第11話 予期せぬ再会



 デイサービスというものは、登録制だ。一日に利用できる定員が決まっていて、契約時に何曜日を利用するのかを決定するのだ。


 しかし用事ができたり、体調不良があったりして、休みを取る場合、他の曜日に空きがあれば、振替え利用ができるようになっている。


 三人はその仕組みを利用し、利用する日を分散させることにした。そうすることで、情報収集の幅が広がるからだ。小田切は通常通り火曜日の利用。飯塚は不幸が出来たという理由をつけて、木曜日に変更。菱沼は通院をすることを理由に、土曜日に変更したのだった。


 月曜日の夕方。菱沼が電話でその旨を伝えると、事務員が快く変更の手続きをとってくれた。


 そして迎えた火曜日。本来であれば身支度をしながら迎えを待つ時間だが、菱沼は自宅でゆったりとした恰好でラジオを聞いていた。


 彼はここ数年、ラジオを愛聴している。テレビが嫌いなわけではないのだが、テレビの音声はスピーカーを通して大きく広がっていくおかげで、音が反響しあって聞き取りにくいのだ。


 字幕のサービスを活用することも多いが、そもそも白内障で目も疲れやすい。目も耳も駆使して情報を収集するということは、高齢の菱沼には労力のいる作業だったのだ。


 朝のニュース番組が終わりを迎える。若者向けの番組が始まる時間になると、なんだか手持無沙汰になった。菱沼は近所の喫茶店にでも行ってみようかと思い立ち、支度を始めた。


 今時の喫茶店——コーヒーショップは、菱沼にしてみると、少し騒々しい場所だ。若い頃から喫茶店に通うことが好きな質だから、新しい店に押されて、馴染の喫茶店が閉店していくのを見るのは寂しい気持ちになっていたところだったのだが。


 数年前、近隣に昔ながらの喫茶店を模した店が開店した。さっそく気に入って通い出したのは、菱沼の娘だった。彼女の話だと、店の名前は「金魚」という意味のイタリア語らしい。


 金魚と言えば昔、娘が縁日ですくってきた金魚をずいぶんと世話をしていたことを思い出す。なんだか懐かしい雰囲気と、そういった自分の思いでが相まって、その喫茶店に対して愛着がわいた。


 娘は友達とお喋りをするために、そこを利用すると言っていたが、菱沼の場合は、こうして時間があると、一人でゆっくりとするために足を運ぶ。


 朝刊を抱え、杖を片手に外に出る。通勤ラッシュを過ぎた町は、長閑のどかな雰囲気に包まれていた。菱沼は悪い方の脚を引きずりながら、時間をかけて歩く。途中、犬の散歩をしている隣人に挨拶をしながら、15分程かかって、お目当ての「金魚」に到着した。


 さっそく扉を開けてみると、開店したばかりだというのに、店内は女性客で半分以上の席が埋まっていた。


 菱沼はいつも座っている窓際の二人掛けの席が空いていることに、ほっと息を吐いた。それから、お目当ての席に腰を下ろし、持ち込んだ朝刊を開く。すると「いつものです。どうぞ」と、よく通るバリトンの声が聞えた。


 ——女性に人気がある理由は……彼。


 目の前にコーヒーを置いたマスターを見上げる。彼は大英博物館に飾ってある古代ギリシア彫刻のようだ。整った彫の深い顔立ちは、陰影を浮かび上がらせている。にこっと笑みを見せれば、愛嬌ある人間だと思えるが、黙っていると、まるで冷たい無機質な造形物だ。


 彼は自分自身の魅力をうまく使いこなしているように見えた。それは意識的なものなのか、無意識的なものなのかはわからない。彼は相手に合わせて見せる笑顔の質が違っていた。だからこそ女性たちは、彼の魅力に引き込まれる。いや、女性だけではない。菱沼自身も、彼との会話を楽しみに通っている客の一人であるのだった。


「マスター。ありがとう」


「いいえ。それにしても、火曜日にいらっしゃるのは珍しいですね」


 ——彼は、よく客をみている。


「今日はデイサービスがお休みでね」


「え? 菱沼さんって、こんなにお元気そうなのに。デイサービスに行かれているんですね。わあ、僕、すごく興味がありますね。デイサービスってどんなところなんだろう?」


「おやおや、マスターはまだまだ若いんだ。そんな年寄りの生活に興味なんて持ってはいけないよ」


「やだな。みんな平等に時間は過ぎていくものです。僕だって、あっという間にそういうときが来るんだ」


 マスターは爽やかに光る笑みを見せた。


「若い時代は、あっという間に過ぎ去るものだからね。今を謳歌しないとね。もったいないよ。若い頃はそんな先のことを考えちゃダメだ」


「菱沼さんは、どんな若者だったんですか?」


「さてね。もうすっかりと昔話だ。当時の僕も、キミみたいに毎日がキラキラと輝いて見えていたのだろうか。それすら覚えていないほど、昔の話だね」


「菱沼さんの頃は、確か——。戦争が……」


 マスターは身を乗り出したが、店内から「マスター」と呼ぶ声が聞こえる。


「呼んでいるようだよ」


「ああ、せっかくいいところだったのに。菱沼さん。お話の続きはまた。お店、落ち着いたらまた来ますね」


 中年女性の二人組は、マスターの登場に黄色い声を上げた。


 ——若いということはいいものだな。きっと彼は充実した人生を楽しんでいるに違いない。


 菱沼は「ふふ」と笑みを浮かべてから、外に視線を向けた。幹線道路が通り沿い。車が引っ切り無しに往来し、買い物や散歩を目的に歩いている高齢者がちらほらと見受けられた。


 そんな代わり映えのしない風景をしばらく眺めていた菱沼は、突然、そこにいるはずもない者を見つけて、息を飲んだ。


「小林……少尉?」


 菱沼は、そこに小林の姿を見た。しかし様子が違った。先日出会ったとき。彼は当時の軍服姿だったはずだ。しかし、彼は今時の若者と同じ様相だった。スマートフォンをいじりながら、路地を歩いていく彼の姿に、菱沼は慌てて腰を上げた。


「マスター。急用を思い出した。お代はここに——」


「あ、菱沼さん? 新聞、新聞をお忘れですよ……」


 後ろから呼び止めてくるマスターの声を振り切って、菱沼は必死に外に出た。膝の痛みがある菱沼からしたら、若者を追いかけることほど、難儀なものはない。


 しかし幸いなことに、相手はスマートフォンに夢中らしい。歩みの遅い彼になんとか追いつくことができた。


「おい。キミ。少し待ってくれ。あの——キミは。キミは、小林少尉……なのか?」


 菱沼の声に、男は弾かれたように振り向いた。それから菱沼を確認したかと思うと、走り出そうと足を踏み出す。


「逃げないでくれ。頼む。僕は——知りたいんだ。キミのことを」


 菱沼はまっすぐに男に向かい合っていた。菱沼の気持ちを汲み取ったのだろうか。男は軽くため息を吐いてから、会釈をした。


「こんにちは。菱沼軍曹」


 その声色は、あの銀杏並木のある公園で出会った小林少尉、そのものだった。菱沼は、あの夜であった小林少尉と、今目の前にいる若者が同一人物であると確信した。事情を聞かなくてはいけない——。


 菱沼は居心地が悪そうに、そこに立っている男に「立ち話もなんだから。そこの喫茶店にでも入ろうか」と促した。


 菱沼の提案に男は軽く頷いた。まるで物の怪にばかされたような気持ちになったが、これは夢でもなんでもない現実だ。菱沼は男を連れ、さっきまで寛いでいた喫茶店「金魚」に戻っていった。








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