第14話〜旧友との再会

「よッ! 閻魔様!」


 ある朝、燐瞳に頼まれてコンビニに買い出しに向かった時、駐車場のキャンピングカーから僕を呼び止める声がした。声の主は、風切宍道。彼は会合の日から今日まで駐車場のキャンピングカーで生活している。


 神社内に入らないのは、部屋数の関係らしい。それならと、本人は、高松屋敷に向かおうとしたのだが、桜が敷居を跨ぐのを許さなかった。


 森之宮神社の離れに居住してもらう案もあったが、それならキャンピングカーで良いと風切が申し出て周芳が快諾したのだった。


 ちなみに、桜がアメリアに会いたがっているため、近々アメリアだけ高松屋敷を訪れることになっている。また、蓮華という連盟員が現れたら高松屋敷に召集するらしい。


「風切さん、おはようございます」


「どこ行くんだ? まだ七時だろ?」


「……燐瞳にジャンケンで負けて買い出しに」


 朝食のパンを買いに出掛けていますと正直に話すと、「閻魔様になんてことを」とタバコに火をつけてため息と共に煙を吐き出した。箱がアメリアの吸ってる銘柄と同じだ。昨晩、彼女からもらったなこれは。


 閻魔に金稼ぎさせたアンタが言える事ではないだろう。そう言いたい気持ちを抑えつつ別れを告げて足を進めると、「俺もタバコ買いに行くから乗れ!」と、助手席のドアが開いた。


 風切に急かされた僕は、渋々助手席に乗り込んだ。車はゆっくりとコンビニへ進み始めた。


「……体調は大丈夫か?」


「えっと、体調?」


 風切が心配したのは、会合の夜の事だった。僕が倒れた後、別室に運んだのは風切だった。彼は、自身が安易に頼んだせいで、僕が連盟の面倒ごとに巻き込まれていると感じているらしい。


「俺のせいだ……許してくれ」


「いや、あの……」


 確かに、風切は自分勝手に僕に連盟の掲示板の事件を解決させようとしていた。そこには彼なりの正義感があった。問題があったとすれば、自身の実力以上の成果を求めてしまった事だろう。


 自分に出来ない事を僕に肩代わりさせた。これは事実だ。風切は、心からこの事実に懺悔の気持ちを抱いていると、浄瑠璃鏡が教えてくれた。


 人間、心と言葉が合致する事は少ない。今の僕はまさにそうだ。なのに、この男は純粋に連盟を思って行動している。純粋なあまり、他者に迷惑をかけてしまう。


 閻魔を金稼ぎの道具にした事実は消えないけど。


「これからどうするんだ?」


「いや、だからコンビニ……」


「違う、”閻魔様”としての責務だよ」


 僕の行く末を心配しているのか。僕は、未だ金剛鈴を発現させられていない。現世にも、似た力を見つけられていない。


 だから、他のことを進めることにした。


「……鵺に会って来ようと思っています」


 僕の知る彼女だったなら、失った記憶を少しでも甦らせるきっかけになるのではないか。


 そう、僕と暦は思っていた。


 和睦からは、得られた記憶は裁判の記憶だけ。あの後何度触れようと僕に何も見せてくれなかった。和睦は、一度拒絶した僕を見限ったのだろうか。


 裁判の前後の記憶を呼び起こしたい。今の僕は、暦との思い出すら失ったままなのだから。


「あっ、まさか着いてくるとか?」


「馬鹿なこと言うなよ……俺は裏方で頑張るよ! 周芳さんが仕事をくれたんだ」


 風切は嬉しそうに任された書類整理の業務内容を語り始める。まずは連盟の縁の下で地道に努力し、そして、桜に認められる叔父になるのが目標だと言う。


「だから閻魔様も、取り戻せると良いな……記憶!」


 キャンピングカーは国道沿いのコンビニに到着する。いつも燐瞳が通っている系列店ではないのが看板の色で判断できた。ここは風切の行きつけだそうだ。駐車場が広いのが嬉しいと嬉々とした表情を見せた。


 ☆☆☆


「遅いわよ!!!」


「ごめんなさい」


 帰宅後、玄関を開けると、パジャマ姿で仁王立ちする燐瞳が待っていた。三十分ほど立って待っていたようで苛立ちが見て取れる。


 燐瞳の手には英単語帳が握られていた。昨晩、アメリアと勉強していたのを思い出した。最近よく英語を教わっているし、毎朝復習しているのだろう。勤勉な燐瞳に感心する。


「感心している暇があったら早くちょうだいよ!」


 恐る恐る手に引っ掛けていたビニール袋を差し出すと、プルプルと震えた燐瞳の手がそれを受け取った。


「立ち読みでもしてたの!?」


「いや、あの……風切さんとちょっとお話を」


 僕も、まさかあの後、喫煙所で話の続きをされるとは思っていなかったよ。


 風切の名を聞いて、燐瞳は一定の納得を示した。森之宮の人間として、客人を駐車場に駐在させているのには罪悪感があるようで、「風切さんなら……まぁいいわ」と僕を許してくれた。


「……そういえば、暦は? もう起きてるよね?」


「暦さんには……お母さんの相手してもらってる」


「こんな朝から……?」


 燐瞳の母の趣味の話を真面目に聞いてくれたのが暦だけだったらしく、連日のように拘束されているのである。


「お父さんの朝食作りを手伝ってるわね」


 台所の方向から楽しそうな話し声が聞こえる。


 死神見習いを飯炊女扱いって……


 燐瞳はビニール袋からカフェオレを取り出し、ストローを刺して飲み始めた。


「さぁて、準備しようかしら」


 背伸びをすると今度は焼きそばパンをかじる。燐瞳はこれから、連盟の仕事をこなしに出掛けるようで、着替えるため自室へ戻って行った。


 僕は燐瞳を見送った後、自室へ戻ると、なぜかシヅキが机の上の鈴や鐘を鳴らして遊んでいた。


「良い霊具ね、閻魔様? 総額いくらかしらね」


「何をしているんですか……」


 しゃがんで彼女の目線に合わせた僕に、シヅキは顔を近づけてくる。鼻先がくっつきそうな距離だ。


「この鈴や鐘は、どう使うか知ってる?」


「……いえ、そこまでは」


 シヅキの顔は僕の耳元へシフトする。


「霊を呼び寄せるための物よ……」


 怪異の原因が、土地に縛られた地縛霊だったとしても、都合よく霊能者の前に現れるとは限らない。そんな時に呼び寄せるための霊具が、ここにある鈴や鐘だとシヅキは述べた。


 今まで鈴の力が発動しなかったのは、ここが神社だからだろうか。


「貴方の金剛鈴ってのも似た力なのかしら?」


「違いますよ……僕のは霊を感知して……!?」


 まさか、今まで変化しなかったのって、使用目的が異なるからなのか?


「霊を感知するのに、燐瞳たちは道具を使わないわ」


 霊能者は、第六感で霊を感知している。だから、霊を感知する道具を使用しない。僕の目は霊……人間の魂が常に見えている。だから、霊能者と変わらないと思っていた。でも、根本的に違う。


 霊を感じる第六感を鍛えて初めて肉眼で霊を視ることができる。それをさらに鍛えたのが桜の霊視になる。


「じゃあ、霊能者の第六感を具現化させる必要があるとでも?」


「燐瞳の胸でも揉んだら、案外簡単に生成できるかもね」


 それは鈴が生成されても、僕は消されそうなんですけど……


「まぁ、帰って来たら試してみることね」


「えっ……?」


「行くんでしょ? ツグミの所へ?」


 シヅキは再び僕の正面に顔を移動させた。その目は、真剣な眼差しだった。僕はこの目を知っている。空間の神も、時折こんな目で僕を見つめていた。


 ツグミ……トラツグミが由来の鵺の別称。連盟を苦しめた妖怪の名前。僕の知っている鵺が彼女と同一人物かどうか、にわかに信じ難い。だけど、例えそうだったとしても僕は確認しなくては気が済まない。


「はい……僕は鵺から、真実を聞き出します」


「もし、貴方の知り合いだったらどうするの?」


「それは……」


 言葉に迷う僕に、ため息をついたシヅキは、僕の両肩を強く掴んだ。


「そこは即答して欲しかったわ……閻魔として、鵺を裁くって」


 ……返す言葉がなかった。


「いい? 連盟のためじゃなくて良いわ! 閻魔として罪人を裁いて! たとえ知人だったとしても。それが貴方の役割……これを忘れないで」


 そうしなければ、例え力を取り戻しても、神を捕縛出来たとしても、閻魔界へは帰れないとシヅキは念を押した。


 コクリ……と、僕は静かに首を縦に振った。


 ☆☆☆


「じゃあ、行ってきます」


「あ、ちょっと待ってくれ」


 正午を回った時、僕と暦が出かけようと外に出るのを周芳が呼び止める。燐瞳のいないうちに確かめたいことがあると言って、僕たちを本堂へ招いた。


 本堂は、雨戸を閉めているのか、太陽の光が入らないため薄暗い。部屋の奥で鎮座する和睦……閻魔薙が入口から差し込んだ光で少し視認できる程度だ。


「閻魔薙の継承の件は一旦置いておくが、抜けるか確認しておきたいんだ」


 そう言って周芳は日本刀を手に取り僕に差し出した。


 正直、受け取るのを躊躇ってしまう。もし抜刀出来てしまったら、閻魔薙の眠りを覚ましてしまったら、燐瞳は僕を、一体どんな目で見つめるのだろう。


 ゆっくりと、周芳の持つ日本刀へ手を伸ばす。鞘に触れ、刀の重さを感じながら左手で鞘、右手で柄を握りしめる。やはり、記憶の逆流は起こらない。


 僕は、深く息を吸うと、刀の柄に力を込めた。


「くッ……! ぬッ……!! ふんッ!!!」


 抜ける気配がない。衣を脱いで閻魔状態になって同様に引っ張ってみても変わらない。


 周芳は、少し唸ると、「なぜ認めないんだ……春人」と意味深に呟く。


「僕はあの晩、この刀を拒絶しています……もしかしたら、その所為かもしれません」


「……私の見立てが甘かったか」


 周芳は僕たちに一礼すると、刀を台座に戻した。


「すみません……」


「薙様が謝ることないですって」


 暦が励ましの言葉をかけてくれるものの、ほんの少し、あの時受け取っておけばと後悔の念が再び渦巻いた。


 ☆☆☆


「ここが、羅針盤の指す位置?」


「間違いありません薙様! ほら! 対象が動いています!」


 僕たちがいるのは、季節外れの吹雪が舞う山頂。ここは日本ではないだろう。羅針盤の指し示す方角に何度もジャンプし、やっと辿り着いた鵺の居場所は、視界を確保することすら難しい環境だった。


 羅針盤がなければ、鵺を見つけることは不可能だろう。こんな過酷な環境に身を置いているのは、人間を拒絶しているが故か。肉体を持つものはここを訪れることは難しいと思われる。


 肉体を持たない僕と暦は、温度変化にも耐えうる。暦は僕の隣で衣を纏った。その衣は、毛皮のコートを着ている。おそらくは普段と別の衣だろう。暦は結構、オシャレに気を使うんだなと感心したが、燐瞳の母が脳裏に浮かんだ。


「薙様も、そろそろ衣を変えないとマズいですよ?」


「大丈夫だよ……薄着に見えるけど、僕は寒さを感じない」


 それよりも鵺の居場所だ。暦にナビを頼み、その通りに歩き始める。寒さは大丈夫でも、足に絡みつく雪が邪魔で仕方なかった。


 暦の羅針盤を頼りに歩くこと数十分。僕たちは、岩屋へとたどり着いた。吹雪を防ぐ自然の城塞を思わせるそれは、入口の半分を雪に覆われていた。


 針は、依然として岩屋の中を指し示している。


 岩屋の入口に手をかけた時、暦の小さな悲鳴が後方から聞こえた。僕は、咄嗟に顔だけ振り返った。そこには、身を縮める暦と、その後ろからこちらに右手をかざす少女の姿があった。


 この吹雪の中、少女は、白のセーラー服という出立ちだった。コートなど防寒着を一切纏わない少女は、吹雪で黒髪をなびかせていた。左目には稲妻を思わせるタトゥーが彫られているのが見えた。


「私は冬華フユカ……この場所を守っている……貴方たちは誰?」


 少女はフユカと名乗った。その名前には聞き覚えがあった。高松屋敷での高松の講義。十年前の惨劇で鵺と共に活動していた、気象を操る雪女の名前だ。


 フユカの力は、肉体だけではなく、霊体すら凍てつかせるらしい。ここは、下手に動かない方が良いだろう。それにしても、雪女という割には、現代的な服装をしているじゃないか……僕は内心、そう思っていた。彼女は、まるで一介の学生が雪女の力を得た存在に見えた。


「僕は薙……閻魔だ……ここにいる鵺に会いにきた」


「どうしてツグミの存在を?」


 フユカは、右手を僕の背中に押し当てた。これは脅しなのだ。高松の話では、フユカは手から放つ冷気で連盟員を葬ってきたらしい。なぜか彼女は”男”だけを狙っている。今回も、暦ではなく僕を狙っているあたり、その例外に漏れなさそうだ。


「彼女の羅針盤で鵺を探した……僕は、閻魔界に居た頃から彼女の友人だ」


「閻魔界……? ただの子供の貴方が?」


 フユカが強く右手を押しつけた時、僕の身体に電流が発生し始めた。不思議と痛みはなかった。でも、僕は今、衣を纏っている。なぜ、現世の理が発生している?


「薙様!? 衣が限界です! 早く別のに着替えてください!?」


「動かないで! いくら女でも、動いたら貴女も敵と見なすわよ」


 暦に左手を向けてフユカが牽制した。


 僕の衣が白い光と共に弾け飛び、少年の姿から閻魔の姿へ強制的に戻される。何が起きたかを考えるよりも前に、この場所の感覚から、数分間しか閻魔の姿は無理だと理解する。この現象を解明するよりも早く別の衣を纏わなければ。


「その姿は何? 動かずに答えなさい」


 フユカは明らかに敵意を強めている。このままではマズい。


 新しい衣を纏わなければ、現世の理が僕を襲う。


 しかし、衣を纏えば、臨戦体制の彼女は僕を攻撃する。


「頼む、衣だけ纏わせてくれ……僕たちは戦いに来たわけじゃない」


「戦うかどうかは、こちらが決める……貴方たちは私たちの領域に侵入した……理由なんてそれだけで充分」


 僕は、必死に自身が閻魔ということを説明する。この姿は閻魔の姿だ。望むなら、閻魔の道具も見せると譲歩する。


 そんな僕の足へ、岩屋の奥から勢い良く伸びる黒い縄が絡みついた。黒い縄は、ピンと張り詰めたと思うと、ゴムのように収縮し、僕は岩屋に高速で引き寄せられた。


 ☆☆☆


「薙様!?」


 暦は一歩、薙の消えた岩屋へ近づいた。それをフユカは開戦の合図と取ったのか、暦に向けていた左手から冷気を豪速で放出した。


 咄嗟に暦は両手を合わせ、後方に移動する。放たれた冷気は、岩屋の入口に当たり弾けると、分厚い氷塊となって入口の大部分を塞いでしまった。


「動くなって……言ったわよね?」


 フユカの目は、獲物を狙う猛獣のそれだった。暦は、本能で恐怖を覚える。自分が彼女の狩られるのが容易に想像できた。


「私と戦うってのがどういうことか……教えてあげるわ」


 フユカが指を鳴らすと、今までの吹雪が嘘のように止み、晴天が顔を覗かせた。


 この山の気候すら、彼女の掌の上ということだろう。


「私だって……薙様に何かあったら、地獄の底へ貴女を叩き落とす覚悟よ」


 毛皮のコートが消え、着物姿へ姿を変えた暦は、手に持つ大鎌を構える。対して、フユカは右手に氷柱を生成させる。


 彼女たちは、互いに互いが邪魔な存在。出来るなら、この場で排除したいという気持ちは同じだった。


 先に動いたのは、暦だった。彼女は直線的にフユカへ駆け、真正面から攻撃を仕掛けた。鎌の先の動きに合わせ、氷柱を動かすフユカを嘲笑うように、暦は彼女の背後へ瞬間移動した。


 狙うは、フユカの胴体。大鎌による横なぎの一撃が放たれる。


「……!?」


 暦の手に強い衝撃が伝わる。岩でも叩いたような振動に大鎌を落としそうになる。鎌の刃は、フユカの脇腹を捕らえていた。だが、彼女の表面では、薄氷が壁となってそれを防いでいる。


 あれは、薄氷なんて優しいものではないと暦は理解する。高密度の凝縮された彼女の生命力。それが氷となって表面に浮き出たに過ぎない。


 これは暦の全力の一振りなのだ。背後からの不意打ちとは言え、それを防ごうともしなかった。防ぐ必要がないのだ。


「それで……全力?」


 フユカは振り向き様に氷柱を振るう。暦は後方へジャンプし、氷柱のリーチの圏外へ避難する。しかし、届かないと悟ったフユカは、自ら氷柱を砕き、冷気と共に発射した。


 冷気に乗った氷片は、散弾と変わらなかった。暦の視界を覆う無数の氷片に、両手を合わせる。


 暦の姿は元いた位置に移動した。放たれた氷片が雪原の雪を空中に弾き飛ばした。もし、あれが直撃していたら、暦は跡形もなくなっていただろう。


 しかし、安心はできなかった。暦の足場は知らぬ間に溶け、雪の下の雑草と水溜りになっている。そこへ、フユカが目配せした途端、暦の足もろとも水溜りは氷塊と化した。


 周囲をよく見ると、そこら中に水溜りのトラップが発生している。動きを封じるため、フユカが撒いた罠。それに暦がかかってしまった。


「さよなら……」


 罠にかかった暦を、まるで小動物を憐れむ目で見つめたフユカの右手から、冷気の光線が暦の身を貫いた。


「こ、これが、十年前の惨劇の首謀者……!? こんなのが、あと四人も……」


 死神見習いの力では歯が立たないと、暦は心の内から悟った。自然と、手から大鎌が滑り落ちた。暦の身体は右肩から下半身にかけて、フユカの攻撃で凍結しており、その冷気が握力を奪っていた。


「あら、まだ意識があるのね……どう? 魂が凍てつく感覚は?」


「……死神見習い・・・・・の力じゃ勝てそうにないわね」


 腕を動かせない以上、”鬼神の掌”も発動できない。それでも、氷を破壊しようと無理やり身体を動かそうと努力する。


 フユカはゆっくりと暦へ歩みを進める。確実に止めを刺すために、右手に冷気を凝縮させている。これは彼女の常套手段だった。凝縮した冷気を対象の心臓に直接打ち込み、心停止させる得意技。最も、暦は霊体なのだが、この冷気は魂の活動すら停止させる威力を誇っている。


 もし、この状況から暦が逆転する手段があるとすれば……


 ☆☆☆


「その道服……その冠……そのお顔……間違いありません」


 僕の身体は薄暗い岩屋の奥で、宙に吊るされ、黒い縄が身体の隅々までを撫で回し、その度に奥のシルエットから少女の声が聞こえてくる。そのどれもが妖美な声色……僕を品定めでもしているようだった。


 突如、縄が切れ、僕は地面に向けて頭から落とされる。それを黒い絨毯が包み込んだお陰で怪我はなかった。まぁ、岩にぶつかっても怪我しないんだけど。


 この黒い物質は、彼女の影だ。いや、人間の魂を編み込み、影として使役している。高松の講義で習った通りだ。


「お待ちしておりました、閻魔薙様!」


 黒いシルエットから、ピョンと僕の前に飛び出したのは、中学生くらいに見える黒のワンピースの少女。腰まで伸びた長い黒髪が美しい。


 その顔は、僕の記憶の中の彼女と合致していた。


「ぬ、鵺……君、なんだね?」


「えぇ……ずっと、薙様にお会いしたく思っておりました」


 僕の胸に泣きながら飛び込んでくる彼女は、かつて、閻魔界で過ごしていた僕らと遜色なかった。抱き合っているだけで、あの頃の平和な日常が脳裏に蘇ってくる。


 あぁ……本物だ! この娘は、僕の知っている鵺なんだ……


 胸の奥から込み上げる感情が涙となって僕の目から頬を伝った。当時、彼女の訃報を聞いた時、僕はここまで感極まりはしなかった。でも、今は、涙が出て止まらない。当時の僕を今の僕が責めているようで、情動を抑えきれない。


「君がいなくなったのが辛かった……寂しかった……友との再会が、これほど嬉しいものだと知らなかった……許してくれ、鵺……無知な閻魔を許してくれ」


「私も……地上でずっと、一人で、貴方が会いに来てくれた今日まで、フユカちゃんと一緒に慰めあって……それでも、それでも必死で……」


 うまく声が出せず、必死に声を絞り出す。それは鵺も同じだった。


 “薙様のお陰で、閻魔界でお仕事出来るんです! 私は、それだけで幸せです”


 かつて、彼女は僕にそう言って笑いかけた。それは、閻魔界の麓、流れる大河のほとりでの出来事だった。


 鵺は、元々は人間の魂だった。当時の薙は、政策の一つで、裁判の必要のないほど小さな罪の者を閻魔界で働かせていたのだった。彼女との出会いは、働きぶりを視察に来た時だった。


 彼女は、鬼にいじめられていた。僕の政策に不満を持っていた閻魔や鬼もいた。彼らは人間の魂が同じ場にいるだけで嫌なのだ。だからと言って、僕ではなく年端も行かない少女を襲うのが、僕は受け入れられなかった。


 彼女を助けた時に言われたのが、あの言葉だ。


 鵺は働き者だった。その働きぶりは、神の耳にも届き、彼女を天帝様の補佐官に任命するところまで進んでいた。


 僕は、彼女にとっても、僕たちにとっても良いことだと思っていた。


 でも違った。僕は間違っていた。


 人間の魂を下に見る彼らは、人間が自身より上の立場に就くことを何より恐れていたのだ。


 だから、彼女に濡れ衣を着せ、閻魔界を追い出した。僕がそれを知ったのは、彼女が姿を消してからだいぶ後のことだった。


「あの後……君はどうなったんだ?」


 僕の問いに、彼女は視線を逸らした。彼女は、腹いせに、現世に通じる穴へ投げ捨てられたと、小さな声で答えた。


 その首謀者は……無数の閻魔だったと。


「薙様……私は、現世で生きてきました……許されないことをしてまで……だから、閻魔界に行けば裁かれなくてはなりません」


 だからせめて、裁かれるなら僕の手で裁かれたいと鵺は泣きながら言った。


 僕の懐から鬼籍が飛び出す。鵺の自動書記が始まる。そこには、僕の知る鵺とは思えないほどの罪状の数々が表示されていた。


 彼女は地獄の最下層行きが確定している。僕の剣で、現世で罪を祓い、裁判の過程を飛ばしても、地獄行きは免れない。それほどの罪状。


「そんな……鵺、君は! ハヤトに操られていたんだろう!?」


「それでも、罪を犯したのは……私です」


 僕は、衝動的に地面を殴った。身体の痛みが欲しかった。そうでもしなければ、心の痛みを受け入れられなかった。


 なぜなんだ!


 彼女は、ただ真面目に仕事をしていただけじゃないか!


 どうして……どうしてこんな仕打ちを!?


 彼女が何をしたって言うんだ!?


 現世という世界に拒絶され、


 身を妖に変えられ、


 悪人に利用され、


 その上、地獄の最下層行きが確定しているなんて、こんな非道が許されて言い訳がないじゃないか……


 胸の浄瑠璃鏡が輝き始めた。鵺の過去を、忘れている過去を呼び覚ますように光り輝き、僕の脳内へ映像を流し出した。

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