第20話 邪悪な男



 火曜日。いつものようにデイサービスに行くと、職員たちが、そわそわとしているようだった。菱沼はいつも通りの席に座り新聞を開く。すると真桜まおが、すかさずやってきた。彼女は口元が緩み、何か言いた気な表情だった。


「真桜ちゃん。どうしたんだい? とっても嬉しいことがあった、って顔だね」


「そうなんですよぉ」と言って、真桜は菱沼の隣に腰を下ろす。「よくぞ聞いてくれました」という顔つきだ。


萌咲もえさん、結婚するんですって」


 菱沼は驚いたが、気を取り直してから「それはめでたいね」と小さい声で返した。真桜は、両手を胸の前で組んで、まるで我が事のように語る。


「昨日、萌咲さんの忘れものを届けにって、若い男性が見えてぇ。萌咲さんの婚約者だって名乗ったんだそうですよぅ。萌咲さん、『あんなのは違う。幼馴染だ』って否定していましたけどぉ。あれは、絶対照れ隠しってやつですよぉ。もう、彼氏なんていない、って言っていたくせにぃ。超イケメンだったって。事務の鹿畑かばたさんが言っていたんですぅ」


 ——聡くん。そういうことか!


 菱沼は、なんだか笑ってしまった。作戦ではあるものの、これを機に、萌咲と聡の距離が縮まるといい。あの二人はお似合いだ——。菱沼がそんなことを考えていると、そこに萌咲が現れた。


「真桜ちゃん! 変なことを菱沼さんに言わないでよ!」


「だってぇ~。いいじゃないですかぁ。おめでたいんだもの」


「おめでたくなんかない! ——もう。菱沼さん。全然、そんなんじゃないんですよ。聡はただの幼馴染なんです」


「聡なんて、名前で呼び捨てじゃないですかぁ。もう妬けちゃうな~」


 真桜は、これ以上は萌咲に怒られると、意味深な笑みを浮かべながら立ち去った。萌咲は耳まで真っ赤だ。菱沼は目を細めて萌咲を見つめる。


 ——萌咲ちゃんには、聡くんのような真摯な若者がお似合いだと思うが……。ここまで否定されてしまうと、聡くんが可哀想になってくるものだな。


「よかったじゃないか。萌咲ちゃん。幼馴染なら、なおさらね」


「違うんです! 菱沼さん」


 萌咲は菱沼の隣に腰を下ろした。


「絶対違うんです。誰も信じてくれないけれど。私にはちゃんと好きな人がいて——」


 萌咲は、はっとして両手で口元を押さえた。


「ほうほう。いいことだよ。萌咲ちゃん。萌咲ちゃんの年で、好きな人の一人もいないのでは、もったいない。その人とはうまくいっているのかい?」


「うまくって……」


 萌咲は気恥ずかしそうに言葉を濁した。


「あの。お話はできます。定期的にお会いしていて。でも、きっと。その人からしたら、私なんて、そういう対象ではないというか」


「なんと。罪深い男だね。萌咲ちゃんのように素敵な女性に好かれているのに。知らないふりかい?」


「……私も悪いんです。色々なことが頭にあって。気持ちにストップがかかってしまって。ちゃんとその人に自分の気持ちを伝えることができません」


「どうやらその恋には、様々な困難が付きまとっているようだね」


「そうなんです! 色々。あり過ぎます!」


 萌咲は力強く言い切ると、菱沼を見上げた。菱沼はその視線をしっかりと受け止めた。


「叶わない恋って、どうしたらいいのでしょうか……菱沼さん」


「叶わぬ恋か。とっても難しい問題だね。しかし、そうやって思い悩むという経験はとっても大切なのだと思うよ。人は見返りを期待して、人を好きになるわけじゃない。恋や愛とは無条件。理屈なんて関係ないことだからね。キミの想いは、きっと相手の男性にも届く時がくるよ」


「菱沼さん……。菱沼さんは奥さんと、どうやってお知合いになったんですか?」


 菱沼は苦笑する。


「僕の話なんて、参考にもならないよ」


 萌咲の瞳の色は真剣そのものだ。菱沼は諦めて、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。


「終戦後に、叔母の世話を受けて知り合った。まあ、見合いみたいなもんだね。仕事が休みの日に、近所の神社に行くようにって言われて。意味がわからなかった。ともかくそこに足を運んでみると、一人の女性がいたんだ。『こんにちは』って挨拶を交わしただけ。それだけだった。で、家に帰ってみると、叔母が待っていて、『どうだった?』って尋ねてくるんだ。それが叔母の設定した見合いだったんだよ。おかしな話だよね。その挨拶を交わしただけの女性と、僕は結婚したんだ」


「その奥様は、早くに亡くなられているんですよね」


「そうだね。娘が巣立って二人暮らしが始まった頃だった。仕事から帰ったら、妻は台所で倒れていた。もう亡くなっていたよ。僕は後悔したんだ。彼女は一人寂しく逝ってしまった。なんて不幸な目に遭わせてしまったんだろうかって。さぞ心細かっただろうね。あの世で再会したら、僕は謝らなくちゃいけないと思うね。仕事ばかりにかまけていたのだから」


 萌咲は菱沼の話を黙って聞いていた。菱沼は首を横に振った。


「萌咲ちゃん。後悔だけはしちゃいけない。伝えたいことは伝えないと。僕みたいになってしまう。彼女にはたくさん言いたいことがあった。こんな僕と連れ添ってくれてありがとう。娘を立派に育ててくれてありがとう。いつも一人にしてすまなかった——ってね。人生は一度切りだ。いくら精一杯生きても、後悔することばかりだよ。だから、その後悔を少しでも減らせるように、萌咲ちゃんにも今を一生懸命に生きて欲しいな」


 萌咲はじっと押し黙っていたが、ふと「あの」と声を上げた。しかし事務室から、萌咲に電話が入っていると声がかかる。彼女は、なにか言いたげな表情のまま、頭を下げて去っていった。


 菱沼は新聞を折りたたんで、そっとフロアに視線を向ける。吉成がいた。彼は痩躯な体型で不健康そうな肌の色をしていた。年のころは萌咲より若く見える。いつにもまして蒼白な顔色。窪んだ眼窩がんかに埋まっている眼球は、ギラギラと光っている。いつもの挙動不審な雰囲気はどこかに消え、どんよりとした邪悪な気配を放っていた。


 萌咲に結婚相手がいるという事実が、明らかに彼に影響を及ぼしているのだろうか。


 事務室からの電話を終えた萌咲は、菱沼のところには戻ってこなかった。スタッフと会話をしている萌咲のところに、再び事務員の女性がやってくる。


「萌咲ちゃん。昨日の小林さんからお電話で。今日は帰りに迎えに行くから。七時に職員駐車場に出ているようにって伝言よ。七時だから、くれぐれも間違えないように、ですって。あのねえ、こういうプライベートな伝言は困るんだから。ちゃんと言っておいてね」


 事務員の中年女性は、そうは言いつつも、にやにやとしている。萌咲は更に顔を赤くした。周囲にいるスタッフにからかわれている萌咲を見つめる吉成の視線は更に邪悪さを増した。菱沼はお風呂から戻ってきた飯塚と小田切に伝える。


「N号作戦。今晩、18時50分ヒトハチゴウゼロに決行する」


「承知」


 三人は顔を見合わせて、力強く頷いた。

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