6.ダイヤで十四枚
安定剤のせいか、普段はツグミより早く目覚めるジーンが、朝ごはんの時間になっても起きて来なかったが、よほど心を疲弊したのだろうと、ツグミはレオーネとリリアに朝食を食べさせて、お弁当を持たせて送り出した。年末の忙しい時期だが、今回の事件とこれまでの事件を考慮してくれて、ジーンは年始まで、ツグミは3日間の有休がとれた。
「ジーンは大丈夫?」
振り返るレオーネに、「俺がそばにいるから」とツグミは安心させるように微笑む。リリアがレオーネをスクールバスの到着場所まで送り届けるのが、毎朝の習慣になっていた。
「行ってきます。ジーンに何かあったら、すぐに連絡して」
心配そうなレオーネの髪を撫でて、リリアも出かける。
早起きのジーンにしてはゆっくりと九時過ぎに起きてきたので、ツグミは朝ごはんの準備をした。ツグミもリリアとレオーネと軽く食べていたが、常日頃から、ジーン達の食事に合わせていると量も質も足りないので、こっそりとハンバーガーなどのジャンクフードを間食しているツグミである。何事もなかったかのように、ジーンと一緒に二度目の朝ごはんを食べた。
「仕事に行きたい……」
「あんたの仕事は安定剤飲んでてしていいもんじゃないからね」
「何かしてた方が気がまぎれる」
さっそく薬を放棄しようとするジーンに、ツグミは呆れ顔になる。
「ジーン・リードは
痩せた肩を抱くと、空色の目でじっと見つめられた。
「……シャワーを浴びてくる。ツグミ、しよう」
「え!?」
酔ってもいないジーンからの朝っぱらからのお誘いに、ツグミは驚くというよりも心配になってしまう。それに気付かぬ顔でジーンは食べ終えて食器を食洗器に入れて、バスルームに入ってしまった。
狼狽えたツグミは、携帯端末を持ち上げて誰に相談すべきか悩んだ挙句、押した番号は、以前に軽くカウンセリングをしてもらったフェリア・ガーディアだった。
『はいはーい、フェリアだよ』
軽い声に、本当に相談するのがこの人でいいのかと悩んだが、守秘義務は守るだろうとツグミは口を開く。
「ツグミ・ギアです……あの、昨日あんな事件があった今日で、朝っぱらからジーンに……その……」
『やろうって言われた!?』
相変わらずの直接話法にくらくらとしながら、ツグミは「そうです」と小さく答えた。
『リード分かりやすいなー。可愛いなー。不安なんだろうね。すごく怖いんだと思うよ。リードにとっては、男性との性行為って初めが最悪だったでしょ?その上、今回もこんなだったし、今、ものすごく不安で怖くなってるから、ちゃんと確かめたいだけだと思う』
まぁ、俺の個人的意見だけどね、と意外に真面目に言うフェリアに、ツグミは問いかける。
「どうすれば、いいと、思います?」
『別に、君とリードは婚姻関係にあって、お互いに求め合ってるなら、性行為はいけないことじゃないし、むしろ、楽しくて気持ちいいものであるべきだよな。してもいいんじゃない?でもさ、それより先に、ちゃんと、リードのことを愛してて、したいからするんだよって、教えてあげないとね』
「……参考にします。ありがとうございます」
礼を言って通話を切って、ツグミは携帯端末を置いてバスルームの扉を叩いた。髪が濡れないように纏めて、シャワーを浴びていたジーンが細く扉を開ける。
「どうかしたか?」
「入ってもいい?」
「どうぞ」
バスタオルを腰に巻いたジーンは、すぐにシャワーカーテンの向こうに入ってしまった。服を着たまま追いかけたツグミに、ジーンはシャワーを止める。ぽたぽたと暖かい水滴が上から垂れてきていた。
「ここで、するのか?」
真面目な顔で問われて、ツグミは首を緩々と左右に振る。
「するのは構わないし、俺はジーンのこと大好きだから、したいと思うよ。でもさ、あんた、薬がいるような状態なんだよ、今」
「今日は飲んでない」
「だから、心配なんじゃないか!」
声が荒くなってしまって、ツグミはしまったと思った。案の定、ジーンは空色の目に薄らと困惑の色を宿している。
「私は、ツグミを怒らせたか?」
察するのが苦手と自称しているジーンは、ツグミの声が大きくなるだけで怒らせてしまったと思うようだった。服を着ていないという状況だけでも、やや心細そうなのに、更に怯えさせたとツグミは反省して、ジーンの腕をとってそっと抱き寄せる。
「服が濡れる……」
「構わないよ。俺は、あんたを責めるつもりなんて、少しもない。俺は怒ってないよ。俺は、あんたに理不尽に怒ったりしない。ちょっと、声がでかいだけなんだ。ごめん」
バスタオルを脱衣所から取って、ジーンの体を拭いていると、「まだ、準備が終わってないから……もう少し、待ってくれ」と消えそうな声でジーンが呟いたのに、ツグミはジーンをバスタオルで巻いて、もう一度抱きしめる。
「ジーン、するのはいつでもできるから、まず、話をしよう?」
促されても、目を伏せたままで視線を合わせようとしないジーンの額に、頬に、瞼に、ツグミがキスを落とした。髪を括るゴムに指をかけて引き抜いてしまうと、鮮やかな赤い髪がふわりと広がる。
「あの男に初めてされた時……すごく怖くて、痛くて、何が起こってるか分からなくて……もう二度と同じように傷付けられたくなかったから、二回目からは、あの男の言う通りに……全部、言う通りにしてきたんだ。どうすれば、怪我をしなくて、痛くないか、それしか、考えてなかった……」
目を合わせないジーンの細い白い首の喉仏が、上下した。淡々と感情なくかすれた声で告げられる事実に、ツグミが泣きそうになる。
「ベケットに、同じことをしろと言われたら、してた」
完全に目を閉じてしまったジーンの髪を撫でて、ツグミはそのまま消えてしまいそうな白い体を必死に抱き留めていた。
「あんたが傷付かない方法を選べる賢い人で良かった。でも、つらかっただろう。もし、そうなってても、俺は変わらずあんたを愛してるよ」
「ベケットが、私をネットで性的対象として見ていたと言った時に、そんな人間がまだたくさんいるのかと思って……」
「年下だし頼りないかもしれないけど、何があっても、俺はあんたを責めたりしない。誓う……誓わせて。あんたが、生きて俺の元に戻ってきてくれる限り、俺はあんたを愛し続ける。あんたが、命や自分の体を粗末にしない、賢くて強いパートナーで良かったと、心から思ってるよ」
肩に落ちてきた雫に、空色の目をようやく開けたジーンが、ツグミの頬を撫でる。
「泣いてる?」
「あんたが泣かない分は、俺が泣くの」
すんと鼻を鳴らしたツグミの頬に、ジーンがキスをした。
裸のままのジーンを抱き上げてベッドに連れて行き、安定剤を飲ませて、ツグミは自分も下着一枚になって何もせずに素肌で抱き合う。
「したいんじゃなくて、抱き締めて欲しかっただけだろ、あんた」
ツグミの指摘に、ジーンはツグミの分厚い胸板を確かめるようにぺたぺたと触って答えなかった。
ジーンの体温に引き込まれて眠ってしまっていたツグミは、電子ピアノの微かな音に目を覚ました。レオーネの部屋の扉を開けて、ジーンが電子ピアノを弾いている。声がかすれているせいなのか、それとも元々の性格なのか、あまり声を荒げたりするイメージのないジーン。感情のふり幅もあまりないイメージがある。そのジーンのピアノは、どこか密やかで、内緒話をしているような不思議な感覚を覚えた。
「少し落ち着いた?」
服を着て近寄ると、ジーンは手を止めて空色の目を僅かに和ませてツグミを見上げる。それから、ふと目を伏せた。
「情けないことを、言った気がする」
「そんなことないって!俺、嬉しかったよ。ジーンがあんなに自分のこと話してくれて。なんか、信頼されてるんだなって思った!って、ごめん、また声がでかいね」
慌てるツグミに、ジーンが僅かに笑ったような気がして、ツグミはほっとする。
「何を弾いてたの?」
「古いクリスマスソングだ……クリスマスにはろくに弾かなかったと思って」
「続きを弾いて」
ツグミの願いに答えるように、ジーンはピアノをつま弾いた。柔らかな音が密やかに部屋に満ちる。最後の一音まで丁寧に弾き終わったジーンは、電子ピアノの電源を切って、蓋を閉めた。
昼ご飯の準備にキッチンに行ったツグミにくっついて、ジーンもキッチンに立つ。ジャガイモと人参を渡すと、流しで洗ってから、ジーンは器用にナイフでくるくると剥いてしまう。
調理自体は得意ではないジーンだが、果物や野菜の皮を剥くとか、刻むとかは、手先が器用なのだろう、とての丁寧に手早く仕上げる。玉ねぎも刻んでもらって、ツグミは簡単にチャーハンと野菜スープを作った。生野菜はまだ受け付けないようだが、火を通した野菜は食べられるようになってきたジーン。レオーネの教育のためにも、好き嫌いは極力なくそうと努力しているようだったが、肉類はやはりあっさりしたものでないと無理だった。
簡単な昼食を終えて、ジーンは「もう落ち着いたから」と安定剤を飲みたがらないのに、ツグミは「少しでも不安になったら、頓服を飲んで」と言い聞かせて、渋々認める。
タブレット端末に届いたセリカから、サイトの管理者を突き止められなかったが、捜査が入った時点でサイトが消えたという報告が入っていて、ジーンはちらりとツグミを見た。メールに返信して、自分も捜査に加わりたいと名乗り出るつもりなのだろう。
「休暇中」
言われて、ジーンは目をそらした。
「あ」
唐突にジーンが小さく声を上げて、ツグミは何事かとジーンの顔とタブレット端末を交互に覗き込む。
「お前、初めて、私に愛してるって言った」
言われて、ツグミは不覚にも赤面してしまった。
「い、言ってなかったっけ?」
頷かれて、なんとなく理不尽な気分になって、ツグミはジーンに詰め寄る。
「ジーンは、俺に、好きも、愛してるも、言ってない!」
視線をそらしてだんまりを決め込んでしまうジーンに、ツグミはむくれた顔をしてから、不意に笑い出した。
「ジーンが俺のこと、すっごい愛してるのは知ってるよ」
驚いたようにツグミを見たジーンの眼元が、僅かに赤くなっているのに、ツグミはくすくすと笑う。
「あんたが、俺以外とセックスしたくないのも、知ってる」
音を立てて軽く唇にキスすると、ジーンが憮然としていた。
「それは、配偶者なら普通だろう」
「浮気とか、考えないんだな」
「浮気したら、別れる」
「しません!」
躊躇いのないジーンの断言に、ツグミは両手を上げて降参の意を示す。
「レオーネも、リリアも、今、昼食かな」
ぽつりと呟くジーンに、ツグミも心配そうに出かけて行った二人に思いを巡らせた。具体的に何をされたとは告げなかったが、ジーンが事件に巻き込まれたことは説明していた。具体的な説明がなかったことでリリアは察したようだが、レオーネはとにかく不安がって、眠っているジーンの姿を何度も見に来ていた。
「ツグミ、これは私が超えないといけないことだと思う」
筋張った手が、ツグミの大きな手を握って、空色の目が真っ向からツグミを見つめる。
「年が明けて、休暇が終わったら、シェンナに同行してもらって、ミルワースに面会する」
「ジーン、それは……」
「一生あの男の影に付き纏われるのは嫌なんだ」
ミルワースとダニエル・リードがジーンから奪ったものの大きさは、ツグミには計り知れない。ダニエル・リードはジーンが生まれた瞬間から、ミルワースは軍に入った瞬間から、ずっとジーンの人生に覆いかぶさる闇だったとすれば、それと対峙することを決めたジーンを応援すべきなのかもしれないとは思ったが、昨日の憔悴ぶりをもう一度見たいとは思わない葛藤があった。
「今回は、何もツグミに隠しごとはしない。私を信じてほしい」
真剣なジーンの声に、ツグミはジーンの体を抱きしめる。
「俺も一緒に戦わせて」
ツグミの了承に、ジーンは息を吐いた。
「ありがとう」
学校から帰って来たレオーネは、ソファに座っていたジーンに抱きしめられて、お帰りのキスを受けて、嬉しそうに飛び跳ねてツグミのところへやってくる。
「ジーン、ちょっと元気になったみたいだね。良かった。さすが、ツグミ!」
よほど安心したのか、小さな体で飛びつかれて、ツグミはレオーネを抱き留めた。
「お帰り」
「ただいま、ツグミ」
ようやくレオーネにも笑顔が戻って、ツグミは安心する。
「ただいまー! 晩御飯なにー?」
続いて帰って来たリリアは、ジーンがソファにいるのに気付いて飛び付いた。あまりの勢いに受け止めきれず、ソファに押し倒されたジーンが、「手加減してくれ」と嘆じるのに、リリアが涙目で薄い胸板に顔を埋める。
「ツグミに慰めてもらったのね!ツグミ、偉い!」
「……どういうことだ?」
呆れた様子のジーンにリリアは、「顔色が良くなってるもん。良かった、さすが、愛の力って偉大だったわ」と大げさに天井を仰いだ。それから、ジーンの腕の中でいそいそと携帯端末を取り出す。
「ロジーにメールしないと」
「あ……そうだな。私もアージェマーとガーディアに連絡しておかないと」
心配をかけただろうと、団子のように絡まり合って、ちまちまと携帯端末でメールを打つ兄妹に、ツグミが吹き出してしまう。
「二人とも、本当に、そっくりだよね」
「兄妹だからな」
「ね!」
絡まり合う兄妹のそばで、羨ましそうにうろうろしているレオーネを捕まえて、ツグミが抱きしめた。
「レオーネ、こっちはこっちで仲良くしよう」
「親子だからね!」
嬉しそうに笑うレオーネに、ツグミは幸せそうな笑顔を向けた。
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