5.クラブで十四枚

 シーツを洗って、毛布を洗って。

 寝室のベッドサイドのテーブルにガラスの灰皿が置かれるようになって。

 デリバリーとレトルトの多かった食事が、ツグミの手作りになって。


 寝室からツグミの匂いが消えた。残っているのは、タバコの匂いの混じったジーンの匂いで。リビングでは忠犬のように、ソファに身を縮こまらせてツグミが眠っている。万が一、オートロックの扉を破られても、自分がいるから安心しろとでも言うように。

 火災保険の保険料が降りたのと、軍の退職金もまだほとんど手つかずで残しているから、ジーンは仕事を長期で休んでいても、ツグミに支払う生活費とタバコ代くらいは全く困らなかった。

 朝はツグミとジョギングに出て、時々、ツグミの上司という色んな警察官と一緒に走って、話をして、ツグミの作った食事をとって、毎日は一見平穏に思えた。

 日勤を終えて帰って来たツグミの前に、ジーンは少し前にツグミと行ったショッピングモールで買ったバッグに生活用品をまとめたものを置いた。眠たげな印象のあるとよく言われる空色の目で、かなり上にあるツグミの顔を見上げた。


「世話になった」


 短く告げて、玄関の方に向かおうとするジーンの手首を、ツグミは強く握る。薄い色の目が、困惑しているのが分かったが、ジーンはどういう言葉をかけていいか分からなかった。


「待って……行くあては、あるのか?」

「ないが、体調は戻ったから、どうにでもなる」


――心配はありがとう。でも、不要だ


 初めて言葉を交わした警察署で示したのと同じ、強い拒絶を向けると、ツグミが泣き出しそうな顔になる。ジーンは手を伸ばして、ツグミの頬を手の平で撫でた。


「そういう顔をしなくていい」

「俺がどういう顔をするかは、俺が決めるよ!」

「ツグミ、落ち着け。どう考えてもおかしいだろう。血縁でも友人でもない、赤の他人を何週間も部屋に置いておくなんて」

「俺の常識は俺が決めるよ!」


 駄々っ子のようになっているツグミに、ジーンは僅かに眉をひそめる。


「私はお前のヒモでもなければ、お前の慈善につけ込む悪党でもない」

「俺が、いつ、あんたを、そんな風に扱ったんだよ」


 相当頭に来たのだろう、ツグミの眼元が朱鷺色に染まるのを、ジーンは酷く疲れたように見ていた。握りしめた拳を、ツグミは振り上げない。殴られても仕方がないとジーンは覚悟しているのに。


「あんたの、父親のことも、弁護士のことも、親友のことも知ってる。知ってる上で、あんたをここに置いてた」

「そうか」

「あんたをこの部屋に連れて帰って来た夜、俺は、あんたが本当に、ベランダから飛ぶんじゃないかと思った。思ったんだ。それくらい、あんた、危うい雰囲気を持ってた。気付いてないだろう?あんた、相当危うい」

「だろうな」


 平静すぎるジーンの返答に、ツグミの薄茶色の目から涙が零れて、ジーンは僅かに目を見開いた。一筋だけ頬を伝ったそれを拭って、ツグミは、ジーンにソファに座るように促す。それにジーンは従った。



 休職して帰って来た兄が、名前を呼んでも返事をしてくれなかった。

 疲れているのだろうと、父も母もそっとしていた。

 兄はマフィアに捕まって何をされたのだろう。

 テレビが、ネットが、新聞各社が、ゴシップ誌が、好き勝手に言い立てた。

 兄の上司も、真実は知らなかった。

 誰も知らないままに、兄は壊れて、父を含む六人の警官を巻き込んで死んだ。


 行かないでと、ジーンの細い腰に抱き付いたら、体格と勢いでソファの上に押し倒してしまったが、ジーンは、ぎこちなくツグミの短い髪を撫でてくれた。


「もう、失いたくないんだ」


 目の前で誰かが何かを失っていて、そのまま壊れて消えていくのを、もう見たくないと細い体に縋ると、ジーンはため息を付いたようだった。


「危ういのは、お前の方だ」


 話せと促されて、ツグミはジーンの薄い腹に顔を埋めたまま、ぼそぼそと兄のことを語った。傷付いて憔悴していたジーンを守っているつもりで、ツグミは結局、ずっとこの年上の冷静な男に守られていたことに気付く。無理やりに連れ帰った日から、一度も、ジーンはツグミの領域を荒らそうとはしなかった。いつでも出て行ける状態で、きっちりとツグミの自尊心を守って、静かに気配すら薄くこの部屋にいた。けれど、帰ったら誰かがいてくれる、というのはツグミにとっては救いでもあった。


「父と兄が死んだ後に、母は心を病んで……俺が警察官になった年に死んだ」


 ほんの一年程前なのに、遠い昔のような気がして、ツグミはそっとジーンから離れた。重しが取れて、ジーンはソファに座り直す。


「あんたは、覚えてないかもしれない。俺も、あんまり覚えてない。でも、俺が警察官になって姉達がお祝いしてくれた日も、母が死んで献杯した日も、あんた、あのバーでピアノを弾いてた」


 空気のように、水のように、雑味がなく純粋にそこにあるだけのピアノの音。そっとツグミ達に寄り添った旋律を、ツグミは覚えているような気がする。あのバーで何度意識しないままにジーンのピアノを聞いたか分からない。ただ、そのどの瞬間も、ジーンはミルワースの影に、そして、自分の父親の影に怯えていたかもしれないということ。もしかすると、ミルワースと望まぬ一夜を過ごした翌日だったかもしれない。バーの仕事を終えて帰路に着こうとしたら、ミルワースが待ち伏せして趣味の悪い外国車の助手席の扉を、嫌らしく開けてエスコートしようとしていたかもしれない。

 それを想像するだけで、脳みそが沸騰しそうなくらい怒りが込み上げるのは、ジーンが全てを手放した目でミルワースの暴力を受け入れてしまうのが目に見えているからだった。


 兄は何をされたのか。

 ジーンは何をされたのか。

 許してはいけない。許してはいけないことだった。何一つ許してはいけないことだったのに、誰にも頼らずに、誰にも語らぬままに、遠くへ行ってしまう。


「俺は、あんな理不尽が誰にも降りかからないように、警察官になったんだ」


 泣くように告げたツグミに、ジーンは静かに問いかけた。


「ここに、電子ピアノを置いてもいいか?」



 元軍人が警察官になるケースは少なくない。リョウもそうだった。

 班が決まるまではフリーのスナイパーとして登録をするという長い赤毛をシュシュで一つに括った男性は、恐ろしい好成績で実技試験をクリアしたらしいと、署内で噂になった。


「歓迎するけど、無理はしないでよ」


 元スナイパーで肩を怪我して刑事になったというサキ・ササキの穏やかな言葉に、赤毛の男性は僅かに目を細めたようだった。


 ジーン・リード、三十四歳。

 地上戦で名を馳せた、元軍人で凄腕スナイパー。


「あの顔で俺より年上!?」


 大仰に驚いてその長い赤い髪を引っ張ったヴァルナが、正面から腕を掴まれて、そのままくるりと背中に回られて、完全に腕の関節をきめられて壁に押し付けられて、「ちょ!ギブギブギブ!」と叫んだのに、アスラが沈痛な面持ちで額に手をやる。


「誰かの思惑が絡んでそうだな」


 陰鬱に呟いたセリカの声は、誰にも届かなかった。

 襟のついた淡い色のシャツに紺色の長めのジャケット。支給された狙撃銃を点検するジーンの隣りにアスラが座る。


「その銃で、父親を殺す気か?」

「さぁ」


 アスラの問いかけに、ジーンは曖昧に答えた。


「ねぇ、ツグミとはどうなの?」


 興味津々で問いかけるロザリンドに、ジーンは少し考えた後に、珍しくにっこりと微笑んだ。


「押し倒された」


「ツグ、ヘタレかと思ってたら、やるな!」

「ジョエル、面白がっちゃだめだよ」

「ロジーも面白がってるだろう」


 ジョエルとロザリンドの会話を聞いていた、デスクワーク中のツグミが、「ジーン!?」と悲鳴を上げたのを、既に無表情に戻っていたジーンは聞き流した。

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