4.スペードで十三枚

 マンションのツグミの部屋にもジーンの部屋にもリリアの部屋にも、一応中からかけられる鍵があった。特に必要がなかったので、ツグミは鍵をかけたことはなかった。健やかに眠るジーンの寝息を聞きながら、添い寝をしなくなって、ツグミはベッドに入るたびに柔らかさのないあの筋張った体が、体温が、寝息が恋しくて、それと同時に湧き上がる抱いてはいけない欲のようなものを抱えて、寝つきが悪くなった。何度も寝返りを打って、ようやくまどろむ。

 音もなくそっと扉が開いて、体の上に体重が乗ったところで、ツグミは目を開けた。鼻先が触れるくらい間近にジーンの空色の目が、ツグミを覗き込んでいた。


「ジーン?」


 自分が夢を見ているのかと思ったが、頭の両側に付かれた筋張った腕も、胴の上に馬乗りになっている体重も体温も、あまりにも現実じみていて、ツグミは驚きに言葉を失う。ふっと空色の瞳を隠すように瞼が伏せられて、乾いた唇がツグミの口を塞いだ。

 体格差があるので引っくり返すのは簡単だったが、ツグミは目を閉じて口付けを受け入れる。緩やかに波打つ柔らかな赤毛が、ツグミの頬に触れてくすぐったかった。触れるだけのキスを何度か繰り返してから、満足したかのようにジーンがツグミの上で体を起こす。


「どういうつもり?」


 そのまま引っくり返して、もっと深く繋がりたいという欲を押し込めつつ問いかけたツグミの胸の上に、ジーンがことりと頭を置いた。


「トイレって、狭くて、逃げ場がないだろう」

「うん?」


 話の流れが分からないままに、ツグミは頷く。


「私が個室に入っている時に、ルインが洗面所に入って来てて、一瞬、パニックになった」

「フラッシュバックしたのか?」

「アージェマーが頓服を飲ませてくれた」


 ジーンが最初に暴行された場所が、軍基地のシャワールームだと聞いていたから、特にトイレなどの閉鎖空間は同じ状況を思い出させたのだろうと、ツグミは労わるようにジーンの髪を撫でた。


「ルインが私に何かするはずがない。分かってても、とにかく、頭が真っ白になって」

「それは、つらかったな」

「でも、見てくれ、ツグミ」


 ぱっと両手を広げてジーンはそれが震えていないことを示す。


「ツグミは平気なんだ。ツグミといるとほっとする……これでは、いけないか?」

「え?」

「好き、の返事が、これではダメか?」


 僅かに眼元を赤く染めて瞼を伏せたジーンの痩せぎすな体を、ツグミは遠慮なく抱きしめた。


「ダメじゃない!すごく、嬉しいよ。ありがとう」


 反応が鈍いジーンなりに考えて、答えをくれたのだと理解して、ツグミはジーンの瞼にキスをする。気を張っていたのか、ジーンが息を吐いて力を抜く。体重を預けられて、ツグミはジーンの髪に触れながら天井を見上げて真面目な顔になった。


「だからって、我慢しないで、嫌なことは嫌だって言ってくれよ?」


 肩を震わせてジーンが笑う気配がして、ツグミは口をへの字にする。


「私なんて、あっという間に年を取って、ツグミのお荷物になる」

「馬鹿にするなよ、俺は、ジーンが年取っても絶対好きだっていう自信がある」

「そうか」


 いつも無感情な空色の目を少し緩ませて、ジーンが体をずらしてツグミの隣りに寝そべった。


「私は、この通り器用じゃないから、察したりするのは、とてもできない。ツグミが何を怖がっているか、私に教えてほしい」


 ほっとけないのは、お前の方だと、真っ向から来た問いかけに、ツグミは言葉に詰まる。兄が父を含む6人の警察官を巻き込んで死んでしまったことを話した夜は、もう遠い昔のように感じられた。あの時も今も、ジーンは落ち着いていて、大人だった。夢見が悪いのも不安も全て見透かされていた。


「あんたが、俺を信用してないんじゃないかって……あんたも、俺を置いていくんじゃないかって、怖いんだ」

「逆じゃないか?」

「なんで、俺があんたを置いていくんだよ! 泣くぞ!」

「な、泣くな……」


 ツグミの剣幕に気圧された様子のジーンだったが、自分の髪を撫でるツグミの手を外して、ツグミの短い髪を優しく撫でる。


「二十三歳の脅し文句が、泣くぞなのも、どうかと思うけどさ……俺は、あんたが好きなんだよ。あんたの人生にずっと関わっていたい」


 頭を撫でる手を取って、指を絡めるツグミ。


「若いのに人生を捨てるようなことを」

「ちょっとしか……まぁ、少し離れてるけど、そんなの、五十年後には、些細な数字になってるだろう?」

「私は喫煙者だし、早く死ぬ予定なんだが」

「タバコやめて」

「断る」


 真顔のツグミに、ジーンも真顔で答えた。それから、表情を緩ませてツグミは「もう一回」とキスをねだる。それに応じようとジーンが目を伏せた時、ベッドサイドの充電スタンドの上でツグミの携帯端末が震えた。


「呼び出しか!?」


 反射的に飛び起きたツグミとジーン。自分の携帯端末を確認しようと部屋に向かうジーンのシャツを、ツグミがとっさに掴んだ。


「生まれたって!」

「え?」

「無事に生まれたって! 女の子だって!」


 何事かと目を瞬かせているジーンの腰に腕を回して、抱き上げてしまうツグミ。天井に頭が付きそうになって、ジーンは慌ててツグミの肩にしがみ付いた。


「俺、病院に行ってくる。ジーンも来る?」

「降ろさなければ、必然的に行くことになるな」

「じゃあ、降ろさない」


 リリアの端末に書置き代わりにメールを残して、ツグミはジーンを抱えたまま駐車場までエレベーターで降りた。靴を履いていないだの、パジャマのままだのジーンが言っているが、ツグミは気にしないことにする。

 助手席にジーンを押し込んで、ツグミは上機嫌で車を動かした。




 病院で赤らんだ顔でリョウは汗びっしょりになっていたが、ベッドサイドで白い産着を着せられてハンに抱かれている小さな赤ん坊を誇らしげに見つめていた。病室に入るとハンが満面の笑顔で、ジーンとツグミに歩み寄って来た。腕の中の赤くてふにゃふにゃの小さな赤ん坊は、眠っているようだった。


「小さいですね」


 微笑むツグミに「抱っこする?」と聞いたハンだったが、「いえ、今腕が埋まってるので」と答えるツグミに、「私を降ろせ」とぺしんとツグミの頭を叩くジーン。渋々ツグミがジーンを降ろすと、ジーンはハンに両手を差し出した。その腕に、ハンがそっと小さな赤ん坊を委ねる。


「リリィが小さかった頃を思い出す」


 いつになく柔らかな表情で、ごく自然に赤ん坊を抱いているジーン。次に渡される番になって、ツグミは慌てた。実は末っ子のツグミは自分より年下の子どもとほとんど接したことがない。赤ん坊なんて触ったこともなかった。


「肘を曲げて、腕の上に頭を乗せてあげて、背中に手を添えて」


 新米父親のハンよりも慣れた風情で教えるジーンに、リョウがベッドの上で笑う。


「あなた達が夫婦みたいだね」

「私もツグミも、子どもは産めない」


 真面目に答えるジーンに、「子どもがいない夫婦だってたくさんいるよ」とハンがおっとり笑う。


「ツグミとジーン、そのままで」


 携帯端末で撮った写真を、ハンはジーンとツグミに見せてくれた。


「これ、俺の端末にも送ってください」

「いいよ。サキにもメールしとこう」


 前に仕事で一緒になって以来、気の合う友達と思っているレモン班のサキ・ササキに、ハンはにこにこと写真を添付してメールを送る。


「ハルバート、親と映っているものを送った方がいいんじゃないか?」

「パジャマ姿のジーンとツグミの方がレアかなと思って」


 くすくすと笑うハンに、「やめてくれ」とジーンが無表情になった。





 喫煙ルームがなかったので、病院の外に出てシガレットケースを取り出し、タバコを一本出して親指と人差し指で摘まんで口元に持って行くジーン。火を付けて吸い込んで、細く煙を吐き出す。靴を履いていなかったので、ツグミから借りたスニーカーの中で、靴下も履いていない足が泳いでいた。

 ゆっくりと一本目を吸い終えて、銀色の筒状の携帯灰皿の中に落としたところで、暗がりから男がジーンに並んだ。

 禿頭に入れ墨を彫って、サングラスをかけた長身の男を、ジーンは空色の目でちらりと見上げた。男はにぃっと笑いながら、サングラスを外す。片方の目がもう片方と明らかに違う光の反射の仕方をしていて、それが義眼だとジーンには分かった。


「目をやられたのか?」

「命と秤にかけたら、軽い方だ。気にするな」


 ぱしんと軽快に背中を叩かれて、ジーンはスニーカーがすっぽ抜けるのも構わず、禿頭の男を蹴り飛ばしていた。蹴られて男は爆笑する。


「あー最高。リード中尉、健在だった」

「生きてたなら、連絡ぐらい寄越せ!」

「姿くらましたの、あんただろうが!俺に当たるなよ!」


 大声で言いながら爆笑する禿頭の男を、ジーンはもう一度蹴った。


「ジャンマリー・バルデッリ、生還しました」


 敬礼して明るく言う禿頭の男、ジャンマリーにジーンは半眼になる。それから、「生きていて良かった」と長く息を吐いた。


「あんたの親父さんが、妙なことを企んでるっぽいから、敬愛する上官殿に忠告を」


 冗談めかして、親父さん……ダニエル・リードに死地に追いやられた元部下は、サングラスをかけ直した。


「新しい連絡先だ」


 携帯端末で情報を交換し合って、ジャンマリーはジーンが飛ばしたスニーカーを拾って足元に投げて寄越す。受け取ってジーンはそれに足を突っ込んだ。


「ツグミ・ギア」

「ツグミがどうした?」


「あんた、鏡見た方がいいぜ。リリア以上の弱点になってるんじゃないか?」


 ジャンマリーの指摘に、ジーンは黙り込む。彼がここでそれを口にしたということは、既に情報はダニエルにも渡っていてもおかしくはない。


「アレックスによろしく」


 ひらひらと手を振って暗がりに消えていく背中に、ジーンはシガレットケースからもう一本タバコを取り出した。

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