閑話〜影の住人達⑤

 日本某所の某樹海にて、一人の男がリュックサックを漁っていた。髪の半分を白髪に支配され、ヨレヨレのTシャツにチノパン姿の五十代の男。リュックから取り出したのは、工事現場などで目撃される黄色と黒が交互に配色されたロープ。


 拙い手つきで太い木の枝に縛り付ける姿からは、一切の正気が感じ取れない。


 男は、垂らしたロープの先を輪にし終えると、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。この一本を吸い終わったら、彼はロープの輪に首を通すのだろう。


 男は疲れていた。自分の求めるように事が進まない世の中に、自分を必要としない世の中に、嫌気がさして仕方がなかった。


 彼は努力家で負けず嫌いだった。目標のためなら他を犠牲にして生きてきた。しかし、真面目が常に正しいとは限らない。彼が目標に到達して得られた達成感よりも、今までに失った様々な繋がりが大きすぎたのだ。


 自身の努力によって得た功績を、心から認めてくれる者はいなかった。


 振り返れば、誰も自分に興味を持っていなかった。


 他人を見返したいと思うのは勝手だ。しかし、見返したい相手がこちらをいつまでも見ているとは限らない。彼が見返す努力に尽力する中、知人達は彼を見限り、それぞれの人生へと歩みを進めていた。それだけなのだ。


 功績を自慢するほど、虚しくなった。こちらに興味なく、ただただスマートフォンの画面を見ながら適当な相槌を打つ旧友達を見て、自身の居場所は既に消滅しているのだと悟るのに時間は掛からなかった。


 後悔が押し寄せた。理想と現実とのギャップが、彼から生きる意味を失わせていた。


 一体、自分は何のために存在しているのか……それが分からなくなってしまっていたのだ。


「……だから自ら命を断つわけか。なんて視野の狭い人間だ」


 男はギョッとした。目の前に、傷だらけの顔の男が立っていたのだから。服装や腕の刺青から、カタギの人間ではないことは確かだった。


「自殺……最も重い罪を被るか」


「じ、自分を殺して何が悪い!? これは私の自由の意志だ」


「いいや違う……自殺は、この世界の理の放棄……自ら役割を捨てる行為は重罪なんだよ人間」


「役割!? 世界の理!? なんのことだよ!? 私だって頑張ったさ! 生きるのに努力した! でも、誰も私の意見を聞いてくれなかった!? 思い通りになったことなんてなかった!!!」


 人生の幕引きくらい、自分の好き勝手にやらせてくれても良いじゃないかと、男は叫ぶ。


「他者からの承認が生きる指標になるのは正しい」


 誰かに認められなければ、役割がなければ、死んでいるも同然という理屈は、傷だらけの男も納得していた。彼もまた、役割が自身の存亡に関わる状況に身を置いていた経験があるのだから。


「ア、アンタは、俺に死ぬのをやめろって言いたいのか?」


「いや、別に死ぬのは構わない……だが、”世界の理”への冒涜は許さない」


 傷だらけの男が手を挙げると、彼の影から一匹の黒い犬が現れる。地獄の猟犬は、目の前の男の首を瞬時に噛みちぎった。


 バタリとその場に倒れ込む男の肉体を猟犬は貪り食っている。そこには誰もいなかったと言わしめるほどに片付いた頃、猟犬は再び影の中へ消えていった。


「聖くん……別に説教せずに殺せば良いものを」


 上空から片翼のニコラスが降下してくる。傷だらけの男は、自身の衣を脱ぎ捨てると閻魔聖の姿へ変貌を遂げた。


 人間の死体から魂が排出される。そのまま彼は閻魔界へ昇るだろう。


「衣替えの時期だからな、悪く思うなよ」


 腰の太刀を抜刀した聖は、浮遊霊と化した男から衣だけを剥ぎ取った。


 当然、男の魂は、身を守る手段を失い、そのまま現世の理を受けることになる。


「ここまで綺麗な衣は初めてだ……」


 浮遊霊から奪った衣を纏うと、聖の服装がTシャツとチノパン姿へ変化した。


「大体、一ヶ月ごとに衣替えですか……大変ですね」


 閻魔の纏う衣は、一ヶ月程度が限界。特に、浮遊霊から奪い継ぎ接ぎしていた聖はもっと短い。


「慣れたものだよ……カレンの助言には感謝しかないな」


 新たな衣を手に入れた聖は、ニコラスに掴まり空へ飛翔した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る