7.ハートで十四枚

 戦場に出た者、犯罪被害にあった者、時に職務上で人を撃った者、撃たれた者、虐待を受けた者、虐待をする者……とにかく、この国にはカウンセリング神話が成り立っているような気がして、気の進まないジーン。


「自分では気付いてないかもしれないけど、ジーンは大変な目に遭ったんだから、カウンセリングは受けるべきだと思うよ」


 再三言うツグミ。警察署の上司から受け取ったという、カウンセリングを受けたという証明書に医者のサインをもらって来いと渡されて、ジーンは空色の目を僅かに伏せた。都合が悪くなると、沈黙を貫くのがジーンという年上の男なのだと理解してきたが、多少様子が改善されたように見えても、気になるのには変わりなかった。

 カウンセリングが義務であり、それを受けない限り、職務停止もあり得ると告げても、ジーンから快い返事は得られなかった。

 ドライヤーをかけ終わって寝室に入ったジーンに、ツグミはため息を付いて携帯端末を手に取った。


「ロザリンド、ツグミだけど、ジーンのことで相談があって。今、大丈夫かな?」

『いいよ。ツグ、どうしたの?』


 携帯端末から流れた明るい声に、ツグミは少しだけほっとして、少しだけ体の奥が焦げ付くような自分でもよく分からない感覚を味わう。自分では無理でも、ロザリンドならできるかもしれない。完全に立ち直ったジーンは、あの鮮やかな赤い髪を翻して、軽やかにツグミの横を通り過ぎていく。そして、誰かに笑顔を向けて、手を差し伸べる。

 そんなことを考えている場合じゃないと、軽く頭を左右に振って、ツグミは話を続けた。


「カウンセリングを受けるように署長からも言われてるんだけど、どうしても、いいよ イエス って言ってくれなくて」


 カウンセリングが義務だと言っても、自分が大丈夫だと思っている人物……本当にカウンセリングが必要な人物ほど、受けたがらないものだった。


『そっか。知り合いにいるから、ちょっと、連絡してみるね』

「助かるよ」


 礼を言って通話を切ってから、ソファに横になると、寝室から布団と灰皿を抱えたジーンが出てきた。今正に彼の話をしていたところで、聞かれたかとぎくりとするツグミに、ジーンは不思議そうに瞬きをして、ソファに布団を置いてローテーブルに灰皿を置いた。

替われ チェンジ


 自分はソファに、ツグミをベッドにと促すジーンに、ツグミは薄い色の目を見開く。


「いや、でも……」

「もう怪我人でも病人でもない。薬も必要ないと、アケビが言ってただろう」


 今日の休憩時間に病院に行ったジーンは、確かに外的な傷は完治したとアケビに告げられていた。安定剤を出そうとするアケビに、仕事ができていることなどを理由に、眠気を伴うような薬の常用はやめさせてもらったジーンだが、フラッシュバックや、調子が悪くなった時ように頓服はもらっている。過保護だし余計なお節介だと思われるだろうが、その何錠かをツグミは預かって、薬ケースに入れて持ち歩こうと思っていた。


「いいよ、ジーンがベッド使って」

「私とお前では体格が違う」

「そうだけど」


 ソファからはみ出そうなツグミを、ジーンはかなり前から気にしてはいたのだろう。その気持ちが嬉しいような気がして、思わず伸びた手が何をしたいのか、ツグミははっとする。


「どうした?」


 鈍いような淡いような表情で、緩慢に首を傾げたジーンに、抱き締めそうになったなどと口が裂けても言えず、ツグミは毛布を抱えて無言でジーンの横を通り過ぎて寝室に向かった。

 同じシャンプーとボディソープのはずなのに、ベッドにはジーンの匂いが残っている気がして、ツグミは何度も寝返りを打って中々眠りにつけなかった。



 ロザリンドの推薦で渋々向かったラボのカウンセリング室で、アージェマーと名乗ったカウンセラーはカウンセラーとしての適性を疑いたくなるような相手だったが、嫌悪感は抱かなかった。

 一回目のサインは、ほとんど自己紹介だけでもらえた。上司から命じられたカウンセリングの回数は五回。残り四回サインをもらえば終わりだと、ジーンはバイクをラボの駐車場に停める。エレベーターで褐色の肌に黒髪の長身の精悍な顔立ちの若い男性と一緒になる。ヘマタイトのような独特の輝きを持つ黒い目が、きょろりとジーンを映した。


「ジーン・リード?」


 問われて、ジーンは僅かに不快を表情に示す。


「私はそんなに有名なのか?」

「そうじゃなくて、俺は、カイ。カイ・ロッドウェル。ツグミの同期なんだ」


 育休で復帰したばかりだけど、と言葉を付け加えるカイに、ジーンはツグミと同期なのだから年は変わらないであろう彼をまじまじと見た。夫婦がどちらも働いている場合、どちらが育児休暇を取っても構わないという風潮がようやく浸透してきたが、頭の固い古い連中も多い警察や軍の中で、それを当然のように実行していると口にした彼に、驚きのような感情が浮かんでくる。


「二人目ができたから、ツグミがお祝いしてくれるって言ってたんだ。あなたも一緒だと嬉しいと思って」


 人懐っこく笑うカイに、そういえばツグミの姉も妊娠したという噂を聞いたと思い出した。


「ベビーラッシュなのか」

「だったら、次は、アスラのところかな?」


 既婚者の名前をあげるカイは、証拠を届けると言って途中の階で手を振って降りて行った。ジーンはそのままエレベーターでカウンセリング室のある階まで向かった。

 性別不詳の、暫定女医、アージェマーは今日も扉を開けっぱなしで、コーヒーを啜っている。威圧感を与えないために、扉を開け放しているのか、それともただずぼらなだけなのか。あまり気にせずに、ジーンは扉を閉めて、椅子に座った。

 観葉植物と、蒸気を上げる丸いフォルムの可愛いランプ付加湿器……多分、アロマオイルを入れることもできるのだろうが、香りは人によって好みがあるので、入れていないのだろう、とにかく、いかにも威圧感を与えないように設置された物達に視線を向けてから、ジーンはアージェマーを見た。


「サインをもらったら、それで帰る。手間は取らせない」

「私はサインを求められるほど有名人だったかな」


 笑えないジョークをあまり表情を変えず口にしたアージェマーに、ジーンはだるく息を吐く。


「ジョークは苦手なんだ」

「そのシュシュ、ロザリンドからもらったんだって?」

「……そうだ」


 ロザリンドの話題が出て、ジーンは髪を括っていた、茶色の光沢のある無地のシュシュに手を触れた。


「仲がいいようだな。君の話を色々聞いたよ」


 話といっても世間話なのだろうと、ジーンは推測した。ロザリンドはジーンが受けた暴力の詳細を知らないはずだし、何よりも、軽々しく口にするようなタイプではない。ロザリンドのことを話題に出したのも、ジーンに会話をさせるためだと気付いていたが、ジーンはあえてそれに乗った。


「妹と、似てるんだ」


 携帯で何度か連絡を取っていたが、連絡すればジーンの居場所が妹経由で父に知られて、そこからミルワースに行くという悪循環のために、父の元で孤独でいる妹とはもう五年近くまともに会っていない。


「妹さんに会いたいのか?」

「できれば、引き取って一緒に暮らしたい……あんな父親の元に置いておけない。まだ、十七なんだ」


 年の離れた小柄な妹を思い出して、眉間に皺を寄せたジーンに「人間らしい顔をしてる」とアージェマーは小さく呟いた。


「残念なことに、私も人間のようだ」

「笑えないな」

「ジョークは苦手と言っただろう」


 ジーンの苦笑に、アージェマーは僅かに目を細める。


「基本的人権の前に権力など無力だって、言ったよな、ドクター。じゃあ、親との関係の場合にはどう思う?」

「どういう意味だ?」


 問い返したアージェマーに、ジーンは表情を消した。


「軍の駐屯地で上官に性的暴行を受けた。訴えようとしたら、その基地の大佐だった父親が、全力で揉み消してきた。結果、私は慰謝料代わりの退職金を受け取って軍を辞めた」


 以上だと告げて、ジーンは椅子から立ち上がる。これ以上詳細に語ると、思い出さなくていいことまで思い出しそうになって、ジーンは込み上げてくる吐き気に耐えて、書類にサインをしてもらう。


「答えは、次までの宿題にさせてくれ」


 アージェマーの言葉を背に受けて、ジーンはカウンセリング室を出た。




 ツグミの同期というカイのお祝い会は、ピアノバーで行われた。カイの配偶者がハルバート班のアスラ、ヴァルナ双子の兄弟だったということに、ジーンは世間は狭いなという平凡な感想を抱く。

 金髪で鮮やかな緑の目の中性的なその人物は、カイの面影のある褐色の肌の赤ん坊を抱いていた。乳児期をやっと終えた程度のその子は、緑の目でジーンを見つめていた。ツグミはカイと何か話をしている。アスラ、ヴァルナと、中性的な人物は和やかに話している。他にもツグミの姉のリョウや、ハルバート班の者、他にもラボの知り合いであろう警察関係者が、店を借り切ってのお祝いに来ていた。

 マスターに挨拶をして、ジーンはピアノの鍵を借りた。


「ジーンがいなくなってから、ピアニストが見つからなくてね」

「探してないだけだろう」


 言って、ジーンはピアノの蓋を開けて、椅子の高さを調整する。


 空気のように。

 濁りのない水のように。


 柔らかく動くジーンの指が、音楽を作り出していく。久しぶりにグランドピアノの鍵盤の重さと、その音に包まれて、ジーンは自然と無心になっていた。ただ、音と精神が同化する。それは、すごく平静で穏やかで。

 最後の一音を押さえた指が、震えていて、ジーンは拍手を受けていることに気付いて、慌ててピアノの蓋を閉じて鍵をかけた。鍵をマスターに返して、タバコを吸ってくると店の裏口に向かったジーン。


「久しぶりだね、寂しかったよ」


 バーの裏手に白い外国車が停まっていて、その前に立って微笑んでいる壮年の男、アンドリュー・ミルワースの姿に、ジーンの手から安物のライターが滑り落ちた。

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