。なんだか昔に食べたことがあるような……」
——はて。いったいどこで食べたのだろうか?
「この隠し味は……母が。うちの実家では、ごま油を入れるんです」
「なるほどね。ミスマッチに見えて、これはすごく美味しいね」
「本当ですか? 嬉しいです。気に入ってもらえて!」
萌咲は「台所、片づけます」と言って、廊下に姿を消した。
菱沼はその後ろ姿を見送ると、萌咲のためにお茶を煎れる。食事作りが終わると、いつもお茶を飲みながら会話をするのだ。内容はいろいろだ。菱沼の昔の話。萌咲の家族のこと。それから、新しい職場での出来事などだ。
今日もそのつもりでお茶の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう?」
玄関に顔を出すと、そこには聡が立っていた。
「どうしたんだい。キミが尋ねてくるなんて……」
「こんにちは。菱沼さん。あの——今日は、菱沼さんに会いたいって人がいて……」
聡は玄関の外に視線を遣る。すると、そこには大柄な中年の男性がいて、菱沼に軽く頭を下げた。彼はスーツ姿だが、その体形からして、事務系の仕事をしているようには見えない。むしろ、肉体労働が主の職務。髪型も短くきっちりと切りそろえられ、太い眉毛が彼の意志の強さを表しているようだった。
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