12.スペードで十五枚

 セキュリティの厳重な三十五階建てのマンションの二十一階、四LDKを、ジーンは軍の退役金とミルワースからの慰謝料でぽんと購入してしまった。その値段が恐ろしくて聞けないツグミに構わず、フローリングの日当りのいい部屋をツグミに示すジーン。


「ここが、ツグミの部屋だ。隣りが、私。リビングを挟んで私の正面の部屋がリリア、ツグミの正面がピアノ室兼ゲストルームだ」


 防音がしっかりしているから、電子ピアノで少し音を出しても大丈夫だと少し嬉しそうなジーンの姿に、ツグミもなんとなく嬉しくなる。


「家賃とか、どうする?」


 ツグミの狭い部屋は賃貸だったが、ここはジーンの持家なのだからというツグミに、ジーンは小首を傾げた。


「私はツグミに払っていなかった」

「分かった、食費は俺が全部持つ」


 食事関係の言葉に、自分の部屋を見に行っていたリリアが、顔を出して笑顔になる。


「毎日、ツグミのご飯食べていいの?」

「……毎日は、悪いから、私も少しは練習する」

「やだ!ジーン、鍋溶かすんじゃない?」

「せめて、焦がす、で勘弁してくれ」


 唇を尖らせるリリアに、真面目に答えるジーン。


「俺が作れる時はできるだけ作るよ。お弁当も、二人分も三人分も変わらないし」

「本当!?ツグミって、最高ね」


 ジーンより少し色の薄い水色の目を輝かせたリリアに、ジーンがため息を付く。


「ツグミは家政夫じゃない」

「いいよ。こんなに喜んでもらえるなら、俺も嬉しい」


 笑顔を見せるツグミに、リリアが「やっぱり、最高!」と小さな体で気軽にハグをして、また自分の部屋を見にぱたぱた駆けて行った。高校を転校する手続きもほとんど終わっている。前の学校の友達と離れるのは寂しいと言っていたリリアだったが、ジーンと暮らせるならと割り切ったらしい。


 厳しい門限と、お小遣いもほとんど与えられず、父親が与えた物だけを身に付けていたという17歳の少女は、ジーンに頼み込んでビーズや天然石を買ってもらって、保護されていたリョウの家ではひたすら、アクセサリー作りに熱中していた。装飾品のデザイン学校に行きたいと言っても、父親は耳を貸さなかったらしい。

 医学部か法学部にと言われて、ひたすら勉強していたリリアだったが、並以上の学力はあるが学年で上位に食い込むほどではなく、暴力こそ振るわれなかったが、父親はほとんどリリアを家に閉じ込めて、その上で放任していた。


「そういえば、アデーレは?」


 リリアの母親の名前をジーンが問うと、リリアはあっさりと「分かんない」と答えた。離婚はしていないが、夫を恐れてずっと家に戻っていないらしい。かつては、軍人でダニエル・リードの部下だったアデーレ・ベロッキオ。赤毛でイタリア系という、ジーンの母親を思わせる義母に、軍学校に入ってからほとんど家に戻ることのなかったジーンはあまり記憶がないが、こうして聞かされると彼女も被害者だったのかもしれないと思う。


「ねぇ、ジーン、ベッドはどうするの?キングサイズのツイン?ツグミは大きいけど、ジーン大きくないから、クィーンサイズでもいいんじゃない?」

 無邪気に問いかけたリリアに意味が分からないと首を傾げたジーンと、しっかりと意味が分かってしまったツグミが「筒抜けなのかよ!?」と胸中で叫んだのはここだけの話である。




 買ってきたノンカフェインのハーブティと、アージェマー用にコーヒーを持って、ジーンは毎度開けっぱなしの扉を潜った。両手がふさがっていたので、足で扉を閉めて、アージェマーにコーヒーを手渡す。


「おお、ありがとう」

「早く、そっちが飲みたい」


 常時安定剤を飲むことはなくなったが、フラッシュバックが起きた時や急に不安定になった時のために頓服が出ているので、カフェインはあまり摂取しないようにとアケビに言われているジーン。薬なしでは夜に深く眠ることができなくなっていたので、特にカフェインは控えていた。

 独特の香りのハーブティを啜ると、香りで少し気持ちが落ち着くような気がする。


「今日でカウンセリングも終わりだね」


 コーヒーを一口飲んで切り出したアージェマーに、ジーンは暖かい紙カップを両手で持ってアージェマーの顔を真っ直ぐ見た。


「ドクター、あなたが不快でなければ、個人的にカウンセリングか……お喋りでもいい、もう少し続けたいんだが」

「私と友達になりたいってことかな?」


 やや冗談めかして言うアージェマーに、ジーンは淡く微笑んで頷く。


「場所はあなたの行きつけの飲み屋でも構わない。まだ、飲めないが」


 元々アルコールをそれほど摂取するタイプではないジーンは、静かに告げた。


「考えておくよ。ところで、ツグミとの同居を始めたのだって?」


 アージェマーに問いかけられて、ジーンは目を瞬かせる。


「それ、たくさんの人に言われるんだが、元々、同居していたという認識は、私の間違いだったのか?」

「確かに、元々同居していたな」


 笑ってから、「どういう心境の変化だ?」と問いかけるアージェマーに、ジーンは不思議そうに首を傾げた。


「保留でいい、と言ったのは、ドクターではなかったか?」


――考えるところがあるなら、保留にしておけ


 入院中にかけた電話で、そう言ったのは確かにアージェマー本人だった。

 恋愛関係を保留にしておけ、というアドバイスを、ジーンという独特な思考の男は、今の関係を維持しておけ、と捉えたらしい。同僚という関係もそのまま、同居もそのまま。

 ストーカーからジーンを保護していたツグミの部屋にジーンが住むのと、ジーンが買ったマンションの一室にツグミが住むのとでは意味合いが違うなど、ジーンの脳内には少しも感覚として存在していなかった。

 ツグミは生殺しかと、アージェマーが胸中で笑ったかどうかは分からない。


「引っ越しが終わって、もう少しで荷物も片付く。新居祝いのパーティに良ければ来てくれ」


 詳細はメールすると、飲み終わったハーブティのカップを握り潰して、ジーンは書類の最後の欄にサインをもらってカウンセリングルームを出た。



『不相応の部屋を買ったらしいな』

「祝いは不要だ」


 未登録の番号からの着信に、ジーンは相手が誰か見当が付いていた。


『ジーナに似て、淫乱で、私に懐かない』

「淫乱かどうか、試してみるか?」


 静かな怒りを込めて、挑発するジーンに電話の主は不快そうに笑ったようだった。


『そのまま、リードの名を名乗るのをやめてくれたら嬉しいんだがな』

「そうだな。いずれ、ギアになるかもしれないな」

『はっ……さすが、あの女の息子だ』

「ジーナの息子であることには、誇りを持っているが、お前の息子であることに、一度でも誇りを持ったことはない」

『そのうちに、思い知る。お前は、私の血を引いているのだから』


 不吉な予言を落とすように、脅すように、低く響く声に、ジーンは通話を切る。そのまま、休憩室に向かったジーンに、ロザリンドが声をかけてきた。


「あ、ジーン、この前のバスセットありがとう。ローズオイル使ってみたけど、すごく癒された」


 えへへと笑うロザリンドに、ジーンはぽんぽんと彼女の頭を撫でる。


「どうしたの?怖い顔してる」

「そうか?……気に入ってくれて良かった」

「うん。髪切っちゃったんだね。もったいない」


 背の半ばまであった豊かな赤毛を、肩にかかるくらいでばっさりと切ったジーンは、相変わらずロザリンドからもらったシュシュで髪を纏めていた。


「そのうち伸びる。それより、ロジー、今から休憩か?良かったら、一緒にお昼でも」

「ハンバーガー食べてみる?」

「あ、いや……ツグミのお弁当があるから」


 断ったジーンに、ロザリンドが笑う。ジーンもつられて少しだけ笑った。



 新居祝いのホームパーティの料理は半分以上はデリバリー、残りはツグミが作った。ジーンとリリアもマッシュポテトをかき混ぜたり、グラスを準備したり、できるところは手伝った。


「ツグちゃんをお嫁に出したような気分だわ」


 準備を手伝いに来ていた姉のリョウの感想に、ツグミは苦笑する。


「お母さんに見せたかったわね」


 もう一人の姉、アケビまでそんなことを口にした。


「オレンジジュースがない」


 冷蔵庫を開けたジーンの呟きに、リリアがぎくりとジーンを見る。


「飲んじゃった……」

「二日前には二リットルあったはずなんだが」

「だってぇ、結構暖かかったし、喉乾いたし」


 言い訳するリリアに、「買いに行くよ」とツグミが車の鍵を手にした。フェリアとカイ夫婦、アスラ夫婦含め、子ども連れで来る客も少なくはない。それに、オレンジジュースはノンアルコールカクテルの材料でもあった。


「ジーンも行っておいで!」


 リリアに背中を押されて、よく分からないまま、ジーンもツグミと一緒に家を出る。エレベーターに乗って、駐車場まで降りて、二人はツグミの車に乗り込む。


「車を買おうと思ってる。リリアも運転を覚えていい年だし、遅くなった時に高校に迎えに行けるように」

「ジーン、貯金尽きるんじゃないのか?」


 冗談めかして言ったツグミに、ジーンは目を伏せた。


「いい思い出の金じゃない。どうせなら、いい思い出を作るために使いたい」


 前向きなのか、それとも自分の終わりを見据えての発言なのか分からずに、ツグミはエンジンをかけるのを止めて、運転席から手を伸ばしてジーンの手を握った。熱のある時以外、ジーンの体温はツグミのそれよりもかなり低い。冷えた指先に、ツグミはジーンがどこかに行ってしまいそうな不安に駆られる。


「行かないのか?」


 ツグミの行動に僅かに戸惑っているように、ジーンがツグミを見た。


「キスしてもいい?」

「……聞かれてされるのは、初めてだな」

「ダメ?」


 助手席の方に半身を乗り出していたツグミの唇に、ジーンが目を伏せて、そっとキスをした。


「これでいいか?」

「うん……」


 ツグミはシートベルトを締め直して、車にエンジンをかけた。

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