第二部

1.クラブで十三枚

 深夜、ふと目が覚めて水でも飲もうとリビングに出たツグミは、そこの電灯が付いていることに気付く。視線を向ければ、ローテーブルの上のタブレット端末から細いイヤフォンのコードが伸びていた。その先の長いソファで、丸くなるようにしてジーンが水玉模様の桃色のイルカの抱き枕を抱いて、毛布に包まって眠っている。

 そっと通ったつもりなのに、ツグミの気配にジーンは薄らと目を開けた。


「朝か?」


 イヤフォンを外しながら問われて、ツグミはふるふると首を左右に振る。


「まだ夜だよ」

「そうか」


 またイヤフォンを付けて毛布に包まるジーンに、ツグミは傍に行った。体を起こしてジーンが場所を空けてくれたので、体温の残るソファの端に腰掛ける。


「眠れないのか?」


 心配そうなツグミの問いかけに、ジーンは空色の目でちらりと天井を見た。沈黙で誤魔化してしまおうとするジーンに、ツグミがじわりと距離を詰める。


「眠れるまで俺、一緒にいようか?」


 特に逃げもされなかったので、ツグミはジーンに肩が触れるくらいまで接近した。目を合わせようとしないジーンの横顔を見つめる。


「ワインが飲みたい」

「え?あんた、睡眠薬飲んでるだろ!」

「赤ワインが飲みたい。ロゼならシャンパンがいい」

「ちょっと、ジーン?」


 半眼になったツグミに、ジーンは相変わらず感情の薄い目を向けた。


「ツグミはお堅い」

「普通だよ!睡眠薬とアルコールはダメ!絶対!」


 きっぱりと断られて、ジーンはイルカの抱き枕を強く抱きしめる。あの事件の夜以来、ジーンはずっと睡眠薬を処方されているし、睡眠薬を飲んでも眠りが浅いのか、ツグミが朝食とお弁当の準備に目覚める前には、ヘッドフォンを付けて電子ピアノを弾いている姿を見ることが多かった。


「何を聞いてたの?」

「オペラアリア。古い音源をマスターからもらった」


 あれだけ嫌な思い出が染みついていそうなのに、今も時々行っているピアノバーのマスターとジーンは音楽仲間のようだった。ギターを弾くというマスターのバンドに、キーボードで手伝いをするとか言っていた気もする。

 何百年も前の古典音楽は、時を経てもやはり素晴らしいらしいが、ツグミは聞いていると眠くなるから、音楽的なセンスはないのだろうと思う。ただ、ジーンが時々ヘッドフォンを外して聞かせてくれるピアノ曲は心地よいと思う。


「弾こうか?」


 気持ちを読まれていたようなジーンの言葉に、ツグミはその癖のある赤毛の頭を押さえた。


「寝ないと」

「そうだな」


 イルカの抱き枕と毛布を抱き寄せて、ソファから立ち上がったジーンにツグミが並ぶ。


「眠るまで傍にいるよ。いさせて」


 耳元に囁くと、ジーンは視線を裸足の足元に落として返事をしなかった。ツグミはジーンの部屋に一緒に入った。



 カウンセリングの回数もこなして、ジーンが現場復帰した後で、ツグミはまたアスラに呼び出された。


「ギアはリードと恋愛関係にあるのか?」


 単刀直入に問われて、ツグミは「いいえ」と首を振った。


「でも、俺が、あの人に特別な感情を抱いているのは、間違いありません」


 同性愛を差別したり冷やかしたりする上司ではないと分かっているので、正直に述べたツグミに、アスラは僅かに眉間に皺を寄せる。


「ジーン・リードの護衛からは外れてもらうかもしれない」


 私情が絡んではいけないからと告げるアスラに、ツグミは黙って頷いて了承した。


「管轄を移れとかは、ないですよね?」

「それはないと思う」


 署長に報告するであろうアスラとは、その場で別れた。昼前には辞令が出て、ツグミは元のパトロール警官に戻されていた。

 ジェレミーが「降格か」と笑って迎えてくれる。


「どうせ、俺のことは有名なんでしょ?」


 憎まれ口を叩くと、ジェレミーは声を上げて笑った。



 昨夜、ジーンは椅子を引き寄せてベッドサイドに座っているツグミが、ジーンのタブレット端末を借りて電子書籍を読んでいるのに、どこか居心地が悪そうだった。布団の中でイルカの抱き枕を抱いて、何度も寝返りを打っていた。電子書籍を読んでいるふりをしているツグミが、ジーンをずっと気にしているのを感じていたのだろう。


「やっぱり」

「ツグミ」


 声が重なって、ジーンが体の割りには大きめの手でツグミに譲ろうとする。


「俺、いない方が眠れるか?」


 邪魔かなとしょんぼりとしてしまったツグミに、ジーンはイルカの抱き枕を押しやって、毛布をめくった。


「こっちに来ないか?」


 かすれた声で誘われて、ツグミはどきりとする。下心が透けて見えたのかと思ったが、ジーンの空色の目には欲望や熱はなかった。


「いいの?」

「何が? 何かしたいのか?」

「ち、違うよ!違うからな!そんなんじゃなくて……ジーン、怖かったり、嫌だったりしないかなと、ほら、俺、でかいし、無駄に威圧感あるし」


 確かにツグミの体格はジーンよりもかなりいい。その背丈や体付きから、年はかなり上だがミルワースを思い出さないとも限らない。夜中にふと目が覚めて、ジーンがフラッシュバックを起こして震えていたら、ツグミはどうすればいいか分からなくなる。


「ツグミは、私に……私だけじゃなくて、誰にも、酷いことはしない」


 全幅の信頼にツグミは胸に広がる誇らしさと、僅かな寂しさを感じながら、ジーンの隣りに横になった。鍛えられた、女性とは違う筋張った細い腕が胴に絡んでくる。


「背中に腕回しても大丈夫?」

「触りまくられなければ平気だ」


 背中の傷の影響が残っているのか、あまり触れられることを好まない上に、特に口に出してはいなかったがドライヤーをかけたり大事にしていた長い髪も、背中にかかるのが気持ち悪いとばっさりと切ってしまったジーン。艶のある緩やかに波打つ赤毛を、掴まれたりしたのかもしれないと思うと、ツグミの腹の底が燃えるような怒りに支配される。

 そっと安心させるように、背中に腕を回して抱き寄せると、凹凸がない分、平たい胸がぴったりと合わさってしまった。ツグミの顎の下に頭を納めるようにして、ジーンは目を閉じた。

 元々整った顔立ちの男だと思っていたが、目を伏せると睫毛の長さが際立って、ツグミは妙に落ち着かなくなる。逆にジーンは落ち着いたのか、静かに規則正しく呼吸していた。


「おやすみ、ジーン」


 つむじにキスを落とすと、ほとんど眠りかけていたのか、ジーンがくすぐったそうに僅かに身を捩る。



 異動になることは、これだけ距離が近くなれば仕方がないと覚悟していたが、署でアレックスと話しているジーンが、ツグミに気付いて軽く片手を上げる瞬間など、胸に甘ったるい感情が湧いてきて、やはり上司の命令というものは偉大だとツグミは痛感した。こんなにふわふわと浮き足立っていたら、仕事どころではない。


「ツグミ、お前のパートナー、評判いいらしいな」


 誘拐犯を金の受け渡し現場で、一撃で仕留めたというジーンの話を聞きつけたジェレミーに、ツグミはきっちりと否定する。


「パートナーじゃなくて、同居人だよ」

「好きなんだろ?じゃないと、長々と同居とかできないよな?」

「好きだけど、あの人はどうか分からないの!」


 口にしてから、虚しくなって俯くツグミ。

 そういえば、ジーンのあの火事の日から、もう半年が経っていた。風が冷たくなって、ジャケットが必要な時期になったと思いつつ、あの春先のベランダに立っていたジーンの姿と、裸足で踏んだコンクリートの冷たさを思い出す。

 心臓が止まるかと思ったあの時。あのまま儚くジーンは死んでしまうのではないかと思っていた。今もまだ、目を放せばジーンは死んでしまうのではないかと思っている。


「分からないんだよ」

「じゃあ、デートに誘えよ。それが一番だ」


 ジェレミーのアドバイスに、ツグミはロッカーからお弁当を取り出しつつ、そういえばそんな平和なことをジーンとしたことがなかったと思い至った。



 相手は三十四歳の男性。趣味はピアノを弾くことと、音楽を聞くこと。好きなものはタバコ。元軍人で、妹を可愛がっている。

 その程度しか情報のないジーンをデートに誘う、となって、ツグミは頭を抱えていた。夜勤のジーンはまだ仕事が終わっていなくて、リリアと仕事上がりのロザリンドが署の近くのコーヒーショップでドーナッツを齧りながら話を聞いてくれていた。


「リリアは、ジーンが行きたいところとか、知ってるかな?」

「ショッピングモールは嫌いだって。人が多いから。服もできれば通販で買いたいくらいって言ってたし、靴も決まったメーカーの革靴しか買わないし、お買い物は好きじゃないみたいよ」


 たっぷりと生クリームの乗った甘いコーヒーを飲むリリアに、ツグミはため息を付く。


「クラシックコンサートとかは?」

「休みが合う日にチケットがとれなくて」


 ロザリンドの提案に、ツグミは顔を両手で覆った。


「映画も見てたら寝ちゃうって言うし」


 食事に誘おうにも、ジーンは激しい偏食である。どうしようもなくなったツグミに、ロザリンドが愛嬌のある目を瞬かせる。


「動物園とかは?ジーン、イルカの抱き枕、すっごい気に入ってたけど、実際のイルカも、動物もほとんど見たことないって言ってたよ」


 海軍 セーラー]じゃなかったからイルカは見たことがない、という物言いを、ロザリンドはジーンそっくりに素っ気なく言ってみせた。

 十二歳から軍学校に入っていたというジーンである。そういえば、父親は考えたくないような人物だったと思い至る。子ども時代があったとは思えない。


「ロザリンドありがとう! その線で行ってみる!」


 ツグミは意気揚々と席を立った。そして、まだドーナッツを咀嚼しているリリアを見る。


「ロジーが送ってくれるから大丈夫だよー。ロジーにね、アクセサリー作るの。デザインを一緒に話し合うんだよね」

「そうそう。だから、ツグはジーンのところに行っていいよ。夜番もそろそろ休憩時間だと思うし」


 楽しそうなリリアとロザリンドに、安心してツグミは警察署の方に戻った。

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