6.ダイヤで十四枚
出動から帰って来たジーンとアレックスが何か話していて、ふっとジーンの眼元が緩んだ。以前なら気付かなかっただろうが、笑ったのだとツグミには分かる。スナイパーであるジーンが出動するということは、それは緊急事態が起こったということで、この街で誰かが銃弾に倒れたかもしれないということだった。
人を撃った時も撃たれた時も、警察官にはカウンセリングに行く義務がある。それは「人を殺す」ということを、防衛のためにでも許された人間の権利でもあった。事実、ジーンがカウンセリングの予約をとっていることは多い。前まで頻繁に通っていた警察ラボのカウンセラー、アージェマーとは友達になったということで、ジーンは別のカウンセラーを探し出していた。個人的な付き合いに仕事は絡めたくないというジーンの言に、ワーカーホリックのアージェマーは笑ったらしい。
周囲への対応が明らかに変わったジーンに、ツグミは喜びながらも胸の奥に苦い独占欲を押し込める。
「俺って、心が狭いのかな」
年は近いが上司であるロザリンドに書類を持っていくついでに呟くと、ロザリンドは愛くるしい目を丸くした。
「ツグは、ジーンのこと言えないよね」
「え? どういうこと?」
思わず聞き返すツグミに、タブレット端末の書類を転送して自分のパソコンで確認しながら、ロザリンドが「だって」と唇を尖らせた。
「人のこと、人のことばっかりだよ、ツグ。もっと欲張っていいと思うのにな」
「俺は充分欲張ってるよ」
書類にタッチペンでサインをもらって、ツグミはロザリンドに礼を言う。
「そういえば、生まれたんだってね。おじさん、おめでとう。次の休みに赤ちゃん見に行くから、リョウにも伝えて」
お祝いの言葉に、ツグミは照れ臭そうに微笑んだ。
声を張り上げて呼んだ。
――スサキ兄さん!
行ってしまいそうな背中に、涙が零れる。必死になって追いかけるが、どうしても距離が縮まらない。
行かせてはいけない。死んでしまう。
行かないで、置いて行かないで。
ふわりと、シトラスの香りがした。ピアノの音が鳴り響く。
泣いて立ち止まった小さなツグミに、ジーンが筋張った手を差し伸べていた。
「踊るか?」
涙を拭いて、頷いて、ツグミは手を取る。
優しい音と腕に、抱き締められている心地がした。
「落し物ですよ」
声をかけられて、ツグミはジェレミーにその場に待機するように手で伝えて、黒髪の男性に近付いた。差し出されているのは、タブレット端末だった。
「それでは、落し物預り所に届けますね」
署の前で車から降りて中に入ろうとした時に、声をかけてきた、30代くらいの男性。すっとその指が液晶の上を滑った。
ロック画面に映し出されている、白と赤。
伏せられた目、蒼白な顔、シーツの上に広がる鮮やかな赤い髪、何も身に着けていない裸の白い体……そして、その首に巻き付いた真っ赤な布。
「恋人に赤いスカーフを贈るといいかもしれませんね。きっと似合うでしょう」
不敵に笑うその顔に、ツグミは眉間に皺を寄せた。ジェレミーには、大丈夫だからと先に行くように促して、その男性の後に付いて行く。コーヒーショップに入って、ごく自然にコーヒーを買って、男性はテーブル席に付いた。何も買わないままにツグミはその正面に座る。
見ないようにと言われていたし、周囲も気にかけてくれていたから、ツグミはジーンの事件資料に目を通したことはない。それがどんな内容か予測はついていたが、実際に目にすると頭に上った血が下がる気がしなかった。
「俺に何の用だ?」
声が低く威圧感を持ってしまうのは仕方のないことだった。それに黒髪の男はくすくすと笑う。
「彼、美人ですよね。羨ましい。こういうのが大好きな人達にはたまらないでしょうね」
「警察署の前で警察官を脅して無事でいられると思ってるのか?」
「困りましたね。一度、ネット上にでも上げてしまったら、こんな素敵な絵は、きっと際限なく広がるでしょう。トイレに入ってこられただけでパニックになるような繊細な彼は、これを見たらどう反応するでしょうね」
何を知っていると詰め寄りたくなるのを、ツグミは必死に抑えた。動揺を見せれば相手の思うつぼだ。きっとジーンはその画像がネットで流れても、動揺はしないだろう。裁判の資料として出された映像の方がよほどきわどかったと話に聞いている。それに、パニックになったとしても、きっと支えられる。支えてくれる相手は、アージェマーにロザリンド、サキ……たくさんいるはずだ。
最悪の事態にはならない。
息を整えたツグミに、黒髪の男性はタブレットを長い指で操作する。
映し出されたのは、赤みがかった茶色と白と赤。
「あ……」
思わず声が漏れて、ツグミは自分が冷や汗をかいていることに気付く。それは明らかに性的暴行を受けている男性の動画だった。耳鳴りがして音が聞こえないが、虚ろな目で大きな背中の相手に揺さぶられているその人物は。
「それを、どこで手に入れた?」
「意外と、情報というのはどこからでも漏れるものです」
十一年ぶりに見たその姿。
「スサキ兄さん……」
「気に入っていただけて良かった。大丈夫です、まだ、どこにも流していません。交渉をしましょう。ね」
アルカイックスマイルを浮かべる男性に、殴りかかりそうになってツグミは必死に自分を抑えた。リョウにもアケビにも、絶対にこれは見せてはいけない。警察ラボのフェリアを通してツグミが手に入れた資料の中にも、こんな動画は存在していなかった。
「何をさせたいんだ?」
険しい表情で問いかけたツグミに、男性は肩を竦める。
「あなたが、同じことをされる、というのはどうでしょう?そういう趣味の方には、あなたみたいな体格の方は、たまらないらしいですからね」
「冗談じゃない!」
テーブルの上に置いてあった相手のコーヒーを掴んで、ツグミは思い切りその不敵な笑顔にかけてやった。熱いと言って払いつつ、まだ男性は仮面のような美しい笑顔を浮かべている。
「あなたのこういう姿を見たら、彼はどんな顔をするんでしょうね。楽しみです」
いずれまた、と立ち上がり、備え付けの紙ナプキンでコーヒーの染みを拭きつつ、男性はコーヒーショップを出て行った。
肩を掴まれて、揺り動かされて、ツグミは目を開けた。間近にジーンの空色の目が見える。何か言おうと思ったら喉がからからで、声が出なかった。
「ツグミ、どうした?」
ものすごくうなされていたと言われて、ツグミはジーンの体を抱き寄せる。暖かさと馴染んだ匂いに少しだけ安心した。
「今日の昼間に署に戻ってから、様子がおかしかったって、ロジーが言ってたけど、何かあったのか?」
宥めるように髪を撫でるジーンに、ツグミは説明しようと口を開く。言葉を待つジーンの姿が、あのロック画面に表示された赤い布で首を絞められた蒼白な顔と重なった。
「ツグミ?」
怪訝そうに首を傾げるジーンの膝に、ツグミは顔を埋める。
「嫌な夢を見たんだ」
「それだけか?」
「怖くて……」
あの夜、病院に運ばれたジーンの首に残っていた赤い痕。死んだふりをしたと言っていたが、本当に死んでいてもおかしくはなかった。
優しい手が髪を撫で、つむじにキスを落とす。
「私には話せないことか?」
「違うけど……違うけど、今はまだ落ち着かなくて」
相談するべきだと冷静な部分が言っているが、あの兄の姿を見たショックが抜けきっていないのか、どうしても口に出すことができない。
「あんたは、平気なのか? あんた、ミルワースに酷いことをたくさんされたんだよな? 平気なのか?」
顔を上げたツグミに、ジーンはゆるりと両腕を広げた。
「試してみるか?」
一瞬、その言葉の意味が分からずにツグミは目を瞬かせる。眼元を僅かに緩めて、ジーンは告げた。
「いいよ。おいで」
ぞくりとするような妖艶な掠れた声に、ツグミはジーンの意図に気付く。
「婚姻届けにサインするのに、何もしてない、じゃあんまりだろう?」
にこりと微笑んだジーンの体を縋るようにベットに横たえて、ツグミはその唇に強く唇を押し当てた。
ベッドサイドのテーブルにジーンが手を伸ばす。届かない指先が宙を掴むのを見て、ツグミはシガレットケースを手渡してやった。親指と人差し指で一本摘まんで、唇にタバコを咥えるジーン。裸のままのそのそとベッドから降りようとするその腰に、ツグミが腕を絡める。
「シーツが焦げる」
「もう少しだけ」
火の付いていないタバコを唇から外させて、ツグミはジーンにキスをした。ジーンの唇は渇いていて柔らかく、そして少し苦い味がする。角度を変えてゆっくりと舌を絡めて長いキスをしてから、ようやくツグミはジーンを解放した。
ベッドに腰掛けてジーンはツグミの手からタバコを受け取って、火をつける。ゆっくりと深く吸い込んで、細い紫煙を吐くジーン。灰を灰皿に落としながら、ツグミをちらりと見た。
「隠しごとはやめてくれ。私は察しが良くない」
話せと詰め寄られて、ツグミはぽつりぽつりと昼間の黒髪の男のことを語った。ジーンの表情に僅かに険しさが浮かぶ。
「ジャンマリーの言ってた通りか」
リリアを取り戻すために、ジーンを完膚なきまでに叩きのめすために、ダニエル・リードが動き出した。
「ツグミ、私が守る」
吸い終わったタバコを灰皿に突っ込み、ジーンはベッドに寝転ぶツグミの裸の背中をさすった。
「うん……」
目を閉じてツグミはジーンの声を聞く。
「とりあえず、明日は午後に半休をとろう」
婚姻届を出しに行くからと告げるジーンに、ツグミは安堵して、長く息を吐いた。
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