11.ハートで十五枚
その日は朝からみぞれ混じりの雨が降っていた。仕事を終えて帰る前に、ジーンからメールが入っていて、今捜査している事件が解決したので、早く帰れそうだというメッセージにツグミはほっとしながら退勤時間を端末で記録する。車で部屋に戻ると、リリアとレオーネも帰っていた。レオーネは明日がピアノの初レッスンなので、ヘッドフォンを付けて一生懸命電子ピアノを弾いている。リリアはクリスマスにジーンに買ってもらったミシンで何か縫っているようだった。
電子ピアノのキーを叩く音とミシンの音が、窓を叩く雨の音に紛れる。しばらくして帰って来たジーンがずぶ濡れなのに、ツグミは慌ててバスタオルを持って玄関に走る。
「レインコートどうしたの?」
「破れた」
雨でタイヤがスリップしてバイクで転んだというジーンにぞっとして、バスルームに担いで行って体を検分するツグミ。転倒時のために皮のパンツとジャケットをバイク用に付けていたので出血するような怪我はなかったが、足に痣ができていてツグミは骨に異常がないか触れて確かめる。
「ジーン、そういう時は、バイクじゃなくて、俺呼んでいいのに」
「大したことない。時間がいつになるか分からないのに、迎えに来させるわけにはいかない」
きっぱりと断られて、ツグミはため息を吐いた。
「車買うのを検討しないとな」
「車を買っている余裕はない」
「んなわけないだろう。あんた、前に車買うって言ってたじゃないか」
「ラヴィーナを……もう一人子どもを養子にもらうなら、この部屋では狭い」
真面目な表情のジーンに、ツグミは心底驚く。現実問題として、ジーン、ツグミ、リリア、レオーネの四部屋しかこのマンションの部屋にはない。ラヴィーナを引き取るとすれば、もう一部屋必要になるが、現時点で引き取れるかどうかは分かっていないし、二歳程度の子どもに即座に一部屋必要かと冷静に考えれば、そうではないことくらいジーンにも分かるはずだ。
そもそも、ツグミはこのマンションをジーンが買った時に、少しも出資していない。
「じゃあ、俺があんたの車を買う」
「受け取れない」
「なんなんだよ、俺はヒモか? 俺にだって、あんたより少ないけど、ちゃんと収入があるんだからな!」
怒鳴って詰め寄りかけた瞬間、ジーンがくしゃみをしたので、ツグミはハッとしてジーンをバスタブの方に押しやった。
「とにかく、暖まって。それから、話をしよう」
シャワーの水音は、雨音にも似ていた。
久しぶりに全員で食べる夕食に、レオーネは明日のこともあり興奮していたようだった。
「お祖母ちゃんのうちに行くんだよね? お祖母ちゃんは何時ごろ迎えに来るの?」
「レオーネが学校から帰るくらいだから、三時ころかな」
器用に箸でコーンを一粒一粒摘まんでいるジーンが、静かに答える。
「ジーン、バイクでこけたの?」
心配そうなリリアに「怪我はしてない」とジーンが答えた。
「リリアからも説得してくれよ、雨の日のバイクは危険だって」
「そうよ、ジーン、骨折したらどうするの? ツグミだって、こんなに早々と介護したくないよ!」
「……それ、多少傷付く」
空色の目でじろりとリリアを見るジーンに、リリアが舌を出す。
「明日からバイトだろう。明日は晴れるといいな」
話題を変えたジーンに、ずるい、と呟きつつリリアは暗い窓の外を見つめた。
色々と追及したいことはあったが、うやむやのままに、残業続きで疲れていたのかジーンが眠ってしまったので、ツグミもベッドサイドの灯りを消して目を閉じた。抱き寄せたジーンの体が暖かく、規則正しい寝息に安心する。
この人は生きている。生きてここに存在している。
そのまま、まどろんで眠りに落ちようとした時、轟音にツグミは跳ね起きた。瞼に走る鮮烈な光。
「どうした?」
眠たげな緩慢な動作でツグミに手を伸ばしたジーンを、ツグミはしっかりと抱きしめた。心拍数が上がる。目の前が真っ白になる。
「怖い夢でも見たのか?」
宥めるように優しく背中を叩かれて、ツグミは小さく呟いた。
「笑わないでほしいんだけど……」
「私を笑わせる方が難しいと思うのだが」
「そうだね……雷っていうか、大きい音と光が、苦手なんだ」
はっきりと怖いと口にしてしまうのははばかられる二十四歳歳に、ジーンは「そうか」と言って頭を胸に抱き寄せて髪を撫でる。
再びの閃光と轟音に、体を震わせたツグミを、ジーンは静かに宥めた。
「この辺の高い建物には、避雷針が立てられている。落ちることはない」
「理屈としては分かってるんだよ」
ただ、その光と音が、父と兄を吹き飛ばした爆発を思わせて。もちろん、ツグミはそれを見たことも聞いたこともない。だからこそ、想像というものは恐怖を更にかき立てるのかもしれない。
「でかい図体して情けないな」
「体の大きさは関係ない。誰でも苦手なものの、ひとつやふたつ、あるだろう。私なんか、ツグミ以外の男性と狭い空間に二人きりでいるのが苦手だぞ」
「それは、仕方ないよ」
「私のが仕方ないなら、ツグミのが仕方なくないなんて、言えないと思う」
全く馬鹿にする気配のないジーンに、ツグミはぎゅっと抱き付いた。
「俺は、あんたがいなくなるのが、一番怖いんだ……頼むからもっと気を付けてほしい」
「……不安にさせるつもりはなかった。短慮だった、すまない」
謝ってから、ジーンはちらりと扉の方を見る。
「私は決して馬鹿にしたりしない……から、二人とも、ツグミを馬鹿にしたりしないなら、入っておいで」
ジーンの声が響いて、毛布を抱いた泣き顔のレオーネと、既に号泣しているリリアが先を争うようにジーンとツグミに突撃してきた。リリアを受け止めてベッドの端に寝かせるジーンと、レオーネを受け止めてジーンとツグミの間に寝かせるツグミ。
「怖いよー! おにいちゃーん」
「避雷針があるから大丈夫だ、リリィ」
「つぐ……ツグミ……パパと、ママのこと、思い出しちゃって……」
「俺も、雷苦手なんだ。一緒にいよう、レオーネ」
四人で団子のようになると、さすがのキングサイズのツインベッドも狭くなる。
「もう一型大きいベッドが必要だったか」
ジーンの呟きは、雷の音にかき消され、三人がジーンにしがみ付いた。
追いかけていた大きな事件が終わったばかりで、警察ラボは少し落ち着いていた。証拠物件を届けに来たついでに、顔を見せに来たアスラに、ジーンは証拠を受け取り、サインをしながら声をかけた。
「二歳くらいって、やっぱり、大変なのか?」
「え? お前ところの子ってもっと大きくなかったか?」
ツグミが家族写真をデスクに飾っているのを見たというアスラに、ジーンが空色の目を瞬かせる。
「そうなんだが……もう一人、ツグミが、多分、引き取りたいと思ってる女の子がいる」
「二歳か。そうだね、やっとお喋りができるようになってきたけど、突然、よく分からないことで癇癪起こしたりするし、楽ではないかな」
その言葉に、ジーンは考え込むような気配を見せた。
「なになに? リードに育児指導?」
顔を出したフェリアに、アスラが一通り証拠の説明をする。
「被害者の髪に付いてた微物の分析を急いでほしいんだ」
「了解。エリーザ可愛くなってるだろうなぁ。今度、ジェイクとナディーンとカイと遊びに行きたい」
笑顔で告げるフェリアに、アスラもまんざらではない表情をした。
「タバコは、危険、だよな」
ぽつりと呟いたジーンに、フェリアとアスラは顔を見合わせる。
「誤飲は危険だけど、ちゃんと気を付けてれば大丈夫だと思うぞ」
禁煙の二文字に顔色が変わりそうなジーンを、慰めるアスラ。
「リードはいい父親だな」
豪快に笑ったフェリアに背中を叩かれて、ジーンは前につんのめった。
仕事を終えて、駐車場で車に乗り込みながら、ツグミはジーンに電話をする。
「ツグミだけど、レオーネのお迎え、もう行った?」
『ジーンだ。今日は、ジーナに八時までお願いしてある。晩ご飯もあっちで食べてくる』
「え? そうなの?」
初日だから早く迎えに行った方がいいのかと、定時で上がったツグミだが、ジーンの言葉に拍子抜けしてしまう。
『私はもう、戻っているから、外食がしたいなら、メールで場所を送って欲しい』
「え? え? どうしたの?ジーン?」
『じゃあ』
通話を切られて、ツグミは首を傾げながら、晩ご飯のおかずを買って部屋に戻った。リリアもバイトの日なので、8時過ぎまで戻らないはずだ。指紋認証で扉を開けてリビングに行くと、ジーンが抱き付いてきて、ツグミはそれを受け止めた。
「ただいま」
「お帰り」
挨拶のキスにしては、やや濃厚なキスを交わして、ツグミはちらりとリビングのローテーブルの上、ジーンのお気に入りの長ソファの前を見る。ワインのボトルが置いてあって、大きめのワイングラスに少しだけ赤い色が残っていた。
「飲んでるのか?」
「ツグミは……若いし、新婚だから、二人きりの時間も大事だって……」
眼元を僅かに赤く染めたジーンに、この策士は今回のことはここまでが策だったのかと苦笑する。最終的に、酒の力を借りないとこの一言が口にできなかったのだろう。詰めが甘いのか、それとも、これも計算なのか。
「ガーディアが、月に一度は子どもをシッターに預けて二人で出かけてるって……」
「それで、俺を気にしてくれたわけね。嬉しいけど、ジーン、無理しなくていいからね?」
「無理はしてない」
憮然として答えるジーンに、ツグミはアルコールのせいでいつもより体温の高いジーンの額にキスをした。
「外食より、ジーンと一緒にゆっくりしたい」
言って、ツグミはジーンと一緒に夕食を作って、それからシャワーを浴びて、甘い時間を過ごす。
ベッドの上でまどろんでいたジーンが、ツグミがレオーネのお迎えに行こうとシャツを羽織りだすと、自分も衣服を着だしたので、ツグミはベッドに押し込んだ。
「あんた、今、どういう顔してるか分かってないだろ。その顔をジーナに見せたら……」
「新婚なんだし、やることやってて普通だろ」
むしろ、そういう形跡がない方が心配される、というジーンに、あの一言は酒の力を借りないと難しいのに、実母に情事の後を感付かれるのは平気、というジーンの感覚が理解できず、ツグミは戸惑う。そういえば、昨夜もジーンは、性的な意味ではなくともツグミと抱き合っているところを、リリアやレオーネに見られても全く平気な様子だった。
「あんたの羞恥の基準が分からないよ」
「ツグミだ」
「は?」
「ツグミには恥ずかしい。他はどうでもいい」
空色の目をそらして呟くジーンに、ツグミの方が照れてしまう。
ジーンは飲酒していたので、ツグミが運転して、ジーンは助手席に乗ってレオーネを迎えに行った。
「お祖母ちゃんと晩ご飯食べたよ。お魚のスープだった」
「ブイヤベースね」
「いっぱいピアノ弾かせてもらった」
頬を紅潮させて、嬉しそうに出てくるレオーネを、ツグミが抱き締める。
「そっちも楽しかったみたいね」
「ありがとう、ジーナ。これからも、よろしく」
「夕飯まで一緒にするのは、時々じゃなくて、仕事が忙しい時にはいつでも頼って」
ジーンの頬にキスをして、ジーナは三人を送り出した。
いつも長い髪で隠されている、項の髪の生え際と、左眉の上にうっすらと残る白い傷跡。ジーンのきれいな顔と体には意外と傷が多いとは思っていたが、ジャンマリーから話を聞いて、ツグミは特に注意してジーンの体を見るようになった。皮膚再生医療が進んでから、傷はほとんど消せるようになったが、再生治療を受けられなかった時期のジーンには幾つか傷が残っている。
「何も言わなかったけど、休暇で実家に帰るたびに、怪我して寮に戻ってくることが多かったんだよな」
十七歳で妹が生まれるまでは家に帰りたがらなかったジーンだが、妹が生まれてからは積極的に帰っていたという。父親のダニエル・リードが不在の時ならばラッキーだが、いる時には暴力を振るわれて追い払われたのだろう。リリアが暴力に怯えるので、一切抵抗をせずに、されるがままになって、黙って戻ってきたのだろう。ジーンと12歳の時から軍学校で一緒だったジャンマリーは苦笑していた。
「多分、ミルワースに抵抗できなかったのも、父親と重なったんだろうな」
絶対に抵抗してはいけないもの。
「とか、俺が言ってたってばれたら、俺、めちゃくちゃ蹴られるから! 黙っててね!」
自分が撮ったジーンの若い頃の写真が出回っていたという事件を聞いて、謝罪にワインを持ってきたジャンマリーは、ジーンが怖くて顔を会わせられないようだった。警察署近くのコーヒーショップにツグミを呼び出して、ワインとツグミには口止めにジーンのかなり古い画像までくれた。
鮮やかな赤い髪を短く刈っている軍学校時代の十代のジーンは、ぞくりとするほど色気があった。
「言わないけど……この画像、どこかに流したら、口が滑るかもしれないな」
タブレット端末に送られてきたこの画像を、ジーンからどう隠そうかと思いながら、ジャンマリーを睨んだツグミに、禿頭に入れ墨の長身の男は両手を掲げて降参の意を示す。
「誓って、流さないよ。……ツグミちゃんが、暴力を振るう奴じゃなくて良かったと本当に思うよ」
父と兄を十に歳で失って、どちらかと言えば過保護に甘やかされて育ったツグミ。末っ子で、愛情だけは溢れるほど受けた自覚がある。
「俺、すごく可愛がられた記憶しかないんだけど……それが、ジーンと出会って、ジーンを大事にするためだったなら、やっぱり、家族に感謝しないと、だな」
しみじみと呟いたツグミに、ジャンマリーは片目だけで笑った。
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