3.ハートで十三枚
ジーンは靴音が嫌いだ。
革靴がたてる軋むような音が嫌いだ。
軍靴がたてる傲慢な音が嫌いだ。
登山靴がたてる金属の混じった音が嫌いだ。
ハイヒールのたてる神経質な音が嫌いだ。
サンダルのたてる軽薄な音が嫌いだ。
スポーツシューズのたてる擦れるような音が嫌いだ。
それらが足裏から自分の骨を伝って体の中に響くのが非常に気持ち悪く、ジーンは外出しない限り靴を履かない主義だった。
――お前は雌であればいい
あの男の靴は、磨かれた革靴だった。
薬が抜けていないからなのか、栄養失調なのか、それとも熱があるのか、ただ夜にバーで働いているので昼夜逆転の生活を送っていたからなのか、ひたすらに眠くて、ジーンがこのまま体が溶けてベッドと同化してしまえばいいのにとか、詮無いことを考えていると、そろりと寝室に入って来た長身の若い男性が、カーテンを音を立てないように開ける。アジア系なのか、彼は靴を履いていなかった。髪の色と目の色は薄茶色で、鍛え上げられた体躯の彼の名前を、ジーンは溶けそうな脳みそでどうにか思い出した。
「ツグミ……」
呼ばれて、ツグミは愛嬌のある犬のような目をジーンに向ける。
「起こした、かな。ていうか……あんたの方が年上なのに、敬語もなくなっててごめん」
それどころじゃなかったと謝るツグミに、ジーンは横になったまま片手をひらひらと振る。
「気にしなくていい。目もほとんど覚めてた」
「薬を飲むために、何かお腹に入れた方がいい。何か食べられそうなものがあるか?」
「オートミールとか?」
「オートミールとか!?」
ふやけた大麦の触感が大嫌いな人が多いというこの国版のお粥の名前を出すと、ツグミが大げさに顔を歪めた。表情豊かで、正義感が強い、若い警察官。
「中華粥でも作るか?」
「重くないものなら、何でもいい」
「ピザとか?」
「ピザとか」
ツグミに合わせてから、ジーンは力なく笑った。痩せているのも、背が高くないのも、昔からなのだが、ツグミは分かりやすく痛々しくジーンを見るので、ジーンの方が罪悪感を覚えてしまう。
「歩けるなら、指紋登録をしておこう。自由に出入りできないと困るだろ」
当然のように、手を貸してベッドから立たせようとするツグミに、ジーンは呆れ顔になった。
「慈善事業がしたいのか?お人好し極めてるな……」
少し症状が落ち着いたらすぐにでも出ていくつもりのジーンに、ツグミは指を突き付ける。
「あんたは、怪我人で病人なんだって何度言ったら分かる?マスターには連絡しとくから、しばらくゆっくりした方がいい」
さすがに警察官の部屋にミルワースも踏み入ってこないだろうと楽観視するツグミに、ジーンは微笑ましさすら覚えた。
蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のようだと、あの男は言った。
ジーンの体をベッドに拘束して。
死ぬまで永遠に貪り食われる運命なのだと。
指紋認証システムに登録を完了して、ついでにジーンの携帯端末にツグミの連絡先を入れて、ジーンをソファに休ませて、ツグミはキッチンでレトルトパウチの中華粥を温めて、ジーンと一緒に食べた。鶏ガラのスープと塩味のついたそれは、数日間水分もほとんど入れてなかった胃に優しく、しみ込むようだった。シャワーを浴びたいとごねたジーンに、熱が下がったらと言い含めて、ジーンが薬を飲んでベッドに入ったのを確かめて、ツグミは出勤して行った。
部屋が静まり返る。
自分のものではない匂いのする布団に包まって、ジーンは目を閉じた。
あの男の息遣いが、手が、舌が、今にも肌に触れに来るような気がして、上がる心拍数を叱咤して下げる。自分を制御するのは得意だったはずだ。戦場で何時間も、何十時間も、同じ体勢で狙撃中を構えていたことがある。心拍数も、呼吸も全て制御して、狙いを定めていた。
ピアノが弾きたい、タバコが吸いたい。
それ以外は、脳内から排除した。
休憩時間にハンから声をかけられて、ツグミはハンと姉のリョウと昼食をとることになってしまった。新米警官のツグミからしてみれば、全員ものすごい上司である。
「ハリーとリョウから聞いたよ。大変なことになってるって」
ポテトを摘まんで口に入れるハンに、リョウがドーナッツを千切って口に入れた。
「ツグちゃんじゃなくても、見たらほっとけないと思うよ」
詳しい被害状況をアケビから受け取ったであろうリョウに、ハンが「そうだね」と穏やかに応える。性的暴行に、薬物使用に、監禁に、暴力……これだけを聞いて、黙っていられる警察関係者はどこか感覚が鈍いのだろう。
「そういえば、ツグちゃん、アケビが連絡取れないって、私にメール送ってたよ?」
「あ……携帯忘れた」
早朝にジーンの携帯端末に連絡先を登録した時に、ソファの前のテーブルに携帯端末を忘れていたと思い出し、ツグミは車の鍵を手に取った。
「休憩時間中に、取ってくる」
残りの休憩時間を脳内で計算している時に、ロザリンドとハンとリョウの携帯端末が音を立てた。三人が顔を見合わせる。
「呼び出しか」
付近の銀行で強盗が立てこもっているという情報に、ハンが珍しく苦い表情になった。
「アスラの御大がオフなんだよね」
スナイパーも兼ねるハルバート班の一員、アスラがいれば、わざわざスナイパーを手配しなくても済む。そのためにハルバート班は検挙率が高い、と言われていた。
「とりあえず、うちの班で直行しとくから、リョウはスナイパーの手配を、ハリーは突入に備えて」
動き出した三人がバーガーショップのドアを開けた瞬間、僅かに驚いた様子の長い赤い髪に空色の目の痩せた小柄な男性……ジーンが紺色の長いジャケットを羽織って立っていた。
「携帯を忘れてたから届けに来たら、こっちだと、言われたんだが……」
「ジーン・リード!? 本物!?」
声を上げたリョウに、ジーンは両手を緩く掲げる。
「私は、ジーン・リードだが」
「二キロ先の敵を撃ち抜いたって伝説の!?」
「二,六キロだ、正確には」
冷静に答えるジーンの姿に、「緊急事態」ということで、全員の脳内から、「民間人」「病人」「怪我人」という単語が吹っ飛んだ。
「ツグちゃん、この方と一緒に銀行の向かいのビルに上がって!」
狙撃銃はすぐに手配できるからと、ジーンとツグミを押し出したリョウに、ジーンが空色の目を瞬かせる。
「五年前の話だ」
「合衆国民のために?」
「命と名誉を懸けて戦う」
「よし!」
リョウにつられて思わず口にしてしまったジーンだった。
銀行強盗は、向かいのビルからの狙撃によって射殺された。
「面白くない……」
白い髪に赤い目の小柄な男性の呟きに、黒髪に黒い目の長身痩躯の男性が不快そうに目を細めた。
「可愛い弟に会うのが面白くない、なんて欠片も思ってないからな」
「私は面白くないから、会いに来るな」
私の兄はもうお前ではないと冷ややかに告げる黒髪の男性に、白い髪の男性は大げさに傷付いたそぶりを見せた。
「あいつ、アスラよりも腕は上だよ」
「だろうな」
「欲しいね……埋もれさせるのはもったいない」
「お前に、欲しいなどと言われる人間に、心底同情する」
黒髪の男性は吐き捨てて、部屋を出て行った。
「ユーリちゃんと相談しよっかな」
口笛を吹いて、白い髪の男性は携帯端末を手に取った。
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