8.スペードで十四枚

 声をかけてきたミルワースと、お祝い会に呼ばれていたのか突然現れたアージェマーが何か言い争っているのを、ジーンはどこか遠くに聞く。目の前が真っ白で、耳鳴りがして、脳みそをかき回されているように思考が纏まらない。


「私の患者…ミスター・リードは現在心に深い傷を負っている。こんな暗がりから突然声を掛けるなんて、驚かすことは止していただきたい。ミスター・リード、中に戻りなさい。主治医命令だ」


 アージェマーの声よりも、腕を掴まれたことにジーンはびくりとした。からからの喉からは、声が出てこない。見上げたアージェマーは、眉間に皺を寄せているようだった。


「私だ。心配するな。ツグミかロザリンドのことでも考えてろ」


 ツグミの名前に、反射的に頷いてからツグミとロザリンドのことを考える。ここでミルワースから逃げてしまえば、彼は間違いなく自分の周囲に手を回すだろう。燃やされて水浸しになった部屋を思い出す。あれがツグミの部屋だったら。

 考えている間に、アージェマーから携帯端末を取り上げたミルワースが、アージェマーの肩を小突いて転ばせてしまう。助けなければと思うのに体が動かず、ジーンは言い合うアージェマーとミルワースをただ見ていることしかできなかった。


「まあ、私の専門のことはどうでも良い。もう一度言うぞミスター・ミルワース。ミスター・リードは心に深い傷を負っている。こんな暗がりで突然声を掛ける様なことは止めて頂きたい。彼の様子からして、あなたが彼のPTSDの一つの要因であることは間違いなさそうだ。とっとと失せろ。それと、私の端末を返せ」

「身の程はわきまえたまえ、ドクター・ミザリー」

「アージェマーだ。あなたも地位のある成人なら、常識と言うものをわきまえたらどうかね?」


 挑発的なアージェマーの言葉に、ミルワースは灰色の目を細めて、ジーンに向き直った。


「常識をわきまえるのは、そちらかな。私は恋人を迎えに来ただけだ。PTSDの要因だなんて、言いがかりも甚だしい。ジーンは私が少し放っておいたから拗ねているだけなんだよ、ねぇ、ジーン?」


 おいでと差しのべられた自分よりもずっと大きな手が、ジーンに何をしたかを彼は鮮明に覚えていた。その声が何を囁いたかも、何もかも。


「リード、行くな」


 ふらりと前に出ようとするジーンの腕を、アージェマーが掴んだ。妹のように可愛いロザリンドの友人で、親身になってくれるカウンセラーでもあるドクター。緩々と首を左右に振ると、ジーンの緩やかに波打つ長い赤毛が乱れた。


「暴力を振るいたくないんだ、ドクター、手を放してほしい。お願いだ」


 懇願するジーンにアージェマーの手が緩む。


「ドクター・アージェマー、別に、君は同性愛に差別的ではないのだろう。ごらん、彼は私のところに来たがっている、そうだね、ジーン?」


 わざわざ名前を呼んでの確認に、ジーンは緩慢な動作で頷いた。そのまま、振り返らずにミルワースの車の助手席に自ら乗り込む。


「では、良い夜を、ドクター」


 運転席に乗り込んだミルワースが、窓を開けて手を振った。



 バーに駈け込んで来たアージェマーが、ただならぬ気配であるのに対して、警察関係者はすぐに察して彼女の近くに集まって来た。


「リードがアンドリュー・ミルワースという元陸軍大尉に連れ去られた」


 抑えた口調だがアージェマーの声には緊迫感が漂っていて、駐車場に走り出そうとするツグミをリョウが追いかける。


「ツグちゃん、私飲んでないから、運転する。こっちの車に乗って」

「セリカ、ミザリー、リョウに同行して。カイ、ヴァルナ、アスラ、俺の車に!」


 アルコールを一切摂取していないリョウとフェリアの妊婦二人が、車の鍵を握る。ハルバートはフェリアとカイの長男を預かっていた。

 ミルワースの家の住所を知っているツグミは、リョウの運転する車の助手席で、苛立たしそうに拳を握っていた。あの火事の日から、もう一月以上になる。憔悴しきっていたジーンが回復して、警察に就職し、カウンセリングも受け始めた。ようやく良い兆しが見えかけたと思って、油断しきっていた。


「俺が傍にいれば……」

「すまない、ツグミ」


 謝る後部座席のアージェマーに、セリカがそっと彼女の肩に手を置く。


「まだ、何も失ってない。冷静に、最善を尽くそう。ミルワースだって、ジーンを殺したいわけじゃないんだから」

「そんなことが、分かるか!」

「ツグちゃん!」


 思わず口調が強くなったツグミに、リョウの叱責が飛んだ。


「ジーンは……あの人、全部諦めた顔で、泣きもしないんだ。俺、ずっとそばにいたのに」


 呻くように言ったツグミの握られた拳を、リョウは片手で運転しながら、もう片方の手でそっと握った。



 窓の外を街の灯りが流れていくのを、ジーンは見るともなく見ていた。運転席でミルワースがちらりとその横顔を伺う。


「あそこには、警察関係者が大勢いた。こんな派手なことをして、面倒になるぞ」


 脅すでもなく、むしろ、恐れるようにぽつりとジーンの血の気の失せた唇から漏れた言葉に、ミルワースは信号で車を停めて、ジーンの白い顎を掴んで唇を押し付けるように口付けた。特に抵抗はせず、されるがままになっているジーンに、ミルワースは笑う。


「君が私を放って、若い男と遊んでいるからだよ。寂しかったよ、ジーン」


 恋人のように甘ったるく名前を呼ぶミルワースに、ジーンは指先から温度が失われていくような感覚に襲われる。


「大丈夫だ、私は寛容だから、君が戻ってくると言えば受け入れよう」


 ねぇ、とミルワースの声が低くなる。

 例えば、ストロベリーブロンドの可愛い17歳の女の子が、外出していることを父親に気付かれずに、戸締りをされてしまったら、安全な家に入れないその子はどうなるだろう。

 もしかすると、良くない男がその小さな女の子に、とても恐いことをするかもしれない。あの子は処女かな?君に似て小さくて可愛い彼女を、夜の野外に置き去りになんてしたら、怖い狼が食べてしまうかもしれないね。


「リリアには、手を出すな」

「ジーン、私が聞きたいのはそんな言葉ではない」


 妹の名前を呼んで強くミルワースを睨み付けたジーンに、ミルワースは静かに微笑んだ。


「あなたの元へ戻ります。婚姻届けにでも、何にでもサインします。私を好きにして下さい。……だから、リリアのことは、お願いだから」


お願いしますプリーズと繰り返すジーンに、ミルワースは満足そうに頷く。


「では、他の男に目移りした罰はどうしようか?」

「私に受けさせて下さい」


 はっきりとジーンは口にした。



 リョウとフェリアの運転する車二台が、アンドリュー・ミルワース宅に着いた時、家にはもう灯りが点いていた。銃を抜いたツグミ、アスラ、ヴァルナ、アージェマーが玄関に向かい、リョウ、フェリア、セリカ、カイが車の傍に残った。

 アスラが扉を叩く。


「アンドリュー・ミルワース、警察だ」


 扉はすぐに中から開かれた。銃を向けられて、ミルワースは隣りに立つジーンと共に手を上げて抵抗の意思がないのを示していた。


「何の用かな?」

「先ほど告げた通り、ミスター・リードは治療を必要としている患者だ。そして、警察官でもある。こちらに返さなければ、相応の覚悟はした方がいい」


 アージェマーに、ミルワースはジーンの顔を見た。


「だ、そうだが、私はただ、恋人を迎えに行っただけだ。ドクター・アージェマー、君は誤解している」


 促されて、ジーンが口を開く。


「彼の言うとおりだ。恋愛関係で少しこじれただけなんだ。心配をかけてすまなかった」

「違うだろ!ジーン、違うだろう!あんた、その男に何されたか忘れたのかよ!」


 銃は全員納めたが、ミルワースに掴みかかろうとするツグミを、「おぉっと!」と能天気な声を上げてヴァルナが足払いで転ばせる。転んで顔面を打ちそうになったツグミに、ジーンの表情が僅かに動いた。


「何するんだよ……病院の医療記録に証拠が残ってる。ジーン、帰ろう。俺と帰ろう」


 立ち上がってミルワースを牽制しながら、ジーンに手を差し伸べたツグミに、ジーンは首を左右に振って、小さく微笑んだ。


「ツグミ、私の帰る家はここなんだ」


 ミルワースに向き直って腕を振り上げたツグミを、アスラとヴァルナの双子が止める。


「リード、基本的人権の前に権力など無力だ。ミスター・ミルワース、彼は普通の状態じゃない。治療が必要な患者だ。治療を終えた後で、彼が同じことを言うのなら、私たちは何も言わない。今は、リードを解放しろ」


 アージェマーの冷静とも言える声に、ミルワースはジーンの背を押す。


「主治医がそう言っている、行っておいで、ジーン」


 優しい恋人然としたミルワースに、ジーンの顔から血の気が失せた。震える手でミルワースに縋り付く。


「い、行かない。行きません。私は行かない。頼むから、みんな帰ってくれ。お願いだから帰ってくれ!」


 最後は泣くように叫んだジーンのがたがたと震える細い体を、ミルワースはこれ見よがしに抱き寄せた。


「さぁ、どうする?」



 納得できないと暴れるツグミを、アスラとヴァルナが力付くで引っ張って車のところに戻って来たのに、リョウが眉を潜めた。ほとんど泣きながら暴れている弟を、慰めるように抱き寄せる。


「あいつに薬を使われてたっていう証拠だってあるだろう」


 ツグミの怒りに、ヴァルナが声を潜めた。


「言うな。それを持ち出して、あいつが自分で使ったって言ったら、もう警察には戻ってこれなくなる。あいつが大事なら、居場所を奪うようなことをするな」

「あんなに震えて……絶対に脅されてるだけなんだ……なんだよ、警察官がこれだけ揃って、正義はどこに行ったんだよ」

「ツグちゃん、落ち着いて」


 身重の姉を振り払おうとするツグミを、カイが押さえつけて車に詰め込む。


「ツグミ、冷静になれ」

「アスラ、ヴァルナ、ここで張ってて。動きがあったら、すぐにハルに連絡を。ミザリー、いつ彼を保護してもいいように、病院の手配を。ツグミは署に戻って、リョウとカイと情報収集を。脅されているなら、証拠を掴めばいいだけだ。俺は申し訳ないが、ドクターストップかかってるので、帰るよ」


 ラボでは中堅であるフェリアがてきぱきと指示を飛ばし、全員が動き出す。


「ガーディア、大丈夫か?」


 普通の体ではないと心配するアージェマーに、フェリアは人懐っこく微笑んだ。


「俺は平気だ。送ろう、乗って」



 服を脱いで、壁に手を付けと言われて、ジーンは言われたとおりに従った。ミルワースの手が、確かめるようにジーンの背中のくぼみを辿っていく。


「いい子にできたご褒美が欲しいか?」

「欲しいです」


 目を伏せて感情のない声を出すジーンに、ミルワースは手に持った乗馬鞭をしならせた。


「妹思いのお兄ちゃんがいて、本当に幸せだ、リリアは」


 風を切って振り下ろされる気配に、ジーンは静かに目を閉じた。

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