2.ダイヤで十三枚

 グランドピアノが置いてあった。

 音響のいいホールのようで、ピアノ奏者をコントラバス、トランペット、サックスの奏者が待っている。顔のない人々が、手を取り合って踊っていた。


「踊ろうか?」


 手を伸ばすと、年上の赤毛の男は緩々と首を振った。


「私は弾いてくるから、妹と踊ってくれ」


 壁際に光沢のあるピンクのドレスを着た小柄な少女が立っている。目が合うと、ちょっと困ったように笑った。彼女を壁の花にしておくのは申し訳なかったし、手を伸ばして誘うと、苦笑された。


「踊りたいのは私じゃないでしょう?」

「でも、彼は踊ってくれないんだ」

「代わりとか、酷い」


 笑いながら、少女はツグミの手を取った。

 グランドピアノの音が響く。柔らかく暖かく、包み込むような音に、ツグミは踊った。

 くるりと少女がターンをしたところで、ピアノの音が変わる。

 これは葬送曲だ。

 棺が運ばれてくる。少女の姿はいつの間にか、泣く姉達に変わっていた。


「誰が……誰が死んだ!?ジーン!?」


 不安に駆られてピアノの方を見ると、いつの間にか奏者はいなくなっていた。コントラバスの重い響きが、ホールに響き渡る。トランペットが泣くように鳴った。サックスが嘆きを伝える。


「ツグちゃん……」


 小柄な長姉の体を、それよりもやや大柄な次姉が抱きしめていた。

 あれは兄の棺だろうか。それとも、父の棺だろうか。


「その中を見せてくれ!頼む!」


 棺を運ぶ顔のない男たちに声をかけても、その歩みが止まることはない。


「ジーン、どこにいる?ジーン!」


 ツグミは、泣くように、縋るように叫んでいた。



 全身にびっしょりと汗をかいて目を覚ますと、腕の中でジーンは静かに寝息を立てていた。安堵して、ツグミはその体を強く抱きしめる。生きてここにいてくれるというだけで、なぜか泣きたいくらいに安心した。


「……どうした?」


 眠りが浅いのか、ジーンの白い瞼が薄らと持ち上がる。


「嫌な夢を見たんだ」

「そうか……大丈夫だ、私がいる」


 幼子にするように、短い髪を撫でられてツグミは少し笑った。そして、甘えるようにジーンの薄い胸に顔を埋める。しばらく髪を撫でていたジーンだったが、眠気に勝てなかったのか、そのまま眠ってしまった。その上下する胸の動きと呼吸音を確かめながら、ツグミもまた眠りに落ちた。




 動物園に行こうという提案は、あっさりと了承された。休みが合った日に、ツグミはジーンを車の助手席に乗せて動物園に向かった。


「初めて来た」


 チケットを買って園内い入ると、物珍しそうにジーンがきょろきょろと周囲を見回す。タブレット端末に入って来た園内地図を、ツグミとジーンは二人で覗き込む。園内はかなり広いので、全部回るのはかなり時間がかかりそうだった。

 ハイネックのシャツにロングパーカーというラフな私服のツグミと、いつもの薄い色のシャツ……あの事件以来第二ボタンまで開けているそれに、カーキ色のジャケットを羽織っているジーン。子ども連れやジュニアスクールの遠足のような子どもの群れの多い中、成人男性二人連れは非常に目立つ。


「どこから回る?」

「全部見たい」


 最初の肉食獣エリアから全部と静かに言うジーンに、ツグミは笑顔になった。バックパックの中には二人分のお弁当が入っている。時間はたっぷりあった。

 ホワイトタイガーの檻の前で、うろうろするホワイトタイガーを追いかけてジーンが、ちょろちょろと歩き回ったり、タブレット端末のアジア象とアフリカ象の違いのページを見て、象の檻に身を乗り出したり、白サイと黒サイを見比べたり、海獣スペースでは、アザラシの優雅な泳ぎを飽きることなくずっと見ていたり……。

 楽しいかと聞くまでもなく、表情こそ薄かったが、ジーンはとても楽しそうだった。

 最後に出口近くのペンギン舎の前で、ジーンは動かなくなってしまう。


「そろそろ、お昼を食べない?」

「可愛い。持って帰りたい」

「お土産売り場で、ぬいぐるみなら売ってると思うよ」


 並んで朝礼をしているようなペンギンたちを名残惜しそうに見ながら、ジーンはツグミに引っ張られてベンチでお弁当を食べた。


「リリィも今頃同じもの食べてるだろうな……リリィも来れれば良かった」


 本人も気付いていないのだろう、妹を自然に愛称で呼んだジーンに、ツグミは微笑む。


「次はリリアも誘おう」


 きっとリリアは、「デートを邪魔するなんて、冗談じゃないよ」と言うと思ったが、ジーンが嬉しそうなので話を合わせるツグミ。

 弁当を食べ終わって、片付けをしてから、ツグミとジーンは土産物屋に入った。あざらしと随分迷っていたが、ジーンは大きなペンギンのぬいぐるみを一つと小さなペンギンのぬいぐるみを二つ買う。


「三つも買うの?」

「リリィと、ロジーに」


 満足そうにペンギンのぬいぐるみを抱いて、ジーンが助手席に乗り込む頃には、夕方になっていた。タブレット端末をケースに納めて、車の運転をしようとするツグミの手から、ジーンがタブレット端末のケースを取り上げる。そこにお腹がクリーナーになっているアザラシのストラップを付けて、ジーンは空色の目でツグミを見た。


「今日はありがとう」


 ほんのりと微笑むジーンに、ツグミは赤面してにやけてしまう。


「キスしてもいい?」


 ツグミが問うと、ジーンが身を乗り出してツグミの頬の唇ぎりぎりのところにキスをくれた。にやけたまま、ツグミはシートベルトを締め直し、車を動かした。



 晩御飯のカルボナーラのベーコンを、器用に選り分けてジーンの皿に放り込むリリア。この兄妹は栄養不足……特にタンパク質不足で小柄なのではないかと心配しているツグミは、リリアに視線を向けた。成長期の終わっているジーン……出されたものは苦手なものでも、ツグミが作ったものならば、無言で食べるジーンはともかく、まだ成長期のリリアには栄養が必要だと常々思っているのだが、リリアの偏食はジーンよりも激しかった。


「食べられないもん」


 唇を尖らせて言い訳をするリリアに、ツグミはため息を付く。


「タンパク質は血肉を作るから、食べないと体が育たないよ」

「血肉だったら、ジーンの方が足りてないんじゃない?」


 言外に怪我のことを言われて、ジーンがちらりと空色の目をリリアに向けた。それでも、何も言わず、ジーンはもそもそとベーコンを食べている。


「ジーン、こっちに寄越していいよ」


 思わず皿を差し出すと、リリアがにんまりとした。


「ツグミ、ジーンには甘いんだー」

「違うよ、ジーンは自分の分を食べたから。今食べてるのは、リリアの分だろ?」

「ツグミ、いい。リリィ、次は少しは食べろ」


 ジーンに言われて、リリアは目を丸くする。


「リリィって呼んだの久しぶりね……小さい頃みたい。お兄ちゃん、大好き」


 お土産にもらった小さなペンギンのぬいぐるみを抱いて、リリアは嬉しそうに微笑んだ。




 ロザリンドにデートの報告に行くと、赤い髪にちょこんとペンギンのぬいぐるみを乗せた彼女は、すでにジーンと会っていたようで、ツグミと目が合ってにっこり笑った。


「ジーンからもらっちゃった。相当楽しかったみたいだね」

「おかげさまで。動物園とか、どうかなと思ったけど、ロザリンドが正しかった」


 ホワイトタイガーに並走したこととか、アザラシの水槽の前でずっと動かなかったこととか、ペンギンを持って帰りたいと言ったこととか、熱く語るツグミに、ロザリンドが「ごちそうさま」と苦笑する。


「頭に何乗せてるの?」


 タブレット端末を持ってきたサキに、ロザリンドが「へへへ、もらったの」と笑った。


「ジーンからか。そういえば、あたしももらったな」


 ロザリンドと一緒に選んだお見舞いのお礼に、小さなオレンジ色の花束と羽の飾りの付いたタブレット用のタッチペン。


「ジーン可愛いものが好きだからね」


 ロザリンドの言葉に、ツグミはジーンが女性に囲まれていたというアレックスの言葉を思い出していた。



 棺が運ばれる。

 あの中にいるのが誰か、ツグミは知らない。

 父と兄が死んだ時、その遺体は損傷が激しすぎて、幼いツグミには見せてはもらえなかった。お別れを言うこともできないままに、ツグミは父と兄を失った。



 抱き締めているジーンの体が、眠気のせいか暖かい。眠れないジーンの添い寝は、もう習慣になっていた。そっと頬に手を添えて、ツグミはジーンにキスをした。ツグミも半分寝ぼけていたので、そこで止まることができない。

 角度を変えて深くなる口付けと、パジャマのボタンを外すツグミの手に、ジーンの空色の目が見開かれた。思ったより強く胸を押されて、ツグミは我に返った。


「ご、ごめん……」

「待って……準備を、させてくれ。怪我はしたくない」


 シャワーを浴びてくるとふらりとベッドから立ち上がるジーンに、ツグミは慌てる。


「違う、本当に違うんだ!」


 思わず掴んだジーンの指先が震えていた。


「こんなつもりじゃなくて……」

「ツグミ、少しだけ待ってて」

「違うって!」


 表情は変わらないが、明らかに血の気の失せたジーンの表情に、ツグミは寝ぼけた自分を殴りたくなった。


「俺、自分の部屋で寝るよ、ごめん!」


 逃げるように部屋を出て、自分の部屋に戻ってから、怯えを隠していたが不安定なジーンを一人にしてしまったことを悔いるツグミ。けれど、戻ってもとても言い訳もできない気がして、扉を入ったところで座り込んで、ツグミは頭を抱えていた。

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