9.クラブで十五枚

 愛しいパートナーの名前を呼んで引き寄せたつもりだが、いつもと違う匂い、柔らかな感触に、ツグミは跳ね起きた。寝返りを打ってこちらを見た黒い瞳に全く見覚えがない。


「起きたの?」


 甘い声で囁かれて、ツグミはシーツを捲った。間違いなくお互いに真っ裸だった。逃げられては困ると彼女の手を掴んで、ツグミは携帯端末を手に取った。


『はいはーい?フェリア・ガーディアだけどー?』

「すみません、鑑識班を今から呼ぶ場所にお願いします。ジーン・リードは来ないようにお願いします」


 真剣な物言いに、フェリアは快く了承してくれた。


 昨夜、ジョエルと飲んでいて、ジョエルが気に入った女性に声をかけに行った時に、この年上の黒髪の女性が近寄って来た。


「一緒にどう?」

「申し訳ないけど、愛してる人がいるから」


 左手の指輪を見せると彼女は妖艶に笑み、「お堅いのね。残念。一杯だけ」とグラスを差し出した。

 その一杯が後から考えればいけなかったのだ。


 色々と察してくれたのか、昨夜着ていた服は証拠物件となるので、フェリアは着替えを持ってきてくれた。相手の女性は、渋々鑑識作業に付き合ってくれる。


「大丈夫だよ、何もなかった。ツグミは潔癖だよ」


 血液からデートレイプドラッグが出ていると言われて、そんなものを飲まされては勃つわけがないとフェリアからお墨付きをもらい、ツグミはほっと息を付いた。それから、無断外泊をしてしまったと青ざめる。


「ジーン、どんな感じでしたか?」


 シャワーを浴びて着替えてから、ひそひそと聞くと、フェリアの顔が苦み走った。


「すごく普通。普通に出勤して、普通に仕事してたよ」


 だから、ツグミに何か起こっていたなんて想像もしてなかったというフェリアに、ツグミは頭を抱える。


「ジーンのところに行ってきます」


 車の鍵を取ったツグミに、フェリアがぱたぱたと手を振って送り出した。




 現場で回収された銃弾の施条痕を確認しているジーンに、アージェマーがシガレットケースを見せて扉を叩く。作業を中断して、ジーンは白衣を脱いでシガレットケースとライターを持って喫煙ルームに向かった。


「何かあったのか?」


 タバコに火を付けるアージェマーに問われて、ジーンは無表情のまま目を伏せて、アージェマーの肩にもたれかかる。


「隠せてないか?」

「私かロザリンドでなければ、気付かないだろうな」

「そうか、良かった」

「良いことではないだろう?」


 アージェマーに言われて、ジーンはアージェマーから離れて、タバコを一本、親指と人差し指で摘まみ出す。火を付けて吸い込んでから、ため息とともに紫煙を吐き出した。


「ツグミが帰って来なくて……何度も電話したんだけど、連絡もなくて……事件に巻き込まれてるのかもしれない」

「誰かに相談したのかい?」

「ジョエルが……一緒に飲んでたらしいんだけど、ツグミ、帰らないかもなとか、言われて……」

「ランカスターの愉快犯め」


 よしよしとジーンを宥めるアージェマーに、ジーンは天井を仰ぐ。


「ツグミも成人してるんだし、一晩くらいでごちゃごちゃ言ってやるなって……」

「あなたたち二人は、ネットで騒がれているし、事件に巻き込まれる確率が高いから、気を付けた方がいい」

「そうだな……」


 だが、ジョエルに言われた時に、そんなものなのかと思ってしまった自分がいたことも事実で、ジーンはため息を吐いた。人生のほとんどを軍で過ごしたジーンは自分の常識が少しならずずれていることを自覚していた。


「ツグミから連絡が来たら、落ち着いて話し合うんだよ」


 アージェマーの助言を、ジーンは短くなったタバコを消しながら聞いていた。




 ラボに行く途中で、情報部から入っていたメールに、ツグミは半眼になる。デイヴィッド・ケアリーが自分が逮捕された後に発動するように仕掛けていた、ネット上の広告。


――この二人を別れさせたら賞金を!


 ポップなフォントの下に、べったりと貼られているツグミとジーンの並んだ写真。フェリアからの情報でも、彼女はこれを見て面白半分にツグミを誘ったのだということが分かった。狙われているのはジーンだとばかり思っていたので、油断していたとツグミは顔を歪めた。

 ラボの入り口でジーンを呼び出すと、白衣を脱いでやって来たジーンは、上目使いに空色の目でツグミを見上げた。普段から読みにくい感情が、更になくなっている。


「ちゃんと説明をさせてくれる?」


 携帯端末を取り出したツグミに、ジーンは緩々と首を振った。


「無事だったならいい。ここで話すことでもないだろう。帰って話そう」


 仕事だろうと言われて、ツグミはラボの廊下に立ち尽くす。




「めちゃくちゃ傷付いてる……どうしよう……もうすぐ誕生日で、俺、すっげぇ準備してたのに……」


 制服に着替えて、遅刻の理由を署長に告げてから、内勤を命じられたツグミは、デスクで顔を覆っていた。


「え?やっぱり、浮気したのか?」


 どこか嬉しそうなジョエルを、ツグミは陰鬱に睨み付ける。


「あんたが仕組んだのか?」

「そんなわけあるか!」

「いっそ、そうだったら!」


 苦悩するツグミに、ジョエルはぽんぽんと肩を叩いた。


「若気の至りって奴で」

「それが許されるのは、あんただけだよ」


 呆れ声で呟いた瞬間、携帯端末が震えて、ツグミは携帯端末を確認する。フェリアから話は聞いたから、昼ご飯を一緒に食べようとジーンからメールが来ていた。話ができるくらいには落ち着いたのかとほっとしたが、上手に話せる自信がなくて、ツグミはジョエルを睨み付ける。


「俺は何もしてないよ!?」

「置いて帰れば良かった」


 今更ながら、女性を口説くジョエルを待っていなくて、さっさと帰れば良かったとツグミは嘆じた。




「ツグミは潔白だからね!相手が女性だから、勘違いしやすいけど、ツグミが被害者、オッケー?」


 フェリアに言い聞かされて、ジーンは小さく頷く。


「落ち着いて話してくるんだよ。こじれたら慰めてあげるから」

「ミザリーが言うと、リード食われちゃうそうだね!」

「酷いな、ガーディア」


 どこまでも明るいフェリアに、アージェマーが場を和ませるように不遜な笑みを浮かべた。


「アージェマー、今度飲みに行こう」


 珍しく縋るようにハグをするジーンに、アージェマーは苦笑して、「大丈夫だよ」と背中を軽く叩いて送り出した。




 警察署近くのコーヒーショップで、ツグミとジーンは待ち合わせをしていた。ツグミがいなかったので、今日はお弁当もない。レオーネやリリアのお弁当はどうしたのだろうと心配になったが、今はそれどころではないと、ツグミは表情を引き締めた。

 席に付いたツグミに、ジーンはコーヒーのカップを両手で包み込んで、至極真面目にツグミを見つめる。何を言われても仕方がないと、ツグミは身を固くして、ジーンの言葉を待った。


「私には……あまり分からないんだが、ツグミもショックだったと思う。その……女性からの、暴行もあるんだと分かってる。カウンセリングにも付き合うし、立ち直るのに時間がかかるなら、私で良ければ寄り添う」


 必死に考えてきたのだろう、いつもより硬い声音で喋るジーンに、ツグミはテーブルに突っ伏しそうになる。


「大丈夫か、ツグミ?」

「だ、大丈夫……ていうか、あんたが本当に俺を信頼してくれてるんだなと、幸せすぎて死にそうになった」

「死ぬのか!?」

「死なないです、死にません」


 カップを両手で包み込むジーンの手をその上から両手で包み込んで、ツグミは長く息を吐いた。


「浮気は、即答で別れる、だったから、俺、もうだめかと思ってたよ」

「浮気ではないだろう?じゃあ、私がベケットに最後までされていたら、浮気になるのか?」

「ならないよ!」


 即答したツグミに、ジーンは頷く。


「状況と性別は違うが、同意ではないことは同じだろう」


 まだ強張っているジーンの表情に、ツグミは隣りの席に移動した。肩を抱くと、こつんと頭が肩に触れる。


「お前に怪我がなくて良かった……」


 ジーンの言葉に、ツグミはようやく、納得がいった気がした。浮気などよりも、ジーンは純粋にツグミが事件に巻き込まれて危険に陥っていないか、そして、それに対しての自分の動きが遅すぎたのではないか、それだけを心配していたのだろう。目の下にうっすらと隈があって、昨夜は眠れていないことが分かった。


「心配かけて、本当にごめん」


 ぎゅっと抱き寄せると、ジーンはやっと体から力を抜いた。




「ランカスター?」


 アージェマーに睨まれて、隣りのテーブルからツグミとジーンを覗いていたジョエルは、びくりと肩を震わせる。


「電話で余計なことを言ったらしいじゃないか。全ての物事を自分を基準にするのは良くない傾向だな」

「えーっと……いや、たまにはツグミも遊びたいんじゃないかなぁって、ね、ミザリー」

「ファーストネームで呼ばないでほしい」


 薄らと微笑んだアージェマーに、女性を口説く時の笑みは通用しないと、ジョエルはアージェマーの隣りでドーナッツを食べているロザリンドに助けを求めた。


「良くない傾向だな!」


 ドヤ顔で復唱されて、ジョエルは両手を掲げて降参の意を示す。この場の全ての会計を、ジョエルが支払うことに自動的になってしまった。




 一月の中旬、レオーネとツグミが、ジーンの誕生日お祝いだと、何か企んでいるようだったが、ジーンは特に気にしないふりをしていた。その日は特別に日付が変わるまで起きていてもいいかとレオーネにねだられて、ジーンはツグミを見て、それに了承した。

 リリアも起きていて、眠そうなレオーネと一緒に、ココアを飲んだりして時間をつぶしていたが、眠気に勝てなかったのか、レオーネが十一時前に、「ツグミ、無理みたい」と言ったので、先取りの誕生日になった。


「ジーン、これは、俺とレオーネから」


 差し出されたのは、一枚の書類でそこには養子縁組の手続き内容と、レオーネとツグミのサインがしてあった。


「ジーンがサインしてくれたら、僕は、ジーンとツグミの子どもになれるんだよ?」


 青い目を輝かせるレオーネを思わず抱きしめてから、ジーンはツグミに問いかける。


「どうして?手続きはまだ監査を終えなければいけないはずだろう?」

「養子縁組の斡旋団体が、どうも不正をしていたらしくてね、先日摘発されたんだ。だから、レオーネの位置が曖昧になってて、手続きをするって新しい団体に申し出たら、通ったんだ」


 その摘発に関わっていたというツグミは、自慢げに微笑んだ。


「嬉しい……ありがとう。最高の誕生日だ」


 レオーネから離れたジーンに抱き付かれて、ツグミが嬉しそうにジーンを抱き上げる。


「良かったね良かったね、レオーネ」


 何も知らなかったらしいリリアも喜んで、レオーネを抱きしめた。


「誕生日前にあんなことになって……」

「ツグミ、あれは事件で、お前は被害者」


 謝ろうとするツグミを、ジーンがきっぱりと遮る。


「ロジーにメールする!」

「私も、アージェマーに」

 いそいそと携帯端末を手に取る兄妹に、レオーネとツグミが顔を見合わせて笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る