2.ダイヤで十三枚

 部屋に戻る車の中で、ジーンは助手席で眠っていた。顔色が悪いせいか、やたらと白く、痩せた頬に落ちる睫毛の陰に、妙な色気を感じ取って、ツグミは彼が受けた暴力を思った。五年前に軍を辞めさせられたと言われていた。その間、ずっと付き纏われていたとも言っていた。

 五年間もストーカーに追いかけられるというのは、どんな気分なのだろう。逃げても逃げても追ってくる陰に怯えて、やがて諦めて、受け入れる。信号で車を止め、ハンドルから手を外して、長い赤い髪が乱れて頬にかかっているのを直そうとした瞬間、ジーンの目が見開かれた。空色の目が、ツグミを映す。

「触られるのは、嫌いなんだ」

 少し潤んだようなとろんとした目に、ツグミはジーンの前髪を掻き上げて、額に手を当てた。体温が高い。処方してもらった薬の袋に目を向けるが、ミネラルウォーターを買うのを忘れていた。


「……きもちわるい」

「車を停めようか?吐くか?」

「そうじゃなくて、お前の手が」


 言われて、ツグミは慌てて手を引いた。


 他人からの執着。

 無造作に触れる手。


 それら全てが、ジーンにとっては気持ちが悪いとツグミは理解できた。隠れて怯えた日々が彼を追い詰めたのか。それを思うとツグミは体の奥が軋むような思いがした。

 バーのピアノはいつも流れていることすら感じさせないほどに、自然に存在していた。ツグミが警官になって姉のリョウとアケビが祝ってくれた日も、初めて人を撃った日も、母が死んだ日も。

 ストーカーの陰に怯えていたであろうに、それを全く感じさせなかったピアノの音。自分の部屋が火事になったと知った時も、立ち上がっただけでジーンはすぐに演奏に戻った。


「もしかして、あの火事も……?」


 答えずに目を閉じたジーンの態度が、返事になる。




 熱のせいか、栄養失調なのか、ほとんど歩けないジーンを、抱きかかえるようにしてツグミは部屋に戻った。指紋認証でドアを開けて、家具の少ない小ざっぱりとした部屋に、ジーンを招いた。ジーンが自由に出入りできるように、指紋登録をしなければいけないと思いながら、かなり高いジーンの体温に心拍数が上がる。

 広くない部屋なので、客室がないためツグミはとりあえずと思い、ジーンを自分のベッドに寝かせた。かけられた布団を嗅いで、ジーンの眉間に皺が寄る。


「起きてるのか?」


 問いかけに答えはなかった。病院でアケビが鎮静剤と栄養剤を注射したと言っていた。それで眠気がきているのだろうと思いつつ、いつでも薬を飲めるようにと、枕元のサイドテーブルにミネラルウォーターのペットボトルと処方薬を一回分だけ置いておく。オーバードーズするとは思わないが、精神状態が不安定になっているのは確かだろう。


「ジーン……ちょっと、腕の痣の記録を取らせてくれ」


 警察官として当然の行動を取ろうとするツグミに、体を縮こまらせるようにして、ジーンがベッドの端へ緩慢な動作で逃げた。


「ジーン、俺だ」

「さわるな……」


 水色の目が虚ろになって、高熱のある体ががたがたと震えだしてツグミは、一歩下がって両手を掲げた。


「何もしない。大丈夫だ。何もしないから」


 息が荒いジーンが前のめりに倒れて、また意識を失うのに、ツグミはそっと布団をかけて部屋を出た。リビングのソファに横になると、一日の疲れが襲ってきてツグミはすぐに眠りに落ちた。



 着信音にツグミは眠りから覚醒した。枕元に置いていた携帯端末を手に取って、ツグミは通話に出た。液晶画面には、姉のリョウの名前が映し出されていた。


『ツグちゃん、男の人拾ったんだって?』


 単刀直入なリョウが切り出した言葉に、ツグミは携帯端末を取り落しそうになる。


「リョウ、俺は善良な市民を助けてるだけだよ」

『だったら、ツグちゃん、大変だね。そこらじゅうにいるホームレスを拾っていかなきゃいけないかもね』

「そうじゃなくて……」

『分かってる。アケビから聞いたよ。酷い状況だったらしいね』


 風紀の仕事を中心に引き受けているリョウは、こんな事件をいくつも見てきたのだろう。情報がアケビから行ったとすれば、ジーンがどういう状況でツグミの家に連れて帰られたかは筒抜けなのだろう。


『あのピアノバーのピアニストがね……ジーン・リード、元軍人で凄腕のスナイパーだったらしいよ』

「刑事の職権をこの上なく乱用してるね、リョウ」

『弟が保護した相手だから、気になるし……同性婚も珍しくないこのご時世で、同性愛をどうこう言うつもりはないけど、あのミルワースは相当の変態趣味って噂で』


 心底気色悪そうなリョウの声が携帯端末から流れてきて、ツグミは顔をしかめた。その詳細を知りたいとは思わず、ツグミはため息だけつく。元は軍人だというから、相当に鍛えられていたであろうジーンの薄いシャツの下の痩せた体に、軍を辞めさせられてからの彼の5年間を思わずにはいられない。


「関わったからには、放っておけないし、しばらく彼の様子を見るよ」


 その間に、リョウがあの元軍人の壮年の男、アンドリュー・ミルワースを捕まえてくれないものかとツグミは心の底から思った。通話を切る瞬間、リョウが小さく呟いたのを、ツグミはぼんやりと聞いていた。


『そういえば、スサキも生きてたら、彼の年だったね』




 寝室の方で物音がした気がして、ツグミはジーンを驚かせないように電気を付けずにノックして寝室に入った。


「ジーン、俺だよ、ツグミ・ギアだ」


 名乗りながら入った部屋は真っ暗で、ドアから差し込んだ光でベッドが空っぽなのが分かる。ベランダに続くカーテンが風に揺れている。ぞくりとして、ツグミはベランダに駆け寄った。窓が開いていて、暗いベランダに大柄ではない人影が立っている。

 裸の足がコンクリートを踏んで冷たかった。それすらも気にせずに、ツグミはジーンの肩を掴んでいた。


「早まるな!」


 ストーカー行為に傷付いた被害者が自ら死を選ぶというのは、珍しいことではない。冷え切った体を引き止めるために必死に抱きしめていると、ぺしぺしと腕を叩かれた。唇からタバコを外して、ジーンは静かに煙を吐く。


「タバコを吸いたかっただけなんだ。安心してくれ、お前の部屋の賃貸価値を下げるつもりはない」

「笑えないジョークはやめてくれ」

「お前、喫煙者じゃないだろ。部屋に匂いを付けたくない」


 軽く説明したジーンに、ツグミは腕から力を抜いた。


「怪我人で病人が、そこまで配慮して下さらなくて結構です。ベッドを燃やさなけりゃ、寝室で吸っていいよ」

「そりゃ、どうも。さすがに、私も、部屋を自分で焼きたくない」

「……すまない」


 腕を放してから、ツグミはジーンがほんの1週間前に部屋を焼き出されたのだと思い出す。毎日事件に触れているので感覚が鈍くなるが、ツグミにとってはたくさんの事件の内一つでも、ジーンにとっては生々しい人生の一部であり、現在進行形で起こっている事件なのだと痛感する。

 携帯用の灰皿にタバコを押し込んだジーンと寝室に戻って、少しタバコくさいジーンをベッドに押し込むと、空色の目が不満を訴えてくる。


「警官は体力仕事だろう。私の方が小柄だし、ソファで充分だ」

「怪我人で病人はそういうことを考えなくていいんだって。俺は若いし」


 サイドテーブルの上の薬もミネラルウォーターも減っていなかったので、ツグミはジーンに手渡して飲むように促す。まだ熱っぽいジーンは、大人しくそれを受け取った。薬を飲み下すジーンに、ツグミは寝室を出た。

 携帯端末を片手に、ツグミはアケビに連絡を取る。


「ジーン・リードの血液検査の結果は?」

『メールするわ』


 端的な答えに通話を切って、すぐに送られてきたメールに目を通した。


「無駄だよ。全部、同意だったことにされる」


 寝室のドアに寄り掛かるように立っているジーンに、ツグミは駆け寄る。目が虚ろなのも、潤んでいるのも、熱のせいだとばかり思っていたが、血液検査では、所謂ドラッグが陽性だった。

 監禁されて、ドラッグを使用されて、暴力を振るわれて、その証拠が目の前にあるのに、全て握りつぶされてしまう。新米警官のツグミにできることなど、限られている。


 正義の味方になりたかったわけではない。


「関わってもいいことはない」


 いっそ平静なジーンの声に、ツグミは奥歯を噛みしめた。

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