6.ダイヤで十四枚
電子ピアノのキーが甘いとか文句を言いながらも、運び込まれた日から、仕事に出ていない時は寝ているかピアノの前にいるかのジーンに、朝食を作りながらツグミが問いかける。
「まさか、徹夜とかしてないよな」
「寝たよ」
ヘッドフォンを付けているのに、耳ざといジーンが素っ気なく答えるのに、ツグミはテーブルの上にチャーハンとスープとソーセージを並べた。弁当箱には、今日もツグミお手製の昼食が入っている。
「お前、なんでもできるな」
料理なんて未知の領域だと呟くジーンに、ツグミは箸を握った。
「あんたこそ、狙撃ができて、体術ができて、その上ピアノが弾ける」
「私は日常生活が不器用なんだ」
憮然として言ったジーンが、なぜか妙に可愛く見えて、ツグミは笑ってしまう。澄んだ空色の目、緩く結んだ長い癖のある赤毛、細身の体とどこか淡い印象しか残さない表情。だるそうな眠そうな目が、時々、はっとするほど真剣にツグミを映す瞬間があるような気がして、ツグミはソファの隣りに座る小柄な彼の気配に落ち着かなくなる。
警察署に勤めるようになってから、ジーンが他の警察官と話している場面に何度も出会った。あまり表情は豊かではないが、静かに相手の目を見て話すようになった。ツグミと目が合うと、僅かに目を細めるようになった。小さな変化だが、ジーンは変わったとツグミは思う。
何もかもを諦めて、手放して、気配すら殺していた最初の頃とは違う。それが嬉しいような、複雑な気分になって、朝食を食べ終えたツグミは立ち上がった。ゆっくりと咀嚼していたジーンも飲み込んで朝食を終える。
皿を食洗器に突っ込むのはジーンの役目。それが終わると、お互いに身支度をして出かける。
電子ピアノを買った日に、ジーンは中型のバイクも買っていた。
バイクで出勤したジーンの方が少しだけ早く署に付いていた。日勤の時は毎朝のことだが、デスクまで走っていくヴァルナを苦笑して見送りつつ、ツグミはロッカールームに向かう。制服のパトロール警官のツグミは、ハルバート班に所属する刑事とは少し立ち位置が違う。ジーンは色んな班を手伝うスナイパーなので、彼もまた、少し立ち位置が違う。
まだデスクを持たないジーンが、ロザリンドと朝の挨拶を交わしているのに、ツグミは笑顔になる。すっかり馴染んだのだとほっとしていると、二人の会話が耳に入った。
「ジーンは、ハンバーガー苦手なんだ」
「脂っこいのが好きじゃなくて。ロジーは好きなのか?」
「ハンバーガー嫌いな人がいるなんて、思わなかったよ」
ロザリンドの愛称の一つであるロジーを、気軽に使っているジーンに、ツグミは目を剥いた。そういえば、ジーンはロザリンドにもらったシュシュを愛用している。ジーンはミルワースに無理やり関係を持たされたが、同性愛者であるという言葉は一度も聞いたことがない。
「よく考えてみれば、小さい頃に嫌になってから、二十五年近くまともに食べてないな」
「意外と食べてみたらいけるかもしれないよ」
そんなことを話していたロザリンドが、ツグミの姿に気付いて大きく手を振った。
「おはよう、ツグ」
「モーニン、ロザリンド」
年が近いからか、それともとっつきやすいからか、ツグミはロザリンドには敬語を使った覚えがない。話を続けているジーンとロザリンドを気にしながら、署の車の鍵を取って、年上の相棒のジェレミーに声をかけようとすると、鍵を奪われた。
「ギア、お前、異動になりそうだぞ」
声を潜めたジェレミーに、ツグミは彼の顔を見た。ベテランとも言うべきジェレミーは、ジーンより少し年上だった気がする。大きな署だからこそ、勤務体制は複雑で異動は多い。最近、ジーンが増えたのもあるから、少し体制が変わるかもしれないとは思っていたが、別の署になどと思ったら、さっきのロザリンドとジーンの姿が頭に浮かんで、自分でも分からない不可思議な気分になるツグミ。それは決して爽快とは言い切れなかった。
「なんか、もやもやする……」
「便秘か?」
「違うよ」
苦笑して、ツグミはジェレミーと一緒にパトロールカーに乗り込んだ。
昼休憩のために署に戻って来たツグミは、直属ではないが上司であるアスラに呼ばれて、彼のデスクに向かう。途中、休憩室でロザリンドとジーンが昼食を摂っているのが見えた。実践だけでなく、ジーンはデスクワークも優秀らしかったので、出動がない時は、若手のロザリンドやジョエルのデスクに付いて、一緒に仕事をしていることが多い。
そんな単語が頭に浮かんだ。
「ハンバーガー、一口食べてみる?」
ロザリンドが面白そうに自分の昼食をジーンに差し出しているのに、ツグミは視線を外して通り過ぎた。
「ツグミ・ギア」
ハルバート班の部屋に連れてこられて、ハルバート班で実質のトップであるアスラから、ツグミはタブレット端末を見せられる。自分のタブレット端末を取り出すと、すぐに書類が送信されてきた。
「スナイパーの護衛部隊に異動、ですか?」
「そうだ。私やリード、その他のスナイパーの出動時に、周囲を警護する部隊だ。何か問題があるか?」
「……俺に都合が良すぎるって、思っただけです」
正直に口にしたツグミに、アスラは僅かに苦笑したようだった。
「本当にギアの弟だな。スナイパーの警護は、信頼関係がないとできない。敵に狙いを定めている時、スナイパーは近い距離に程不用心になる」
自らもスナイパーだから言うのだろうアスラ。彼が異動を言い渡した理由も、アスラがハルバート班のスナイパーだからだと分かっている。
「簡単な資料も送っておいた。後は、スナイパーと他の警護から学べ」
「
警官帽子を正して、ツグミは姿勢を正した。
「ツグ、ジーンって可愛いね」
「ロジーにかかると、なんでも可愛いになるような気がする」
捨てられた老犬も、落し物で署に届けられた前衛芸術っぽいキーホルダーも、シュールなぬいぐるみも、廃棄寸前の中古車も。
そんなことを口にするジョエルに、ロザリンドが「酷いよ、ジョエル」と唇を尖らせる。
やっと休憩に入ったツグミは、休憩室でコーヒーを飲んでいるロザリンド、ジョエルの赤毛コンビに挟まれていた。
「ロザリンドとジョエルって、仲良いよね。付き合ってるの?」
弁当箱を広げて、コーヒーをサーバーから注いでいると、ロザリンドとジョエルが顔を見合わせた。
「俺とロジーが?」
「友達だよ、ね」
「なぁ」
それにしても、仲がいいものだと思いながら箸を手に取るツグミ。そういえば、色味が少しピンクっぽい鮮やかな髪色だが、ジーンも赤毛だったと思い出す。ロザリンドとジョエルとジーン、揃えばトリプル赤毛になる。
「ジーンと同じおかずだね。ツグが作ってるって本当なんだ」
弁当箱を覗き込んだロザリンドに、ツグミは卵焼きを摘まんだ箸を止めた。
「ロザリンドって、ジーンとよく話す、よね?」
「うん、ジーンの妹と似てるんだって」
「……ジーン、妹がいたのか」
俺は知らなかったと、地味にショックを受けるツグミに、ロザリンドがくすくすと笑う。顔立ちの整った彼女は、やや童顔なきらいはあるが、見目はとても良い方だと思う。少し憂いのある顔立ちだが、ジーンも……と考えて、ツグミは愕然とした。
「ツグ? 大丈夫か?顔色が悪いぞ?」
「そんなにショックだったの?大丈夫だよ、ジーン、ツグのこと、良いようにしか言ってなかったから」
ジョエルとロザリンドによってたかって慰められて、最年少のツグミは卵焼きを口に入れた。もそもそと咀嚼する。ジーンがロザリンドを好きだったら、それがなんなんだろう。年上で酷い暴力を受けた諦観したピアニストを、保護した。彼が日に日に回復して、警察に就職するまでになって、誰かに気持ちを傾けられるくらいになったのならば喜ぶべきではないか。
「そうだよ、喜ぶべきなんだよ!」
「ツグ?」
怪訝そうなジョエルとロザリンドに、半ば自棄になった笑顔をツグミは見せた。
アレックス・ロビンはジーンを見た瞬間、両腕を広げて抱き締めようとして、鳩尾に拳を突き入れられた。大げさに悶絶して見せてから、アレックスはジーンに手を差し出す。ジーンは僅かに笑いながら、その手をがっしと掴んだ。
「生きてたか、ジーン」
「そっちこそ、アレク」
スナイパーの護衛は基本二人が付くようだった。ツグミはアレックス・ロビンと組むことになったのだが、アレックス曰く、ジーンは軍時代にも護衛していたという。
「僕は、ジーンの護衛でね、かなり可愛がってもらったよ」
白い歯を見せて笑う金髪に緑の目のアレックスは、ジーンより少し背が高いくらいだった。だが、引き締まったよく鍛えられた体つきをしている。
「今日からよろしく、ツグミ・ギア」
「よろしくお願いします」
「ジーンに敬語を使わないのに、僕に使うの?」
くすくすと笑うアレックスの胸に、ジーンが軽く拳を当てた。
「出動だ」
車の鍵を投げたジーンに、アレックスは片手でキャッチする。ショッピングモールで乱射事件が起こって、すでにレモン班は出動していた。
『非常階段から屋上に上がって、そこから降りてきてくれるか?』
現場警察官の指示が、耳に付けたマイク付スピーカーから流れた。
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