5.クラブで十四枚
可愛いのかと問われれば、少し違うと思ってしまう。恋人と公言していいのか分からないが、自分に対して嫌な感情は抱いていない年上の男を……自分が好意を抱いている彼を、ツグミはちらちらと見る。タブレット端末では入力と処理が追いつかなくなったのか、ノートパソコンを持ち出して、薄く軽いそれを膝に乗せてソファでひたすら仕事に打ち込む、鮮やかな赤毛に気だるそうな空色の目の男性。小柄で痩せているが、顔立ちや仕草は時々ツグミを落ち着かなくさせるほどに色気がある。
表情が乏しいので忘れがちだが、顔立ちは端正で、物言いは率直で潔い。誰かに対して大きく態度を変えることはなく、性格も性質も非常に平坦で、良く言えば平等、悪く言えば執着がない。
どちらかといえば、兄と父が死んでから意地になって努力に努力を積み重ねて警官になったツグミと対照的に、ジーンは高い実践能力と判断力を持った仕事では鋭いイメージのある人間だった。それが、家に戻るとチャーハンに混ぜたピーマンと人参とベーコンを前に、僅かにためらった後、何も言わず何も気取られていないと思って食べていたりするのが、やたらと愛おしかったりする。
「どうした?」
視線を感じたのかパソコンからツグミに目を向けてくるジーン。三十四歳という実年齢を忘れさせてしまうのは、彼がきれいな顔立ちをしているのと、存在が希薄で浮世離れしているからだろうか。
「家に仕事を持ち帰るのは、良くない」
「仕事じゃない。論文を纏めている」
「ろ、んぶん?」
「アージェマーを見習って、もう少しスキルを増やそうかと思って」
スナイパーの仕事はいつまでできるか分からないし、いざ仕事を失ってから次を探すとなっても、年齢的に難しいかもしれない。
「あんた、意外と面倒見がいいから、教官とか向いてるかも」
「あまり、人に関わる仕事はしたくない」
疲れる、と吐いた息が悩ましげで、ツグミは唾を飲み込んだ。そっと傍に寄ると、ジーンは書きかけの論文を保存して、ノートパソコンをぱたんと閉じてローテーブルに置く。筋張った肩に手を添えて顔を近づけると、額に手を押し付けられて拒まれた。
「キスがしたいなら、部屋に行こう」
確かにリビングでいちゃついていたら、リリアに見られかねないが、部屋に行ったら行ったで、二人きりになってしまうので、勢い余ってそれ以上のことをしてしまいかねないツグミは、ぐっと耐えた。代わりにジーンの体を抱き寄せる。リリアが選んでいるというオーガニックシャンプーのシトラスの香りに、少しだけ顔を埋めてから、また拒まれる前にツグミは体を離した。
立ち上がったジーンが、くしゃりとツグミの髪を撫でてゲストルームに手招きする。扉を開けたままそこに入ったツグミは、電子ピアノの椅子を調整しているジーンの後ろで、来客用のベッドカバーのかかったベッドに腰掛けた。音量を低くして、ジーンがゆったりと電子ピアノをつま弾く。音楽のよく分からないツグミだが、ジーンの弾くピアノはとても心地よく耳触りが良いと感じる。
無理に距離を詰めるよりも……もっと深く繋がりたいという欲は常にあるが、それよりも、ただ傍らにいて穏やかな気持ちになれるのが、本当に幸せなのかもしれないとツグミはぼんやりと思った。
リリア、ジーン、ツグミがリョウの病室を訪れると、そこにはハンもいて、ゆったりと微笑んだサキが赤ん坊を抱いてそっと揺らしていた。まだ赤い顔で、小さな目を開いてサキの顔を見ている赤ん坊に、ハンが脱げそうになっているベビー帽子を直してあげる。
「ちっちゃーい。可愛い、可愛いね!」
はしゃぐリリアに、ジーンが「お前はもっと小さかった」と静かに言った。軍学校の休暇に未熟児で保育器に入っていたリリアを見に来たジーンは、看護師に「お兄さん、どうぞ」と言われて小さな小さなリリアを抱き上げた日のことを思い出す。まだ名前の付いてなかった小さな小さなリリアは、ジーンより少し薄い水色の目で、泣きもせずジーンをしばらく見つめて、それから心地よさそうに眠ってしまった。
どれだけ抱いても飽きることのなかった年の離れた妹。父が出張の時にこっそりと家に戻って、庭に回ると、ストロベリーブロンドの真っ直ぐな髪を揺らして、小さなリリアが跳ねて駆けてくる。かなり大きくなるまで、何度も何度も抱っこした。
「お父さんより、ジーンの方が、ずっとお父さんみたいだった」
十七歳年の離れた妹の呟きに、ジーンは眼元を僅かに緩ませてその頭を撫でた。
「いらっしゃい、リリア、ジーン、ツグミ」
穏やかにハンに声をかけられて、ジーンとリリアは赤ん坊を抱くサキに歩み寄る。
「ツグちゃん、今ね、サキにこの子の
ベッドから起き上がったリョウに、サキが困ったように微笑んだ。
「あたしでいいのかね?」
「俺も、リョウも、サキを親友だと思ってるから、俺たちに何かあったら、サキにだったら安心だから」
「そんな重大なこと……」
大げさなハンの物言いに、驚くサキに「大事な娘だから、大好きなサキに祝福してほしいんだ」とリョウが笑った。
すぐに返事をできないでいるサキに構わず、リョウがちらりとハンを見上げる。ハンはサキから赤ん坊を受け取った。
「名前が決まったんだ」
「そうなんですか?」
目を輝かせるツグミに、ハンが照れ臭そうに笑う。
「名前は、リラ。リラ・ギア、だよ。よろしくね、ツグちゃんおじさん」
「あ、そっか、俺、おじさんか」
まだ実感の湧いていないツグミは、姪の顔を覗き込んだ。新生児の視力はあまり良くないと言われているが、聴力はお腹の中にいる時からしっかりあると言って、リョウはジーンからデータをもらってクラシックの曲を大きなお腹に聞かせていた。
「よろしくね、リラ。ツグミだよ」
囁くと、ハンの腕の中で赤ん坊がむずがる。ジーンが携帯端末を出して、ピアノ曲の録音を流す。
ラフマニノフの「リラの花」
「わざわざ録音してきてくれたの?」
それがジーンの演奏だと分かったようで、リョウが嬉しそうな顔になった。
「お腹にいた時に、これを流してたら、すごく活発に動いてね」
プロが演奏したデータよりもそのピアノの音は、柔らかく優しく響いていた。
いつものように、カルーアを飲むアージェマーの隣りのスツールに腰掛けて、ジーンはノンアルコールのビールをちまちまと飲んでいた。ノンアルコールのビールなんて、ただの炭酸だろうとアージェマーにからかわれたが、前によく分からないままに甘いものを頼んでしまって後悔したので、今度は外れのないようにしたのだ。
どこから話そうかと珍しく迷っているジーンに、アージェマーが問いかける。
「ツグミに何か言われたのか?」
コーヒーショップで具合が悪くなった日の後に、ツグミに今できる返事はしたという報告はしていたが、どこか楽しむような雰囲気のアージェマーにジーンは病院から帰る車の中でのツグミの真剣な言葉を思い出していた。
「姉さんとハンさんを見て思ったんだけど、婚姻届を出したいって、思ってる」
「誰と?」
反射的に言ったジーンに、後部座席のリリアが盛大にこけた。
「この流れでジーン以外だったら、私、ツグミを蹴るわ」
「う、うん。そうだよ」
ツッコミを入れたリリアに、ツグミが言葉を添える。ジーンは未知の生き物のようにツグミを見つめてから、ゆっくりと首を傾げた。
「必要性を感じない」
「俺は必要だと思ってる。少し考えてほしい。もし、ジーンやリリアの身に何かあったとするだろ?俺は、ジーンとリリアの一番近くにいる人間だけど、多分、連絡は真っ先にあんたの父親、ダニエル・リードに行くんだ」
俺じゃなくて。
はっきりと言ったツグミに、ジーンは眉間に皺を寄せる。
同性愛に差別がなくなってきているこの時代とはいえ、同性の恋人というものは、まだ軽視される傾向があった。婚約者、ならまだしも、恋人というものは定義としても曖昧で騙りやすいところがあるからかもしれない。
だが、ジーンとツグミはまだ肉体関係も持ったことはないし、「恋人」という言葉に嫌な思い出のあるジーンはツグミとの関係性にまだ名前を付けてはいなかった。
それを一足飛びに結婚、と言われてしまうと、僅かならず抵抗がある。
「それは、私に都合が良すぎる」
小さく呟いて、ジーンはこの話題は終わりだと口を閉じた。
「本当に、ツグは生真面目だね」
半ば呆れたような、半ば感心したようなアージェマーの言葉に、ジーンはため息を吐いた。生と死の境界線すらあやふやな雰囲気を纏ったジーンは、きっちりと関係性を固めてしまうことは頭にない。真面目で若いツグミにしてみれば、お付き合いをすればその先に結婚と考えるのだろうが、ジーンはただ曖昧なままにぼんやりとこのまま時間が過ぎていくだけで、十分すぎるほどだった。
「論文は完成したのか?」
コメントをしにくいと黙り込んでしまうジーンに、アージェマーが別の話題を流す。ジーンという男は、気を遣っている時はできうる限り喋るが、仲が良くなってしまえば極端に口数の減るタイプでもあった。
「選考に通った」
「それはおめでとう」
グラスを持ち上げたアージェマーに、ジーンは軽く自分のグラスを持ち上げる。
「ジーン、物事には表があれば、裏がある。逆を考えてみたらどうだい?」
「逆?」
言われて、ジーンはアージェマーを見た。
「ミスター・×××・ミルワースがあなたを『恋人』と呼んで連れ去ろうとした時に、ツグミがあなたのパートナーだったら、『彼はツグミのパートナーだ』と引き戻せた」
恐らく、ツグミがことを性急に進めたがっているのは、そのせいなのだろうとジーンも薄らと感付いてはいた。
「だが、逆、とは?」
「ツグミ・ギアに何かあった場合だ」
ツグミとしてはジーンやリリアに何かあった場合、配偶者である、配偶者の妹であるという立場を大いに使えるようにしようという考えなのだろう。逆に、ツグミに何かあった場合、ジーンはただの同居人もしくは大家に甘んじなければいけない。
「そうか……そっちには、考えが及んでなかった。ありがとう、アージェマー」
今度の礼はブロッコリーでいいかと真面目に問いかけるジーンに、アージェマーは「夕飯のおかずが増えそうだな」と同じく真面目に答えた。
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