11.ハートで十五枚
皮膚の再生医療を受けたジーンは、背中の傷は綺麗に塞がったものの幾つか深く切れていた場所があったようで、表面上は綺麗になっていても時々痛むようだった。退院の日に車で迎えに来たツグミは、ジーンの背中が痛まないように、助手席のシートにクッションを添える。ロザリンドとサキからもらったイルカの抱き枕を抱き締めて、ジーンはシートベルトを締めた。
「苦しくない?」
「重傷人扱いしなくていい」
素っ気ない物言いに、ツグミは「心配くらいさせろよ」と言いながら、ジーンの手に茶色の無地のシュシュを落とした。受け止めて、ジーンの空色の目がゆっくりとツグミに向く。
「衣服も全部証拠として預からせてもらったけど、採取と記録が終わったから、これは返していいって」
「ありがとう」
小さく微笑んで、抱き枕を膝に乗せて髪を緩く括るジーン。
「それ、かなりお気に入りだけど、ジーンはロザリンドが好きなのか?」
拗ねたような口調になってしまってから、ツグミは妬いてるわけじゃないと胸中で誰にでもなく言い訳をした。質問の意味を捉えかねているようで、ジーンは緩慢な動作で首を傾げる。
「ドクターが、性急に考えなくていいと言った。悪いが、今は考えられない」
しばらく考えた末にジーンの口にした一言が、あまりにも確信を得ていて、ツグミは黙ってエンジンをかけて車を動かした。帰り道、ジーンはぼんやりと窓の外を見ていた。
「夜で、高速道路に上がる時に、街の灯りが見えて、もうあの中には戻れないと思った。まだ、気が付いたら、どこかで、あの男に『
聞かせるでもなくぽつりと漏れた言葉は、ジーンがあの夜からまだ抜け出せていないことを物語っているようだった。
「帰ろう」
ツグミの声に、ジーンは目を閉じた。
ラボのエレベーターを上がって、カウンセリングルームに向かうジーンは、野菜屋に首を傾げられながら、カリフラワーをイタリアンパセリで飾った花束を持っていた。カリフラワーは一応フラワーと付くので、花だろうと自分を納得させて。リボンをかけられて、可愛いラッピングのビニールで包まれた、正に花束然としたそれを、ミザリー・アージェマーは動揺せずに受け取った。
「先日は世話になった、ドクター」
「あぁ、ありがとう。夕飯にするよ」
自分は食べられないそれを手渡して、ついでに、と添えた小さな紙の包みを、アージェマーは覗き込んだ。中に、小さな透明のパッケージに入った薄い花のようなものが入っている。パッケージは三つあって、ピンク系統の花、青系統の花、黄色系統の花がそれぞれに入っていた。
「
「なるほど。妹さんにお礼を言っておいてくれ」
デスクにカリフラワーと包みを置いて、アージェマーは椅子に腰かけた。促されるまでもなく、ジーンも座る。
「ツグミからメールが来た。あの夜のことをよく思い出すのか?」
アージェマーの問いかけに、ジーンは手を組んでそこに視線を落とした。
「思い出すというか、時々、自分が今どこにいるか、分からなくなる」
ミルワースの家で彼の言うなりになっているのか、それとも、本当にここにいるのか。あの日にミルワースの顔面を蹴って、それで終わったつもりだったのに、記憶だけでなく、感覚が全てあの夜に引き戻されるような瞬間がある。叫ぶことも泣くこともできなくて、ただ感情を押し殺していた。
「リード、あなたと何度か話をして思ったのだが、あなたはいつも、そんなに淡々としているのか?」
「あまり、感情を動かすと疲れる」
視線を自分の指先から戻さずに、ジーンはぽつりぽつりと語る。
「母はピアニストだった……父は音楽を解さない人で、母の外見に惚れて自分のものにした。私にピアノを教えたのは母で、父は男らしくないからやめろと言って」
不意に言葉が途切れたが、アージェマーは先を促さなかった。
「昔からなんだ。男性の友達がいたことがほとんどなくて、周囲は女性ばかりだった」
性自認は男性であるし、女性と付き合ったことも、触れ合ったこともある。軍人よりもピアニストになりたかったと今更言っても、前線に出て弾いていない期間はやはりジーンにとっては大きなハンデだった。これから、プロになれるとも思わない。それよりも、狙撃銃を握っている方が似合っているというのも分かっている。
「中途半端なんだ。父がさせたかったことも、私がしたかったことも、どちらも叶わなかった」
「未来は不確定だ。まだ分からないだろう」
「ドクター、あなたの年ならそう思える」
淡く自嘲したジーンに、アージェマーはそれ以上追及はしなかった。
「それで、ツグミとは?」
「……普通だ」
「一瞬間があったな」
「そこは、気付かなかったことにしてくれ」
空色の目で天井を仰いだジーンに、アージェマーが小さく笑う。それから、真剣な表情になった。
「事件の証拠写真も、あの××××男の撮っていた××映像や×××な押収したブツも、証拠品も、全部報告を見た」
「……そういう言葉を使いたくなるほど、胸糞の悪いものを、撮られてたのか私は」
僅かに不快そうに顔を顰めたジーンに、「本当に質の悪いストーカーに目を付けられて、気の毒だったな」とアージェマーが労いの言葉をかける。
「デスクワークでの出勤は許されたが、周囲はやたら気遣ってきてたのは、それだったのか」
仕事だからある程度割り切ってくれると分かっていたが、そういう物件を見られて知られているというのは、居心地のいいものではないと、ジーンはため息を付いた。
「そちらのボスからは、別の管轄に移っても構わないと言われているが」
「ドクター、意外なことに、私はあそこが気に入ってるんだ」
部屋を焼かれても、バイクを壊されても動揺しなかったと報告書にあるジーンが、執着のようなものを見せたことに、アージェマーは興味深そうにカルテに何かを書き込んだ。
「そろそろ、時間だ。すまないな、人員が一人抜けて、補充がまだなので、少々立て込んでいて」
カウンセリングを受けたという証明書にサインをして渡してくれるアージェマーに、ジーンは椅子から立ち上がった。
「ありがとう、ドクター。体調には気を付けて」
「残業はご褒美だ」
「それは、何か違う」
一応、突っ込んでからジーンはカウンセリングルームを後にした。
薬を打たれて、虚ろな表情になっているジーンが、震えながらミルワースのバスローブにしがみ付いて、壊れたように「
「あ……」
色素の抜けて血管の色しか残っていない薄赤い目が、怯えたようにアスラを映す。
「いやだ……にげないと……にげ……ないと、たすけて、たすけて、たすけて……たすけて!」
ガタガタと震えだしたヴァルナの小柄な体を、アスラは映像室から運び出した。二人だけで証拠を確認していたから、まだ良かったとアスラは胸を撫で下ろす。
「大丈夫だ、大丈夫だから。私の顔を見ろ。大丈夫だ」
完全にフラッシュバックを起こしている兄……の身代わりの青年に、アスラはひたすら言い聞かせた。
本当にこれが正しいなど、僅かも思わずに。
事件資料は一切見るなとジーンに言われていたし、身内が事件に関わると後々に裁判で不利になりかねないと自重していたが、聞こうと思わなくても入ってくる噂やジーンだけではなくツグミにも向けられる労わりに、ツグミは薄らと事件資料の内容が想像できて、どうしてあの時に引き金を引かなかったのだろうと後悔する。
退院してからジーンのタバコの数が極端に減った。安定剤の影響もあるがどこかだるそうで、食事の時もぼーっとしていることが多くなった。
シャワーを浴びて出てきたら、リビングのソファに座っているジーンの髪が、肩にかかるくらいですっぱりと切られていて、ツグミは唖然とした。見回せば、ローテーブルの上にハサミが置いてあり、ごみ箱には無造作に赤くうねる重量感のある髪の毛の束が捨ててあった。
「切ったのか?」
「背中にかかるのが、気持ち悪くて」
傷跡はないが残った内分痛みが消える頃にはまた伸びているだろうとあっさり言うジーンに、ツグミはすとんとソファの隣りに腰掛ける。
「ロザリンドにもらったシュシュは?」
「結べる長さだ。……ツグミ、やたらロジーにこだわるな」
「だって、あんた……女性の方が好きなんじゃないか?」
俺だって、ジーンを好きになるまでは、男性には興味なかったけど、と付け加えるツグミに、ジーンはタブレット端末を操作しながらちらりと横目でツグミを見た。責められている気分になって、ツグミは濡れた髪をバスタオルで拭きながら、俯く。ツグミが黙ってしまうと、ジーンは元々口数の多い方ではないので、気まずい沈黙ができる。
タブレット端末に視線を落としたジーンの指先を、ツグミは視線で追いかけた。端末の液晶に表示されたものが見たいわけではなく、魔法のように音楽を生み出す筋張った指先の動きが見たかっただけだった。
けれど、そう思わなかったのか、ジーンが操作を止めてツグミを見た。
「家を探しているんだ。いい物件があったら、休みの日に見に行こうと思ってる」
隠すつもりのないジーンの説明に、ツグミは近いうちにジーンがここを出て行くという現実を突き付けられた気がして、目をそらしてしまう。
「そうか……」
「リリアも気に入らないといけないから、なかなか難しい」
言って、端末を膝に乗せてタバコを咥えたジーン。タバコの匂いも、ボストンバッグに入れて寝室に纏めてあるジーンの荷物も、リビングの片隅を埋めてしまった電子ピアノも、もうすぐここからなくなるのかと、寂しさをバスタオルで隠そうとしたツグミに、ジーンはごく自然に告げた。
「ツグミも気に入らないと困るから、一緒に探してほしい」
「はい?」
「……?」
ツグミの驚いた声が心底意外だったかのように、ジーンの空色の目が僅かに見開かれる。
「すまない、ツグミも一緒に暮らすものだと思っていた。私の勘違いだった」
「い、いや! え? いいの? 嬉しい! 探す! 探します!」
心なしかしょんぼりとして端末の操作に戻ったジーンの肩を、ツグミは思わず抱き寄せていた。
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