10.ダイヤで十五枚

 ジーンの誕生日が過ぎて始めて休みが重なった日に、ツグミはジーンを水族館に誘った。ちょうどレオーネも休みだったので、一緒に水族館に行く。リリアは受験勉強があるからと残念そうにしていた。

 遠出して出かけた大きな水族館は、幾つもの水槽があって、ジーンとレオーネは一緒になって楽しんでいるようだった。天井がガラスになっているトンネルで足を止めて、上を泳いでいく大きな魚の腹をひたすら見つめていたり、サメなどが泳ぐ大きな水槽の前で立ち止まり、サメの動きに合わせてきょろきょろと首を動かしていたり。

 群れになって泳ぐ小魚や、色とりどりの南国の魚の水槽、バイカルアザラシの水槽の前ではジーンが「連れて帰りたい」と本気の声で呟いたり、ライトアップされたクラゲの水槽の前でレオーネが歓声を上げたり。

 イルカのショーがあると聞いて向かった、イルカのプールの周りは人だかりができていて、ツグミはレオーネを片手に、もう片方の腕にジーンを抱き上げた。バランスを崩しそうになって首にしがみ付いたジーン。


「私を抱っこするのは、何か違う」

「いいのいいの。俺がしたいからするんだから」


 重くないとツグミが笑った時、イルカが高いジャンプを決めて、歓声が上がった。ジーンも空色の目でそれに見入る。レオーネも青い目をきらきらさせてそれを見ていた。


「ジーン、見て見て、出てももう一回入れるようにスタンプ押してくれるんだって」


 再入場用の蛍光スタンプを手に押してもらって、レオーネが手でそれを隠して光るか確かめる。レオーネに手を引かれて、ジーンとツグミも押してもらった。


「お父さん達とお出かけ?」


 スタンプを押す職員に話しかけられて、レオーネは嬉しそうに笑って頷く。


「外の広場でお弁当食べたいな」


 小さなレオーネの手に引っ張られて、ジーンとツグミは水族館の外の広場のベンチに移動した。バックパックから三人分のお弁当を出して、ツグミがそれぞれに配る。


「全部食べたら、アイス食べてもいい?」

「いいよ」


 可愛いおねだりに快く了承するツグミに、ジーンがぼんやりとした水色の目を向けた。


「スナメリの水槽、もう一度見に行ってもいいか?」

「もちろん、いいよ」


 こちらのおねだりにも、ツグミはつい頬を緩ませて答えてしまう。

 チョコミントのアイスを三人で食べて、水族館のもう一度見たい場所を見直して、三人はマンションに戻った。もちろん、ジーンはスナメリのぬいぐるみを抱いて帰る。そして、なぜかツグミはサメ柄のネクタイをもらってしまった。


「今日はありがとう、ツグミ」

「レオーネも喜んでたみたいだったし、良かった」


 部屋に戻って、お弁当箱を食洗器に入れるジーンは眼元を僅かに緩ませてツグミに礼を言うので、ツグミは大いににやけてしまう。


「ツグミとレオーネに、話がある」


 ジーンに促されて、ツグミとレオーネはソファに腰掛けた。コーヒーサーバーからツグミとジーンの分のコーヒーをマグカップに入れて、レオーネにはオレンジジュースを持って、ジーンはソファに座った。




 改まった様子のジーンに、定位置の長ソファの隣りに座ったツグミと、正面の一人掛けソファにちんまりと座ったレオーネは、何事かと身構える。いつも通り掠れた静かな声で、ジーンは告げた。


「ジーナがピアノ教師をやっている。レオーネに習う気があるなら、週に二回、彼女に来てもらおうかと思っているのだが、どうだろう」


 ジーンとツグミが仕事中に、ジーナに鍵を預けて、迎えに来てもらって、ジーナの部屋に行ってピアノを習って、夕方まで過ごして、ツグミかジーンが迎えに行く。その提案に、レオーネは身を乗り出した。

 頬を紅潮させて、しばらくの間何も言えなかったレオーネだが、黙って返事を待っているジーンの顔を見て、それから、ツグミの顔を見た。


「週二回、お祖母ちゃんのうちで、あの本物のピアノを弾いていいの!? 本当に!? ねぇ、ツグミ、僕、行きたい! 行ってもいい?」


 興奮に震えるレオーネの声に、ツグミはジーンを見る。そういう相談をジーナとしていたとは知らなかったが、レオーネにとっては嬉しいサプライズだろう。それに異存を唱えるような気は、ツグミには全くなかった。


「もちろん、俺はいいと思う。……ジーンがそんなこと考えてたなんて知らなかった」

「相談した方が良かったか?」


 僅かに顔色を窺うように空色の目を向けたジーンに、「今、相談してくれたよ。責めてるんじゃなくて、家族だなぁと思って嬉しかったんだよ」と抱き寄せると、逃げられそうになった。そこへすかさずレオーネがジーンの胸に飛び込む。突撃されて、レオーネを受け止めつつ、ツグミの胸に背中から倒れ込む形になってジーンは「つぶれる」と小さく呟いた。


「レオーネがまだ小さいからいいけど、大きくなったら、ジーン、本当につぶされそうだな」

「その頃にはこんな風にされてないと思う」


 少し寂しそうに呟いたジーンに、「ダメなの?」と少し目じりの垂れた目を、悲しげに更に垂れさせるレオーネ。


「う、受け止められる限りは、頑張ろう」

「手加減してね、レオーネ! ジーンに怪我させないでね!」


 真剣に答えるジーンと慌てたツグミに、レオーネが笑い出した。そのレオーネに手招きをして、ジーンは筋張った手でふっくらとした白い頬を撫でる。


「私は小さい頃にピアノを習いたくても許されなかった。だから、レオーネに私の思いを押し付けてはいないか?嫌だったら遠慮なく言ってほしい」

「嫌じゃないよ。全然嫌じゃない。すごく嬉しい!お正月に聞いたあのピアノ、すごくきれいだったもん」


 大好きと抱き付かれて、ジーンはレオーネの金色の巻き毛を撫でた。




 夜に同級生との勉強会から帰って来たリリアが、ジーンとツグミに話があると言ったので、今日はそういう日なのかとツグミはジーンと並んでソファに座る。どこから話し出そうか迷った感じだったが、リリアはゆっくりと話し出した。


「私のデザインしたアクセサリーを、友達のお母さんがやってるハンドメイドのお店に置いてもいいって言われてね、週に何回か、その……お手伝いに来ないかって言われてるんだけどね……」


 言ってから、リリアはちらりとレオーネの部屋を見る。レオーネは部屋で電子ピアノを弾いているようで、閉じた扉から音が聞こえてくる。


「レオーネと遊ぶの、私、好きなのよ。弟ができたみたいで。ハウスキーパーさんも、ベビーシッターさんも来てたけど、私は……友達のうちに遊びに行っちゃダメって言われてたから……」


 父親の異常な執着心で、リリアはずっと自由を奪われていた。仕事で家を空けることが多い父親の代わりに、ベビーシッターもハウスキーパーもいたが、ベビーシッターは彼氏を連れ込んで遊んでいたし、ハウスキーパーは基本的に掃除洗濯と缶詰を開けてリリアに与えるくらいしかしなかった。


 だから、ずっとリリアは年上の兄であるジーンがこっそり帰って来て、抱き締めて、遊んでくれるのを待っていた。父親がジーンを見つけるとすぐに追い出してしまうが、出張の時などは、出兵していない期間だとジーンは時々家にこっそり泊まって行った。本を読んでもらったり、一緒にビーズで遊んだり、歌を歌ったり、抱き締めてもらったり……リリアは特に小さい頃から小柄だったから、かなり大きくなるまで、ジーンは抱っこしてくれたし、膝にも乗せてくれた。


「覚えてるかな、こっそり家を抜け出して、近くの公園に行ったの。ジーン、ボートを借りて漕いでくれて……私は、ジーンと同じことはできないけど、レオーネにできることはしたいの。これは、本当。心からそうしたいと思う」


 けれど、そう思うのと同じくらい彼女はまだ十七歳の少女なわけで、年相応のことをしたいとも思う。


「レオーネを家に一人にするのは……心配だから、駄目かな?」


 自分で結論を出してしょんぼりとしてしまったリリアに、ジーンが僅かに微笑んだ。


「そのことなんだが、週に二回、レオーネはピアノを習いにジーナのところに行くことになった。私かツグミの仕事上がりまで預かってもらうようにお願いしているから、週に二回なら、リリィは時間を自由に使える」


 ジーンの言葉に、リリアは「えぇ!? 嘘! 何それ……」とあまりの都合のよさに目を丸くしていた。それから、じとりとジーンを睨む。


「いつから、気付いてたの?」

「リリアもアルバイトくらいしたい年頃だろうとは思っていた」

「うわぁ……ツグミ、騙されちゃだめよ。この、用意周到な、綿密男」

「褒めているのか?」


 ツグミやレオーネに対する反応とは違う、僅かに面白がっているようなジーンの様子に、ツグミは彼がダニエル・リードの逮捕劇の筋書きを組み立てた人間なのだと、改めて思わずにはいられなかった。




 シャワーを浴びて、ベッドに入るとジーンがベッドの上で寝転がりながらタブレット端末を操作していた。今日の水族館で撮った写真の画像を見ているのだと気付いて、ツグミはスナメリのぬいぐるみをジーンの頭に乗せる。落ちないように絶妙にバランスを取りながら、空色の目がちらりとツグミを見た。


「察するのが苦手って言いつつ、ジーンって結構良く見てるよな」

「相手の感情はよく分からない。だが、統計は分かる」


 世間の17歳の何パーセントがアルバイトをしているか、何歳からピアノを習わせるか、そういう数字の集まりならば理解はできるが、実際に本人がしたいのかどうかは本当に分からない、とのたまうジーン。


「いや、普通、相手の意思は聞かなきゃ分からないよ」


 苦笑したツグミに、ジーンは緩慢な動作で首を傾げた。


「ツグミは、私の考えていることを、よく予測して行動している気がする」


 考えていることを予測しているという説明に、最初はぴんとこなかったが、ややあって、ツグミはジーンの体を抱きしめた。


「それって、水族館に行きたかったってこと、ですか?」

「え? そうだけど」


 分かりにくい、分かりにくすぎる、とジーンの体を抱きしめたまま、ベッドを転がるツグミ。寝返りを打つと、ジーンの体がツグミの上に乗っかった。


「あんた、喋る時の表現まで分かりづらい」

「そうか」


 指摘されて、僅かに落ち込んだ様子のジーンの額に、ツグミはキスをする。その唇を追いかけて、ジーンがツグミの唇に触れるだけのキスをした。


「ジーン、俺によくキスするよね」

「……最初の頃、キスをしていいかと聞かれてたから、キスが好きなのかと思ってた。違ったか?」


 不思議そうに尋ねたジーンに、そういう認識でよくキスをしてくれていたのかと、ツグミは考え込んでしまった。


「俺のこと好きだからしてくれてるんだと思ってた」

「……?ツグミが喜ぶと思ったからしていたんだが?嫌なら控える」

「嫌じゃないんだけど、俺が喜ぶからって……」


 しばらく考えてから、ツグミは「あ!」と声を上げる。

 嫌いな相手を喜ばせようと思う人間はなかなかいない。つまり、それはジーンにとっては『好き』の表現なのだろう。回りくどさにツグミですら苦笑した。


「俺じゃないと分からないんだろうなー」


 声に出してから、惚気てしまったような気分になって、ツグミは照れ隠しにジーンの髪をわしゃわしゃとかき回す。目を閉じてそれに甘んじていたジーンだったが、手が止まると両手で軽く髪を整えた。


「ツグミ、私は、同性愛者なんだと思う」

「え? 今頃!?」


 やけに真面目に呟いたジーンに、ツグミが驚く。


「女性と付き合ったことはあるが、長続きしなかったし、そんなに触れたいとも思わなかったし……ツグミと恋愛関係になって、生きるのが楽になった気がする」


 今までで最大の告白を受けて、ツグミは赤面してしまう。なぜそんな顔をしているのか分からないといった風情で、ジーンは首を傾げた。


「それは、俺とは長く一緒にいたくて、触れたいってことだよね?」

「……私の言葉は、いちいち確認しないと理解できない?」

「結構そんな感じ」

「そうか。精進する……」


 悩むような難しい気配を漂わせるジーンに、ツグミは体の上から細い体を降ろして、布団をかけて抱き寄せる。


「分からなかったら聞くし、何度でも話せばいいだけだろ。俺はジーンのそういうところも好きだよ」


 腕の中に引き寄せられて、ジーンは小さく頷いた。



 その次の週からレオーネは週に二回ジーナのところにピアノを習いに行って、同じ日にリリアは友達の親のハンドメイドのお店にアルバイトに出るようになった。

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