ナポレオン
秋月真鳥
第一部
1.クラブで十三枚
ナポレオンとは高度な頭脳戦と心理戦を必要とするトランプのゲームのことである。
ツグミ・ギアは、二男二女のギア家の兄弟の年の離れた末っ子だった。
長男、スサキ・ギアは宇宙課の刑事で、長女、リョウ・ギアは軍人で、次女、アケビ・ギアは医学部に入学したばかりで、次男で末っ子のツグミは十二歳だった。
マフィアに潜入捜査をしていたというスサキが、憔悴した様子で休暇を取らされて家に帰って来ていた。リョウは海外派遣でアジアに行っていたし、アケビは大学のために寮にいたから、家にはツグミとショッピングモールのバーガーショップで働く母と、地上警察の父がいた。父はいつものように出勤して行って、母はツグミをジュニアハイスクールに送ってから、仕事に向かった。
その日の二限目の授業で、ツグミは連絡を受けてすぐに帰宅させられた。
兄、スサキが父の勤務する警察署に爆弾を持って入り込み、六人の警官を巻き込んで死んだというのを聞かされたのは、家に帰ってから。その中に、説得に当たっていた父が混じっていたことも、すぐに教えられた。
潜入中に兄がマフィアに何をされたのか。テレビが、ゴシップ誌が、各社新聞が、好き勝手に書き綴った。それを十に歳のツグミから隠す術は、悲しみの中にあった母も、すぐに派遣先から戻って来た姉も、大学から帰って来た姉も、持つはずがなく、ただ、賑やかだった家は灯りが消えたように静まった。
それから、十一年。
リョウは軍を辞めて、地上の風紀課中心の班を率いる刑事になった。アケビは勤務医になった。そして、ツグミは地上の警官になった。
ピアノの音が響くクラシックなバーで、豊満な黒人の女性がジャズを歌っている。緩やかにスウィングする旋律に耳を澄ませながら、ツグミは灰色の髪の穏やかな男性と共に、カクテルを飲んでいた。姉より三つ年下の彼は、赤みがかった李色の目を細めて、静かに音楽を聴いているようだった。
「リョウと、結婚するつもり、なんですか?」
姉の恋人で、別の班を率いる刑事の彼は、ツグミにとっては所謂上司である。
「リョウは、婚姻届けは落ち着いて出しに行きたいから、産休に入ってからって言ってるんだ」
ツグミの姉のリョウが海外派遣に行っていた頃に出会ったという彼、ハン・ハルバートは、この国とアジアの混血だった。父親がこの国の人間で、ハンが生まれてすぐに国に帰ったらしい。ハンは父親に認知されていたので、この国に渡って国籍を取得して、刑事になった。
「じゃあ、婚約してるってことですよね」
「そうなるね」
「おめでとうございます」
この年の割りに落ち着いた上司を、ツグミはかなり好意を持っていた。個性的な班のメンバーを統率しているだけはある。
「君もおめでとう。秋にはおじさんだね」
言われて、ツグミは照れ臭そうに笑った。リョウは今、妊娠していて、後方支援のデスクワークに回っている。十一年前の事件以来、沈んでいた家族に明るさが少し戻って来たような気がする。
乾杯してグラスの中身を干そうとした時、ハンとツグミの携帯端末がポケットの中で鳴った。顔を見合わせて、互いに通話に出る。
『三丁目のアパートメントで不審火発生。付近の警官は向かってください』
「二ブロック先か……行くか」
呟いて立ち上がったハンに、ツグミはカウンターに勘定を置こうとした。バーのマスターの顔色が変わっている。
「ジーン……二ブロック先って」
少し大きめに店に響いたマスターの声に、ピアノの音が止まった。
身長百六十五センチくらいで、緩やかに波打つ鮮やかな赤い髪を長く伸ばしていたので気付かなかったが、椅子から立ち上がったピアニストは、男性のようだった。白いシャツに黒いベストの細身の彼は、空色の目を瞬かせた。
反応はそれだけだった。そのまま、彼はすとんと椅子に戻って、演奏を続ける。滑らかに続けられるピアノの音に動揺は感じられなかった。
それが、酷くツグミの胸に突き刺さった。
警察署に来た赤い髪のジーンと呼ばれた男性は、白いシャツはそのままだったが、紺色の長めのジャケットを羽織っていた。アパートメントを一軒焼いてしまった火事は、三階の住人のタバコが原因で、その上の階のジーン・リードの部屋は全焼だった。現場検証が終わって、焼け残ったものを回収するとしても明日以降になるし、それらは全て焼け焦げて水浸しだろう。
一通りの説明を受けて出てきたジーンが、特に動揺していない様子なのに、ツグミは違和感を覚えた。自分の部屋が焼けたとなれば、どれだけ冷静な人間でも少しは取り乱すものだろう。それが分かりにくいだけなのかもしれないが、放っておけない感じがして、ツグミは彼に声をかけた。
「あの……泊まるところとか、ありますか?大丈夫ですか?」
一瞬だけ、空色の目がツグミを見た。
「タバコを」
「え?」
「タバコを吸える場所はあるか?」
ジャケットの胸のポケットからタバコとライターを取り出して見せたジーンに、ツグミは喫煙ルームに案内する。分煙が厳しくなってから、署内にも喫煙ルームが設置された。
「突然の火災で動揺されていると思いますが、誰か話を聞いてくれる人とか、家族とか、いますか?」
マニュアル通りのツグミの問いかけに、ジーンは喫煙ルームの中でタバコに火を付けて、煙を吸い込む。そして、眠たそうな目でツグミを見た。
「お前、喫煙者じゃないだろう。私は他人に受動喫煙を強要したくない。心配はありがとう。でも、不要だ」
少しかすれた静かな声に、深い拒絶を感じ取って、ツグミは喫煙ルームを後にした。
次にツグミがバーに行ったのは、一週間ほど経ってからだった。ツグミやハンの班、姉のリョウの班のメンバーがよく使っているので、マスターはツグミが警官だと知っている。仕事上がりのツグミに、マスターは声を潜めて問いかけた。
「失踪届って、肉親しか出しちゃいけないもんなんかね?」
ピアノの音がないことに気付いていたツグミは、空いたピアノの椅子を見る。
「誰か、気になる人がいるのか?」
「うちのピアニストのジーン・リードなんだが……火事で部屋が焼けた翌日から、出てきてないんだ」
マスターの言葉に、ツグミは嫌な予感を抑えきれず、カウンターに身を乗り出して詳しい話を聞く。
「昔のつてで、泊まるところを探すとは言っていたんだが、もしも、自分がいなくなったら、警察にこの男のことを届けてほしいって」
差し出された端末に打ち出された住所を自分の端末に移して、ツグミは車に乗り込んだ。
向かった先は高級住宅街だった。そして、その住所の名前も憶えがある。確か元軍のお偉いさんで、今はどこかの議員に立候補しているとかいう名士だった気がする。
玄関でチャイムを鳴らすと、バスローブ姿の壮年の屈強な男性が出てきた。事情を話すと、鷹揚に笑う。
「彼ならいるが、眠っているので、身支度をさせよう」
嫌な気配を感じながら、玄関で小一時間待っていると、髪の濡れた顔色の悪いジーンがふらつきながら出てきた。
「ちょっと……あんた」
思わず身構えたツグミに、ジーンが気だるく頭を左右に振った。
「じゃあ、また、ジーン」
こめかみにキスをされても、ジーンの表情はひたすらに虚ろだった。
ほとんど歩けないジーンを車に乗せて、ツグミは病院へ直行した。姉のアケビが勤務している病院は、警察署からも近く、よく犯罪被害者を乗せていく。アケビはジーンの様子を見てすぐに察したようだった。
車の中で意識を失ったジーンを渡して、診察室前で待っていると、アケビがツグミを呼んだ。
「この人、多分、レイプされてるわ」
痕跡は全て洗い流させられたのだろうと、悔しそうに言うアケビの向こうで、診察台の上で眠っているジーンの両手首にまだ鮮やかな赤い拘束されたような痣があった。
「意識が戻ったら被害届を……」
「むだだよ」
だるそうに空色の目が薄く開く。
「五年前に軍で同じことをされて、訴えたら、私は軍を大量の退職金という口止め料と共に、辞めさせられて、それ以降も付き纏われてる。どこに引っ越しても無駄なんだ」
だから、ほっといて、静かに眠らせてくれと言った声に、ツグミは思わずその痛々しく赤い痣のできた手首を掴んでいた。
兄が父を含む六人の警官を巻き込んで死んだ時、ツグミは何かを諦めた。
何かを、手放した。
目の前で今、何かを手放そうとしている人間がいる。
「俺は、ツグミ・ギア、二十三歳。とりあえず、あんた、俺の部屋に来い。そんな理不尽を許しちゃいけない!」
「それで?」
目を開けているのもだるいのか、目をつぶったまま呟いたジーンに、ツグミは問い返す。
「それでって?」
「お前も同じことをしたいのか?」
「俺は、ゲイじゃない!」
宣言した声が、意外と大きく響いてしまって、姉のアケビが苦笑する。
「眠いんだ、ほっといてくれ」
そっけなく言って、自分を守るように身を丸めたジーンを、ツグミは担ぎ上げた。
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