3.ハートで十三枚
眠れないままに朝を迎えたのはツグミだけではなかったようだった。いつも以上に気だるい雰囲気で着替えを持って風呂場に向かったジーンが、シャワーを浴びて、ドライヤーを丁寧にかけて、リビングに出てくる頃には、ツグミは朝食とお弁当を作り終えていた。
「ツグミ、ジーン、おはよう」
ストロベリーブロンドの艶やかな真っ直ぐな髪を結びながら、部屋から出てきたリリアが、微妙な雰囲気を感じ取ってツグミに視線で問いかける。まさか、昨日お兄さんを押し倒しそうになって気まずいんですとは言えず、ツグミは視線を逸らした。
冷蔵庫から出したオレンジジュースをリリアのコップに注ぐジーン。自然な動作で、コーヒーサーバーからツグミの分のコーヒーもカップに注いで手渡してくれる。
「二人で話したいことがあるなら、私、先に家出るから!」
気を利かせて、朝食を詰め込んで、弁当を持って立ち上がるリリアに、ジーンが緩々と首を左右に振った。
「特にない」
「俺は……あるけど、もうちょっと、冷静になってから、話させて」
必死にジーンを見たツグミに、ジーンは僅かに首を傾げる。どことなくぼんやりとした表情なのは、眠っていないからだろう。
朝食の後片付けをするジーンを置いて、ツグミはリリアを高校まで送って、出勤した。ロッカーで同期のカイと顔を会わせる。褐色の肌に黒い髪の精悍な顔立ちのカイは、機嫌よくツグミに話しかけてきた。
「リョウの出産、そろそろだろ?どっちか分かってるのか?」
「姉さんはそういうの聞かない人だから」
そういえば、リョウは出産のために先月から産休をとっている。予定日はそろそろだったと思い出す。
「そっちは?」
「うちも順調だよ。上の子がちょっと拗ねてるけど」
同じ年というのに二児の父になろうというカイは、幸せそうに微笑んだ。
「カイはいいな……」
思わず漏れた言葉に、制服に着替えていたカイが不思議そうにアーモンド形の目を瞬かせる。
「何かあった?」
「俺、人権と、性犯罪被害と、ストーカー犯罪についての講習、受けようかな」
「ツグミ、それはやめておいた方がいい。ある意味、お前も当事者だから、まだ早いよ。それより、カウンセリングを受けるべきじゃないか?」
冷静にカイに言われて、ツグミはため息を付いた。
「そうかな」
「俺は身長あるから、結構目立たないんだよね。リョウとか小柄だから、大変だろ?」
ジーンとリリアにメールをして、その日、ツグミはカイの家に招かれていた。確かに妊娠6か月というのに、フェリアのお腹はあまり目立たない。ゆったりとした長いシャツとパンツを合わせているせいかもしれないが。
カイとフェリアの長男、ジェイクはカイが面倒を見ていて、フェリアの書斎にはツグミとフェリア二人きりだった。
「色々話しにくいこともあるだろうけど、俺って、性別がどっちともで中途半端な分だけ、汎用性も高いから、気にせず、どっちの話もしていいよ」
高校の時に受けた適性テストで、軍指揮官S、警察官A、科学者B、医者A、カウンセラーAの恐ろしい成績を納めたという警察ラボ所属のフェリア・ガーディアは警官で科学者で医者でカウンセラーだった。性別の件があって、軍に入るのは親と兄弟が止めたらしい。
「医学が進んだって素晴らしいよね」
鼻歌を歌いつつ、グレープフルーツジュースを飲むフェリアに、ツグミはちらちらとリビングんいるであろうカイのことを思った。守秘義務があるとはいっても、言いにくいことは言いにくい。
きれいな金髪に緑の目、中性的だがどちらかというと男性を思わせる顔立ちのフェリアは、人懐っこく微笑む。
「好きな人が眠れなくて困ってて、それで、添い寝をしてたら、つい、魔が差して」
ぽつりぽつりと言うツグミに、フェリアが口元に手をやった。
「やっちゃった?」
「やってないです!!!」
声を潜めたフェリアに、叫んでしまうツグミ。
「ちょっと、キスして……その……服に手をかけたら……顔色が変わって、それなのに、準備するから待っててとか、言われて」
確かに、ろくに男同士の知識もないままにツグミがあのまま突っ走っていたら、ジーンを肉体的に傷付けていたかもしれない。知識があって、肉体的に傷付けられることがどんなことか分かっているジーンは、自己防衛をしようとした。
「俺は、あの人を傷付けるつもりなんてなかったのに」
「ツグミ、ツグミ、それは分かってる。そういう対応をされて、君がどう思ったか話してみないか?」
促されて、ツグミは昨夜のことを思い出す。
あんな風に自分の望まないことを受け入れて、あの人はどんな気持ちだったのだろう。そればかりに気を巡らせていた。
「俺は……」
ツグミは嘆くように言葉を吐いた。
「全然、信用されてなかったんだ」
家に帰っても何も話さなくなった兄。
名前を呼んでも答えてくれなかった。
不意に零れそうになった涙を、ツグミは手の甲で拭う。
仕事上がりにメールを確認して、ジーンはアージェマーを呼び出した。署の近くのコーヒーショップで、アージェマーはコーヒーを、ジーンはノンカフェインのハーブティを頼む。
特に隠すこともなく事の成り行きを説明した後で、ジーンはハーブティを一口啜った。
「彼が、私に無茶をさせるとは思っていなかったんだが、やっぱり、怪我をするのは嫌で……バツの悪い思いをさせただろうか? 彼のプライドを尊重して、そのままにしておいた方が良かっただろうか?」
至極真面目に述べたジーンに、アージェマーはコーヒーが器官に入ったのか、咳き込んだ。
「ジーン、それ、真剣に言っているのか?」
「私は真剣だ、アージェマー」
空色の目に僅かに不満げな色を乗せたジーンに、アージェマーは苦笑する。
「性行為は両者の合意があって成り立つものだ。あなたが少しでも嫌だと思ったなら、拒むのはあなたの権利だ」
「嫌……では、ないと思う」
「歯切れが悪いな、ジーン」
「不安だったのは認めよう。私は、あの男としか、その……男性と寝たことはないから、ツグミは優しいから無理強いをしないだけで、同じようなことをされるのかと、少し、怖かった」
触れられたくない背中、手首、首……思い出したくない記憶に、ジーンは目を伏せて息を吐いた。
「性教育は私の管轄外だが、あの×××にされたことは、暴力であって、ツグミが望んでいる行為とは違うとだけ言っておこう」
「どう違うのか、分からない」
女性相手の性行為は何人か経験があるが、男性相手はミルワースだけだったので、ジーンにとって男性との性行為は、違うと分かっていても、どうしてもあの男とのものが過ぎってしまう。足の付け根の静脈に打たれるドラッグ、拘束される両手、首に巻き付く赤い布……。
気分が悪くなって席を立ったジーンは、コーヒーショップのトイレに入った。昼食を食べてからの経過時間が長かったために、えづいても吐くものはなかった。口元を押さえて、個室から出たところで、大きな影が過ぎって、ジーンは思わず後ずさる。
「大丈夫か?」
コーヒーショップに寄ったところを、アージェマーに言われて様子を見に来てくれたであろう金髪の男性、アートの声にジーンは息をついた。
「平気だ。ありがとう」
「酷い顔色だ。ギアに連絡をとろうか?」
親切に言ったアートが、よろけたジーンの腕を掴んで支えようとした瞬間、ジーンは反射的にそれを振り払っていた。
「リード?」
「すまない、平気だ」
洗面所で顔を洗って、備え付けのペーパーで拭いている間、アートは少し距離を置いてジーンの後ろに立っていた。席に戻るまで見届けて、アートはコーヒーを買って署に戻って行った。
「頓服は?」
端的に問うアージェマーに、ジーンは鞄を漁る。最初に出てきたのはシガレットケースで、続いて安物のライター、それから薬ケースを取り出すと、アージェマーが水をもらってきてくれる。指先が震えて薬をばらまいてしまいそうなジーンの手からケースを受け取って、アージェマーが一錠だけジーンの手の平に乗せた。
「私はこんなに弱かったのかな」
「誰にでもそういう時がある」
頓服の安定剤を飲むと襲ってくる眠気に、瞼が重くなったジーンに、今日はバイクを置いて帰れとアージェマーはタクシーに押し込んでくれた。
ふらつきながら部屋に帰ると、リリアが心配そうにしていたが、昨晩ほとんど寝ていないこともあって、ジーンはそのままベッドに入る。アージェマーは守秘義務があるので大丈夫だろうが、アートに今日のことはツグミに言わないでほしいとメールを打とうとして、あまり他人に興味のなさそうな彼は元々言わないかと、端末を持ったまま、ジーンは目を閉じた。
ツグミが帰ると、ソファで丸くなっていたリリアが飛びつくようにして駆けてきた。小柄な彼女を受け止めて、ツグミはそっと肩に手を置く。
「ジーン、ミザリーと話してる時に具合悪くなっちゃったんだって……ツグミには言わなくていいって言ってたけど……何かあったの?」
ジーンより色の薄い水色の目に涙が浮かんできて、ツグミは罪悪感を覚えた。
「何か食べた?」
「それどころじゃなかったんだもん」
唇を尖らせるリリアに、ツグミは時計を見て、少しだけ夜食を作ろうとキッチンで手を洗う。扉の開く音がして、ジーンが部屋から出てきた。
「ジーンも、何か食べる?」
「いや」
薬が残っているのか、重たげに体を動かして、定位置の長いソファに横になるジーン。
「俺、部屋を探した方がいいかな?」
ため息交じりに呟いたツグミに、ジーンは「ツグミのしたいようにすればいい」と素っ気なく返す。
「あんた、今、どんな顔色してるか分かってるか?」
ほっとけないよ、とツグミは息を吐いた。
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