4.スペードで十三枚

 部屋に帰ったら、赤い髪の年上のピアニストは大抵眠っている。一歩も外に出ていないのも、デリバリーも頼んでいないのも、体調が戻っていないせいか、それとも、ストーカーの陰に怯えているからなのか。

 耳のいい、人の気配に敏感なジーンが、ベッドから起き上がって、リビングに出てくるのをツグミは夕飯用に買ってきた中華料理の紙の箱を広げて、中華粥の真空パックのパウチを温めて待つ。ジーンは中華粥だけを食べて、ツグミの顔をちらりと見上げた。


「シャワーを、浴びたい……」


 高熱と怪我を理由に、浴室で倒れることがないように、できるだけツグミのいる時にシャワーは浴びて欲しいと彼を保護してから二日目に告げたら、きっちりとその通りにしてくれている。着替えはリョウとアケビに相談して、パジャマや部屋着やシャツやジーンズなど、ある程度揃えたが、ほとんどの時間をベッドで過ごしているのに、ジーンはシャツにズボンという格好を好んだ。

 何かあればすぐに逃げられる格好だと、ツグミも気付いている。枕元に靴を置いているのも、ジャケットを置いているのも、同じ理由だろう。


 シャワーを浴びたいと、タバコが切れた、以外の要求をしないジーンは、あまり饒舌でもなく、どこか静かに部屋にいて、喋らない吠えない鳴かない懐かない生き物を飼っているような気分になる。ストーカーが追い掛け回す理由など、被害者にあるはずはなく、ストーカー自身の思い込みであると分かっているのに、ジーンのいる空間が心地よいような気がしてきて、ツグミは自分が怖くなる。

 他人の執着という暴力によって蹂躙されたこの人は、きっと、ツグミが特別な感情を抱いたら、そのことを受け入れられないだろう。それどころか、少しでも休める場所を奪ってしまうことになりかねない。


 濡れてウェイブが緩くなった赤い髪をバスタオルで拭きながら、シャツにジーンズに裸足という姿でジーンがソファの端っこに腰掛ける。連れて帰った日から一週間経って、熱も治まっていたが、相変わらず顔色は良くない。その顔色の悪さは精神的なものと、不規則な食生活から来ているのではないかと思っているツグミだが、年上の元軍人のプライドを損なわずに告げられるか自信はなかった。


「俺、送り迎えしてもいいから、カウンセリングに通ってみるとか……」


 自分の配慮が足りなかったと後でリョウ、ハンと三人で言い合ったのだが、性的暴行とストーカーの被害者で、カウンセリングが必要な状況の上に、熱もあったであろうジーンに、ツグミ達は銀行強盗を射殺させた。警察官でも、撃たれた場合、また人を撃ち殺した場合は、規定の回数カウンセリングを受けることが義務付けられているのに。

 延長コードを引っ張って来て、ソファでドライヤーをかけているジーンは、聞こえないふりを決め込んでいる。その手首にはまだ、薄らと痣が残っていた。


「じゃあ、朝、一緒に走らないか?」


 元軍人ならばある程度鍛えていた時期があるだろうと踏んでの提案に、ジーンはようやくその空色の目をツグミに向けた。



 ジョギングにセリカを呼んだのは、ハルバート班で彼女が被害者の対応に一番向いているという噂を聞いたからである。事情を知っているセリカは、タンクトップにショートパンツ姿でツグミの部屋の近くの公園に来てくれた。ジーンはジャージにTシャツでだるそうに立っていた。芝生の青い公園のジョギングコースを、ジーンのペースに合わせてゆっくり回ろうと思ったのだが、意外にジーンのペースが速くて、ツグミは置いて行かれそうになる。

 身軽なセリカはジーンと並んで走っていた。金髪に青い目の彼女は、ジーンとほとんど身長が変わらない。短く切ったセリカの金髪と、長いジーンの赤い髪。


「邪魔じゃない?」


 休憩して水分補給をするセリカが問いかけて、ジーンは自分の長い髪を摘まむ。


「面倒で切ってないだけだ……切ってくれるなら切ってもいいが」

「あーダメダメ。私、そういうのは苦手なんだ。酷い髪形になったら、ギア姉弟に睨まれる」

「なんで、ツグミがお前を睨む?」


 不思議そうに、僅かに不快そうに問いかけたジーンに、セリカが小さく微笑んだ。


「ツグミはあんたが、好きだよ。性的対象とか、そういうのじゃなくてね」

「ちょっと、セリカ!?」


 なんてことを口にするのだと割って入るツグミに、セリカが吹き出す。


「慌てると、不審がられるよ?」

「友達っていうか、その……同居人として、悪くないって思ってるだけだよ。変な誤解するなよ!」


 必死に弁解するツグミに、ジーンは眉間に皺を寄せて、「水を買ってくる」と告げてその場を離れた。その背中が見えなくなってから、ツグミはセリカに恨めし気な視線を向ける。


「ジーンはそういうのに敏感なんだから、やめて下さいよ、本当に」

「そうだね……ちょっと、敏感すぎる感じがする。人の好意を受け取れないって、すごくキツイ状態だからね」


 真面目な表情になったセリカに、ツグミも真面目な表情になった。


「あの人、すぐに、ほっといてくれとか、関わるなとか、言うんですよ」

「巻き込むからだろう。多分、何度も誰かを巻き込んで来たんだよ」


 軍に買収された弁護士を解雇して正義感の強い弁護士を雇ったら、その弁護士の家族が事故に遭ったとか、繰り返される性的暴行に親友の軍人に助けを求めたら、直談判をしに行った翌月にその親友が最前線に飛ばされて行方不明になったとか。

 調べ上げたのであろうセリカが連ねる言葉に、ツグミは言葉を失った。


「アンドリュー・ミルワースにそんな権力があるとは……」

「違うよ、本当に揉み消したかったのは、ミルワースじゃない。ミルワースは所詮、大尉だよ」


 鮮やかなセリカの青い目に深い影が落ちる。彼女もまた何かを失った人物だと、ツグミは悟っていた。


「ダニエル・リード」


 ダニエル・リード大佐。

 息子の醜聞を握り潰すために、ミルワースを懐に入れて、息子を切り捨てた男の名前。


――むだだよ


 病院の診察台の上で、感情のない声で呟いたジーンの姿が脳裏に浮かんで、ツグミは遣る瀬無い気持ちになった。

 

――突然の火災で動揺されていると思いますが、誰か話を聞いてくれる人とか、家族とか、いますか?


 あの日、ツグミが何気なくジーンにかけた言葉が、今更ながらにツグミ自身の胸に突き刺さってくる。『家族』なんていないのだ、ジーンには。話を聞いてくれる『家族』なんて。


「俺は、無神経な俺を殴りたいです」

「ギア弟、あんたは何も知らなかった。あんたが自分を責めても何の解決にもならない」

「でも、俺はマニュアル通りの言葉しかかけられなかった」


 俯いたツグミに近寄り、セリカはその大きな手を握った。


「誰だってそうなんだよ。私も、何もできずに、大切な人を失った後に、血を吐くほど後悔した。いいじゃないか、あんたは、まだ、失ってないんだから」


 少しでも好意を持ったのなら、大事だと思ったのなら、手放すなと、決して手を放してはいけないと、セリカはツグミに告げた。



 水を買うついでにタバコも買い足しておこうと、公園を出て近くの店に入ったジーンは、店のトイレに駆け込んだ。胃液が逆流して、便器に胃の中のものを全て吐き戻してしまう。手を洗って口をゆすいでいる間も、誰かに見られているような気がして、何度も振り返るジーンだが、狭い店のトイレには彼以外の人影はなかった。

 いつ目を付けられたのか。父親が大佐だったからか、それとも、ジーンのスナイパーとしての腕が秀でていたからか。軍基地の板とカーテンでしか仕切られていないシャワールームに入り込まれて、大きな手で口を塞がれた時、なぜ噛みつかなかったのか、ジーンにも分からない。ただ、自分の身に起こっていることが、現実味を帯びなかった。

 抵抗しなかったから、合意だといけしゃあしゃあと口にしたミルワースの頭を、吹っ飛ばしてやろうと思ったことも何度もあった。夜中に誰もいないのに、気配を感じた気がして飛び起きた夜もあった。

 最初は毅然と戦うつもりだった。


――ピアノしか弾けない女が産んだ子どもは、女の真似事しかできなかったか


 ピアニストだった母親が父親の独裁に耐えかねて出て行った後、自分からピアノを取り上げて、軍学校に無理やり入れた父親が……それ以来顔を会わせていなかったあの男が、吐き捨てるように言った瞬間、正直、どうでもよくなった。軍に執着することも馬鹿らしいと、和解を受け入れて、慰謝料ともいえる大量の退職金を受け取った。

 それで全部終わると思ったのに。

 まだ、ミルワースの影が、その後ろに父親の影が、付き纏っている。

 水とタバコを買って公園に戻ると、帰りが遅かったからか、入口のところまで来ていたツグミと目が合った。ジーンを認識した瞬間、ほっとしたように笑って駆け寄ってくるツグミに、ジーンは胸中でため息を付く。


 もっと遠くへ逃げなければいけない。

 誰も、自分を見ないところまで。

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