10.ダイヤで十五枚

 病院の待合室で両手で顔を覆っているツグミに、リョウが隣りに座ってひたすら背中を撫でている。時刻は深夜の二時を回っていた。


「姉さんは、家に帰っていいよ。ハルバートさんが心配してる」

「あのね、ツグちゃん、私はあなたの姉なんだから、一番つらい時には傍にいるのが当たり前なの。そうしたいんだから、そうさせて」


 刑事として第一線で活躍してきたリョウは、今は身重で後方支援に回っているが、小柄だが体力には自信があった。


「知ってたんでしょ、ツグちゃん……」


 ぽつりと零すリョウの言葉に、ツグミは薄い色の目でリョウを見た。


 兄の死の時に、ネットが、各新聞社が、ゴシップ誌が、テレビが……色んな人々が好き勝手に騒ぎ立てた。

 スサキ・ギアは、マフィアによる薬物投与と性的暴行で心身ともに破壊されていた、と。

 同期のカイを通じて、その配偶者であるラボ勤務のフェリアからの情報で、ツグミは警察に就職した年に、スサキ・ギアの残された医療記録を手に入れた。見ない方がいいとフェリアは何度も言ったが、ツグミは知りたかった。


「それが理由じゃないよ、俺があの人を好きなのは」


 はっきりと口にしたツグミの短い髪を、リョウが労わるように撫でる。廊下を渡って、アケビとアレックスが待合室にやってきた。ジーンの受けた暴行の記録をとるとなった時に、警察関係者の中で誰が担当するかと迷ったリョウは、ジーンとは軍からの付き合いだというアレックスを呼んでいた。ツグミはしたがったが、それをするのは、あまりにも残酷だと思われたのだ。


「証拠はちゃんと押さえたよ。ツグミ、お疲れ様」


 アレックスに肩を叩かれて、ツグミは小さく頷く。


「処置は終わって、今は病室にいるわ。薬で意識が朦朧としてるみたいだけど、様子が見たいでしょう?」


 促されて、ツグミはジーンの病室に向かった。背中に傷があるからだろう、クッションのようなものを適度に挟んで、うつぶせに寝かされているジーンは、扉が開く気配にうっすらと空色の目を開いた。目に映したツグミの姿に、ゆっくりと瞬きをする。

 椅子を引き寄せて、ツグミはベッド脇に腰掛けて、そっとジーンの手を握った。ミルワースの寝室でベッドにぐったりと倒れていたのを見た時に嫌な予感はしていたが、首周りの赤い痣にジーンの手を握る手が震える。

 性行為の際に首を絞める、という異常者は多い。ミルワースのあの表情からして、死ぬ寸前まで絞められたのだろう。後少しでも遅かったら、ジーンとの再会が病院ではなく検死室だったかもしれないと思うと、ツグミはぞっとした。


「なきそうなかおをしてる」


 ろれつが回らないのか、少し舌っ足らずに言うジーンに、ツグミは乱れた赤い髪を耳にかける。


「気分はどう?」

「ねむい」


 端的に答えるジーン。


「すぐに助けられなくてごめん」

「すぐにきてくれたよ」

「死んでるかと思った……」


 薄い色の目に涙が盛り上がって、視界が滲むのに、ジーンは澄ました顔で言う。


「しんだふりだ、ただの」

「心臓に悪いから、やめてくれよ」

「しかたなかったんだ……ツグミ」


 痛みに顔を歪めながら、ジーンは狭いベッドの端に体を寄せた。そして、手招きする。


「クッション、どけて。ここ」


 白い指先が示す空間に、ツグミは首を傾げた。


「ねてないんだろ。あしたもしごと、なんだろ。すこし、ねろ」

「いやいや、あんた、ちょっと、ここ、病院だぞ?」

「びょういんで、けいかんがねたらいけないとは、だれもいわない」


 クッション代わりにツグミに寄り掛かるからと、言い張られて、ツグミは靴を脱いでベッドに上がった。横向きでいるのがよほどつらかったのか、ジーンは遠慮なくツグミに寄り掛かってうつぶせになる。自分よりかなり小柄な体が、熱いのに気付いてナースコールを押そうとするツグミに、ジーンが緩々と首を振った。


「くすりのかんけいで、あんていざいも、げねつざいもだめなんだ」


 分かりにくいように足の付け根の動脈に打たれていたというドラッグのことを思い出して、ツグミは顔色を変える。体の力を抜いたジーンは、目を閉じて静かに呼吸していた。



 お見舞いに来たというロザリンドとアートとサキに、ツグミはベッドから飛び起きた。ずるりと寄り掛かっていたジーンの体が落ちそうになって慌てて支える。触れた場所が悪かったのか、ジーンが顔を歪めて呻いた。


「ツグとジーン、一緒に寝てる」


 愛嬌のある目を丸くするロザリンドに、「リョウが欠勤届は出してたから大丈夫だよ」とサキがゆったりと笑った。時刻はそろそろ正午に差し掛かっている。ジーンの体温に引き込まれるように眠ってしまったと、ツグミは苦笑して、ジーンの体の下にクッションを詰め込んでベッドから降りる。


「大変な一夜だったらしいな」


 少し遠目に見ているアートに声をかけられて、ツグミは小さく頷いた。


「ロザリンドには本当に助けられました」

「そうだよ、私大活躍したんだからね」


 胸を張って宣言してから、ロザリンドは抱いていた長い桃色の水玉模様のイルカの抱き枕をジーンに差し出した。


「お見舞い。サキと選んだんだ」

「怪我をして寝てる時には、寄り掛かれるものがあると、少しは楽だからな」


 サキの説明に、彼女もまたかつて凶弾に晒されたのだと思い出すツグミ。ジーンはクッションを掻き出して、イルカの抱き枕を抱き寄せる。


「ありがとう……メグ、ドクター・アージェマーは、バスオイルとコーヒーセット、どっちが好きかな?」

「どうかな? 私は花の香りのバスセットとか、リラックスできて好きだけど」


 アージェマーの好みは分からないと答えるロザリンドに、ジーンは手を伸ばして頭を撫でた。


「じゃあ、ロジーにはバスセットを贈る。ドクター・アージェマーにも、お礼とお詫びをしないと」

「お礼を気にするよりも、早く元気になることだと思うよ」


 ロザリンドの言葉に、ジーンはイルカに顔を埋めた。


「早く退院したい」

「まだ、一日も経ってないのに弱音?」

「ツグミのご飯が食べたい……」


 笑うロザリンドに呻くジーン。

 そういえば、お祝い会に出てすぐにピアノを弾いて、あの騒動だったので昨夜から何も食べていないと、ジーンの胃袋が切なく鳴いた。


「しばらくは点滴だろうな」


 アートの呟きに、ジーンはちらりと上から下がる点滴パックを見上げた。



「アンドリュー・ミルワースがジーン・リードにしたことは、全て立件できる。ダニエル・リードが彼が役員を務める軍事会社から、横流しを受けていたことも分かってる」


 廊下に出たサキの説明に、ツグミは顔を歪める。


「それと、リリア・リードの証言で、ダニエル・リードのDVも立件できるかもしれない」


 できなくても、リリアの身柄がダニエルの元へ戻されることはないという報告に、ツグミは深々とサキに頭を下げた。


「ありがとうございます」

「私も、あのいけ好かない変態に、いい気持ちはしてなかったから」


 ロザリンドを筆頭に、動いてくれた友人であり上司に、ツグミはジーンの分も重ねてお礼を言った。



 お見舞いが帰ってから、すぐに真っ直ぐな長いストロベリーブロンドの少女、リリアがカイに付き添われて病室を訪れた。部屋に入ってくる前から目を真っ赤にしていた少女は、ベッドの上の兄を見て泣き出した。ジーンが手招きして、ベッド脇の椅子に座らせて、しゃくりあげるリリアの髪を撫でる。


「大きくなってないな」

「ジーンもでしょ。これは家系よ」


 いきなりの皮肉に、涙声で言い返してから、リリアはジーンの手を頬に押し当てた。


「馬鹿ね……いっぱい怪我したんでしょ?」

「大したことはない」

「馬鹿ジーン。死んじゃったら、誰が私を助けてくれるのよ」

「彼氏作れば?」

「馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!」


 泣くリリアに、ジーンは目を細める。


「私と暮らすか?」


 リリアは小さく、しかし、しっかりと頷いた。



 固形物を食べてもいいと許可が下りてから毎日、ツグミはジーンにお弁当を届けていた。本当ならば病院食の栄養管理されたメニューが良いのだろうが、偏食なジーンはそのほとんどを受け付けず、酷い日には水しか口にしていないことがあって、アケビも頭を抱えて特例的に認めたのだった。

 休憩時間に顔を出して、一緒にお昼を食べるのも一種の習慣になりつつあった。

 尚、兄と全く同じ偏食の妹、リリアが一時的にリョウの家に保護されていたが、ツグミのお弁当の話を聞いて、「私もツグミのご飯が食べたい」と泣いたというのは別の話である。


「背中の傷は、皮膚再生で痕も残らないくらいきれいに治るって」


 腰にクッションを入れて、ジーンが楽に座れるようにして、ツグミはお弁当を広げた。ジーンの分は彼の膝の上に広げてある。


「お前、事件資料は見るなよ」


 釘を刺されて、ツグミは眉を下げて頷いた。身内が事件に関わっているのは良くないし、何よりも、ジーンが見せたくないと思うものを無理やりに見ることはないと納得する。


「今回の慰謝料と軍の退職金で、私は立派な小金持ちだ」

「それ、笑えるジョークじゃないからね?」

「ジョークは苦手なんだ」


 おにぎりを素手で持って齧りつつ、ジーンはツグミを見た。


「リリアと、暮らそうと思っている」

「そっか」

「ツグミには、本当に世話になった」


 別れを告げるような雰囲気のジーンに、ツグミは咀嚼していた卵焼きを飲み込んだ。


「こんな……あんたが弱ってる時に言うのは、つけ込むようで気が進まないんだけど、言わなかったら、一生言えない気がするから」

「なんだ?」

「俺は、あんたが好きだよ」

「……そうか」


 開けてくれとミネラルウォーターのペットボトルを差し出されて、ツグミは蓋を開けて差し出すが、ペットボトル本体は無事ジーンが受け取ったが、手が震えて蓋を落としてしまう。


「さらっと流したけど、俺、ものすごく覚悟して言ったんだからな!」

「分かった分かった」


 水を飲むジーンの動揺のない仕草に、半ば安心して、半ばがっかりするツグミだった。



「ドクター」

『電話とは珍しいな、リード。そうか、病室から動けないのだな』

「先日は悪かった」

『気にすることはない。だが、悪化したことは間違いないだろう。カウンセリングの予約は受け付けている』

「カウンセリングは受けに行く、退院したら。その前に、私の勘違いでなければ、この状況である人物に恋愛関係を持ちかけられているような気がするんだ。どうすればいい?」

『ツグミか』

「ツグミだ」

『考えるところがあるなら、保留にしておけ。彼は性急にことを進めるような人物ではないし、あなたも性急な変化は望んでいないだろう』

「アドバイスをありがとう。今度花でも贈るよ」

『花より、食べられるものがいいな』

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