第15話〜鵺の記憶

「おい! さっさと片付けろ!!」


「……はい」


 赤黒い床に散らばった肉片を、私は素手で拾い、背負っている竹で作られた籠にソレを入れた。


 ここは文字通り地獄だ。血の匂い、断罪される人間。所々で聞こえる阿鼻叫喚。


 そして……


 そこで働く私と鬼達。


 私はここで奴隷のように扱われている。理由は"元人間"だから……だそうだ。


 私はあまり詳しくないが、死んだ人間の中から時たまに、あの世に残って働く者を閻魔が選ぶらしい。


 選ばれた者は、生前の記憶を持った姿を与えられ、灰色の汚い服を着て働かされる。


 私にも記憶がある。でも、自分が死んだ理由は思い出せない。


 覚えているのは、自分が女で、住んでいた村が災害に見舞われたことだけ。


「おい!!! こっちも掃除しろよ!!!!」


 そういって赤い鬼が私を殴った。


 地獄では罪人達が不祥事を起こすことが度々ある。


 閻魔達は、その罪人達を粛清するため、魂を喰らう鬼達を地獄に放っている。


 そして、粛清された罪人を片付けるのが私の仕事。


 私は誰にも逆らってはいけない……


 誰にも…………


 私は近辺の掃除を終えた。肉片の入ったカゴを背負い、下へ続く階段を目指す。地獄は八段階に分かれており、最下層まで私の仕事の範囲なのだ。


「早くしろ!!!」


 私を殴りとばした赤い鬼が、今度は背中を蹴る。


 私はバランスを崩して倒れ込むと、カゴの肉片がバラバラと辺りに散らかった。


「なにこぼしてんだよ!  畜生めが!?」


 鬼が私の顔を幾度となく踏みつける。


 私は大急ぎで肉片をカゴに戻すと、階段を駆け降りた。


 ☆☆☆


 そんな私も延々と地獄にいる訳ではない。


 地獄の上には、閻魔界と呼ばれる死者を裁く場所があり、そこに少しだが行くことができる。他にも、閻魔界の麓、流れる大河の岸辺にも仕事ではあるが行くことは出来た。


 初めは息抜きになると思っていた。でも、そうじゃなかった。


「鬼の奴隷が来てんじゃねぇよ!!!」


「ここは閻魔界、貴女のような汚い魂が来てはいけませんねぇ」


 このように閻魔達に嫌味を言われ、暴力を受ける。


 閻魔一人一人の名前なんて分からない。閻魔は職業で、ゴミに湧く虫のように大勢いるからだ。


 大半の閻魔には殴られ、蹴られた。でも逆らってはいけない。閻魔に逆らえば、私の罪が増える……


 そんな私にも友がいた。


 若き閻魔。綺麗な緑の髪をした少年閻魔だ。


 閻魔界での仕打ちから助けてくれたり、わざわざ地獄に来てくれたこともあった。


 人間の私を庇い続けるため、他の閻魔からは注意を受けた事もある彼だったが、それでも私を友人として丁重に扱ってくれた。


 彼は、閻魔薙と名乗っていた。閻魔王を支える五芒星の一人。位の高い閻魔様が、私を友と呼んでくれたのが、何よりも嬉しかった。


 彼と働けるだけで幸せだった。この名前だけは何があっても忘れないと、そう誓った。


 ☆☆☆


「お仕事、お疲れ様です」


 閻魔界へ昇った私へ声をかけたのは、薙様だった。私の髪や衣服に付着した汚れを、艶やかな布で拭いてくれる彼に胸が熱くなった。


「いけません薙様……そんな高価な布を私なんかに使われては」


「僕は好きでやっているんだ……それに、君だからこうしている」


 そこで言葉を区切った薙様を私は見ることが出来なかった。私は、長い前髪で視界を遮り、背負う籠の紐をキュッと強く握り締めた。


「全く……誰が地獄の清掃なんて頼んだんだ」


 少し怒りを含んだ声だった。この仕事は、薙様の指示ではなかった。私を気遣ってくれている。それがたまらなく嬉しかった。身体を拭き終わると、髪を洗うために大河へ行こうと誘ってくれた。


「薙様のお仕事は、宜しいんですか?」


「然樹の育成のために、僕の裁判を任せているんだ! だから大丈夫」


 直属の後輩へ指導をしつつ、下っ端の私にまで気にかける彼の姿は理想の上司だった。


 大河までの道を二人で歩く。薙様は、周囲の景色を私に見せたかったようだ。


「ほら、あれが沈まぬ太陽だよ」


 沈まぬ太陽……閻魔界の西に輝く妖星。私は、過去に何度か見たことがある。でも、薙様と共に眺めた今日の太陽は、周囲の雲海と併せて印象深く記憶に刻まれた。


「僕はこの景色が好きなんだ」


 広がる雲海と、それを金色に照らす太陽。それを一望できるここからの景色は、薙様にとっても特別なものなのだろう。


「神々すら到達出来ない領域……あの星の持つ神聖な雰囲気……美しいよ」


「ちょっと……難しいです」


 薙様の素直な感情に、私は照れ隠しに小さく笑った。


 私と彼の関係も、あの沈まぬ妖星のように、永遠に続けば良いのにと、思ってしまった。


 ☆☆☆


「今日は交通整備をしてもらう!!!」


 白く長い立派な口髭を携えた老人閻魔が私の前で号令をかけた。


 現世から閻魔界へ通じる通路。そこを通る人間の魂が、迷わず辿り着けるよう、若い閻魔たちは度々こうして道案内するようだ。


此度こたびは、案内人の教官として、死神にも来ていただいている! 皆の者、くれぐれも失礼の無いように」


「こんにちは……死神の霜月しもつきです」


 柳と燕の紋が刻まれた黒の和装の男が頭を下げる。


闇鬼あんきさん、彼女は閻魔では無いようですが?」


「うむ! この娘は、労働によって罪を償っている人間だ! 今回は薙からの推薦で他の業務も経験させる事になった! 彼女はよく働くと聞く! ワシは期待しておるぞ!」


「そうですか……では、私も手を抜かず指導しますかね」


 本人を前にして恐いこと言わないでください。


 ゾロゾロと閻魔達は配置へ移動していく。私の担当は大河の岸辺だ。向こう岸から渡ってくる小舟から魂を下ろし、次に進むべき道を示すこと。


 閻魔の列に並ぼうと足を出した瞬間、誰かの足につまづき、私は大きく体勢を崩した。強打した頭をさすりながら顔を上げると、一人の閻魔がこちらに向けていやらしい笑みを浮かべていた。


「みっともないことをするな」


 霜月が右手を軽く上げると、その閻魔の足を巨大な黒い手が握り、その場に宙吊りにする。


「閻魔は中立と聞いていましたが、そうでもなさそうですね」


「霜月殿!? お許しください!?」


「なら、二度と業務の邪魔をするな」


 その閻魔は蒼白で許しを懇願していた。霜月が私に目配せをする。それを合図に私は持ち場へと走って移動した。


 薙様以外にも、私の味方は存在するみたいだ。


 ☆☆☆


 交通整備の範囲は、閻魔界の入口から、大河を挟み、現世へ通じる大穴まで。この世界には、人間の魂が入ってくる大穴が空いている。


 私もかつてはその穴から浮上してきたわけだ。次々と浮上する魂を見ながらそう思った。


「死神とは、元々は迷える魂の指導者です。導くコツは、目印となること」


 大河の岸辺で目印役になった私に霜月はそう言って右手を上げた。おそらく、私も手を上げて大きく振れば良いのだろう。


 私の手に呼応して、船頭が手を振り返した。私を目印に艀船はしけぶねが止まり、身を震わせる人間の魂が列を成して降りてくる。


「あらぁ、お嬢ちゃんが案内係なのかい?」


 船頭の老婆が笠を外して挨拶してくる。こちらも頭を下げた。この老婆も私と同じ、元人間の魂だと霜月が語る。


「お互い、薙様には感謝しないとねぇ」


「お婆さんも薙様のご意向で?」


「えぇ、そうですよ。ここで奪衣だつえと船渡しをしてるから、いつでもおいで」


 そう言って老婆は対岸へ船を漕ぎ始めた。対岸には木造の小屋が見える。きっと、あそこに住んでいるのだろう。


 私の肩が、ポンと叩かれた。それは霜月の手だった。彼は、「今のように、船が見えたら手を振ってください」と言い残し、私を置いて去っていった。


 この日、何往復もする小舟の目印として、船頭の老婆と言葉を交わすうちに、同じ境遇な事もあって親しくなった。お互いに話題にするのは、閻魔薙への感謝の意だった。


 老婆と話すようになってから、私は仕事が終わると連日、彼女の小屋へと足を運んだのだった。


 ☆☆☆


「お婆ちゃんの名前って?」


「忘れてしまったねぇ……昔は、お嬢ちゃんみたいな娘達に、呼ばれる名があったんだけどねぇ」


 遠い目をする老婆に、自分を重ねた。彼女も私と同じく、"名前がない"のだ。人間だった頃に持っていた名は失われて、ただの"人間の魂"として存在している。


 ここ閻魔界で働く我々に名前がないのは、多くの閻魔達が自身と同格に扱われるのを避けたため。下働きには、明確な線引きを。それが彼らの威厳のためには必要なのだろう。


 逆に言えば、名が与えられた時、我々は閻魔達と同格になった事を意味する。


「神様の補佐官にでもなれれば、名前がもらえるだろうねぇ……」


「さ、流石に位が高すぎますよ……」


 多分、それは閻魔を超える職務。我々に与えられる仕事ではない。


「お嬢ちゃんは、名前が欲しいのかい?」


 老婆は不思議そうな顔で私に問いかけた。


 私は名前が欲しかった。


 友達の薙様に呼んでもらえる名前が。


 いつか、お互いに名を呼び合う間柄を、心の底で望んでいた私は、静かに頷いた。


 ☆☆☆


 私は仕事に専念した。与えられた職務は、不満を言わず従順にこなし、成果を積み上げていった。


 閻魔達は替えの利く私たち人間の魂を雑に扱う。それでも私が笑顔でいられたのは、人間の魂私たちに理解を示してくれる存在が増えた事実だった。


 一部の閻魔や鬼達は、薙様や他の五芒星の方々の尽力あって態度を改めてくれた。また、働き者だと力量を認めてくれた全体の数からしてみれば、大した数ではない。それでも嬉しかった。


 特に、写本の作成に一役買っていた。私の生きていた時代の記録を作成するにあたり、当時使用されていた文字を翻訳する役目が必要だった。その担当を任されたのだ。


 私が文を読み上げ、五芒星の閻魔が文字として記述する。この繰り返しではあるが、五芒星の仕事を手伝う事が何より誇らしかった。


 執筆担当の五芒星達は言っていた。


 “魂の知識量が増えると罪の量も増える”


 “君は、知識量に対して罪の量が少ない”


 “薙が君を推薦した理由が、何となく分かった”


 ……と。


 自身の才能と努力が報われたと、この時は思っていた。


 ある日、閻魔界の宮殿に招待された。何でも、閻魔王が直々に話があると言っていたと、薙様から伝えられた。


「私、一人ででしょうか?」


「うん、でも途中まで送るよ!」


 薙様はこれから別の裁判が入っているらしい。


「少し、不安です……」


 閻魔王からの呼び出しなど、他の人間の魂たちから聞いたことがない。よほど重大な通達があるのだろうか。もしかして、解雇通知ではと嫌な予感が過ぎる。


 宮殿の前まで、暗い顔をしていた私を薙様は隣で必死に励ましてくれた。宮殿入口の二本の石柱の前で、私たちは別れ、守衛をしている赤い鬼が私を中へ通した。


 中には、私の背丈の数倍はある観音扉があった。閻魔王専用の部屋。扉の両脇の青い鬼たちは、槍を構えて私を睨みつける。


「……お客様をお連れしました」


「彼女が例の……?」


 私を案内した赤鬼が扉の青鬼に話を通すと、


「中へどうぞ」


 扉を開き、部屋の中へ案内してくれた。部屋の奥で、閻魔王は押印作業に追われていた。彼の右に塔のように積み重ねられた書類。その一枚一枚に、ハンを押す閻魔王が入口から見えた。


 閻魔王の姿は、薙様よりも数段豪華な道服と冠に身を包み、立派な口髭を携えた老齢の男だった。彫りの深い顔。身長は、薙様の二倍以上あり、その威圧感はこの場を早くも立ち去りたいと思わせるほどだった。


 私は、閻魔王の足元まで歩く。


「閻魔王! 件の魂をお連れしました!」


 青鬼が声を張り上げる。閻魔王の手が書類を掴む直前で止まり、ゆっくりと視線がこちらへと向けられた。


「おぉ……来たか! 其方が薙の言っていた働き者か」


 閻魔王は、その背後に祀られた顔ほどの円鏡を抱くと、自身の体の前に掲げた。


「……齢、十四にして生贄に出されたのか」


 私すら思い出せなかった生前の記憶を鏡から読み取った閻魔王は、複雑な表情をしていた。鏡は、閻魔界での私の素行を全て閻魔王に読み取らせる。


 しばらくして、表情筋を激しく動かした閻魔王は、私の目をまっすぐ見つめた。


「其方を正式に五芒星の作業補助として雇いたい……」


「……!?」


「これが雇用契約書だ」


 閻魔王が机の上の一枚の紙をこちらに見せた。閻魔の文字で記された用紙には、確かに”写本作業補助”と記載されている。


「契約書を作成する以上、其方に名がないと話にならん……特別に”名”を与える」


 閻魔王は、名前が記された台帳を開いてこちらに見せた。


「今後は”鵺”と名乗りなさい」


 現世の鳥の名から取ったと閻魔王は優しい口調で教えてくれた。


「今後は、薙と同じ宿舎に住むと良い」


 書類に名を記すため、私の体を閻魔王は抱き抱え膝に座らせた。私は、慣れない手つきで筆を動かし、今与えられたばかりの名を記した。


 一画ずつ筆を動かす度に、嬉しさが込み上げた。出来ることなら、この場で飛び跳ねたい。そんな気持ちを筆に乗せた。


 閻魔王は私に地図と絹の着物を差し出した。閻魔たちの宿舎の地図だった。名を与えられた喜びから、家主の薙様を待たずして宿舎へとかけていった。


 ☆☆☆


 それから、薙様と私は、まるで夫婦のように振る舞った。しかし薙様は、私を友の一人としか思っていなかった。閻魔には婚姻の風習がないためだ。人間の思想、感情というものに疎い一面がある閻魔は、人間の魂にとって中立な存在である以上、仕方のないことだった。


 この頃の私は、写本以外にも書類整理や裁判記録など他の業務も任されており、閻魔の裁判を傍聴することも出来た。


 また、薙様は空間の神と時折会食を開いており、その席にお邪魔することも多くなっていた。同席する神々は、人を慈しむ方ばかりだったため、私の存在を邪険に扱うことはなかった。中でも、最高神と言われた天帝様は、私の働きぶりに興味を持ち、その後、わざわざ閻魔界まで見学に来ていた。


 私にとって、とても、居心地の良い時間だった。


 しかし、ある日を境に会食は開かれなくなった。それは、私が天帝様から補佐官の誘いを受けた数日後の出来事だった。


 天帝様の宝が盗まれた。その事実が閻魔界に知れ渡ると、閻魔王によって神との接触が禁止されたのだ。どこの誰が盗みを働いたのかは私には分からなかった。しかしそれまで神と接触していた薙様や私は容疑者の中に含まれてしまった。


 閻魔の中で、尋問官に任命された閻魔が私たちに聞き取り調査をしにやって来た。閻魔界で神と接触していた人物は、四人いるらしい。


 盗まれた天帝様の宝は”和睦わぼく”というらしい。神の国に保管されたそれは、盗むだけで地獄の最下層行きが確定するほどの大罪だと彼は教えてくれた。


 尋問官の閻魔は連日のようにやってきた。仕事中でもお構いなしだった。他の五芒星はもう見慣れたのか何も言わなくなったものの、他の閻魔たちは違った。


 和睦を盗んだのは、鵺に違いない。


 皆がそう噂し始めた。出世したのは、和睦を手に入れるためだと陰謀論を唱え始める者もいた。


 この頃、閻魔界で働く人間の魂たちは待遇の悪さに不満を爆発させていた。そのため、閻魔と人間の関係は悪くなる一方だったのだ。


 そんな中、一介の人間の魂が名を貰い受け五芒星の仕事を請け負い、さらには最高神から補佐官候補に選ばれたというのは、人間側に希望を与え、この対立を激しく煽る要因となってしまった。


 閻魔たちは格下の存在が自らの地位を脅かすことに恐怖した。人間の魂達の士気を下げるために、彼らの支えとなっていた私を排除する必要があった。だからこそ、この様な噂を流したのだろう。


「鵺、気にする必要はない……僕も同じ気持ちだ」


 震える私の肩を静かに薙様が抱いた。


 ☆☆☆


「うーむ……魂に穢れが溜まっておるぞ、鵺?」


 闇鬼さんが腕を組みながら訝しげな表情をしている。書類をまとめる私は、指摘されるまで気が付かなかった。ここ閻魔界で働いてからというもの、劣悪な環境には慣れていると思っていた。しかし、出世と共に生活の質が向上したことで、あの頃の忍耐力は擦り減っていたのだ。


 それを闇鬼さんは見破っていた。度重なる言葉の重圧ストレスが、私の魂に穢れを生んでいた。


「穢れは罪の元となる……」


「なら、倶利伽羅で祓っていただけますか?」


 閻魔の持つ不動明王の剣なら、簡単に祓えるだろうと安直ながら思った。


「有事を除き、裁判以外で倶利伽羅を抜く事は禁じられておる……閻魔王が知れば裁かれるのはこちら……」


 闇鬼さんは申し訳なさそうに下を向いた。


「……少し、お暇をいただきます」


 こうなったら気分転換に出かけるしかない。私は、いつの日か薙様と眺めた景色を見に、外へ出た。


 道中出会う閻魔達の冷ややかな目線が心を突き刺した。


「おい、鵺? 今の話聞いたぞ? 穢れを溜めているって? 和睦を盗んだ罪悪感か?」


 中年の閻魔達が立ちはだかった。私は彼らを無視して横をすり抜けた。そんな私の着物を彼らは掴んだ。


「おい逃げるな」


「話は終わってないぞ」


 そう言って、強く引かれたことで体勢を崩し転倒してしまった。


「貴方達……なぜこんな事が出来るの? 五芒星が黙っていないわよ」


「閻魔王も、五芒星も、お前を助けた事はあるか? ないだろ? あったとしても、お前を助けたわけじゃない!」


 大事なのは、鵺ではなく、鵺の行う業務の方。


 魂には何にも価値はない。


 閻魔界では役割だけが価値のあるもの。


「お前が役割を放棄しても、支障が起きなければ五芒星は何も言わない」


 そう言って、彼らは一人の名前を出した。


 “閻魔時希えんまとき


 まだ少年だが、人間を上に置くくらいなら後輩の彼を押し上げると言った。


 こいつらは、自分達がのし上がるという思考を持ち合わせていないのだろうか。


 いや、閻魔が上昇志向を持っている方がおかしいのかもしれない。


「既に時希の話は閻魔王に通達済みだ! お前は閑職に追い込まれる!」


 私は、頭が真っ白になった。それは、思い当たる節がいくつもあったからだ。私が認められたわけではない。私の仕事が認められたのだ。私自身を認めてくれるのは、薙様だけ……


「……薙様」


「閻魔薙だって同じだ! 自分が特別扱いされているとでも思ったのか!」


 そんなはずはない! あり得ない! 薙様は私を友と呼んでくれた!


 私は走った。閻魔界を抜け、大河までの峠を下っていく。


 もう少しで、薙様と共に眺めた絶景が見える。急な斜面を勢いよく駆け降りた私は、足元の窪みにつまずき、頭から倒れ込んだ。


 両手で地面を押し返し膝立ちになる。着物の汚れを手で払うと、再び走り始めた。痛くて仕方がなかった。無くなった体が戻ったような痛みだった。


 それが心の痛みだと知るまで時間は掛からなかった。


 もうすぐ到着する。そう自分に言い聞かせ、峠の角に差し掛かった。ここを曲がれば、あの絶景が待っている。


 薙様と見た景色が待っている。


 峠の角を曲がった私の視界に入ってきたのは、見知らぬ一人の少年だった。


 ☆☆☆


 その少年もまた、景色を眺めている。私は無意識に身構えた。彼は道服を着ていた。首には鏡が見える。男は閻魔なのだ。初めは薙様かと思った。でも違う。この金色の髪の少年閻魔は一体誰なのか。


「……綺麗な景色ですよね?」


 少年がこちらを振り返った。その顔は見惚れてしまうほど整っていた。


「神々すら到達出来ない領域……あの星の持つ神聖な雰囲気……美しいと思いませんか?」


 少年は、薙様と同じ言葉を綴った。


「ねぇ、鵺さん?」


「なんで、私の名前を……」


「それは……有名ですから」


 私は彼を知らない。


「あぁ、私は最近まで閻魔界の外にいましたからね……」


 閻魔界の外に居たという少年は、静かに右手を水平に伸ばし、沈まぬ太陽を指差した。


「……沈まぬ太陽に?」


「にわかには、信じ難いでしょうね」


 あそこは絶対不可侵領域のはず。少年自身も、”神々すら到達出来ない”と語る場所。そんな所に、彼はなぜ行けるというのだろう。


「申し遅れました……私は時希……閻魔時希です」


 その名前に、私は身を震わせた。目の前の彼こそが、先ほどの中年閻魔達が言っていた、私の後任に推薦している閻魔。


「そう身構えないでください……貴女は天帝様の補佐官に推薦されているお方……立場は私よりも上なのですから」


 そう言ってこちらに近づいてくる。彼の腰には、倶利伽羅がなかった。


「あの、閻魔なのに帯刀していないのは?」


「あぁ……私は裁判を担当しておりませんので、まだ帯刀許可が降りないのです」


 時希は、「安心してください」と攻撃の意志はないことをこちらに伝えてくる。


「貴女が和睦の窃盗犯でなければ……ね?」


「わ、私は無関係です! 薙様も!」


「だと、良いのですがね」


 私たちは再び視線を沈まぬ太陽へと向けた。


 ☆☆☆


 それから数週間、薙様は戻らなかった。閻魔王と共に和睦の窃盗犯について調べ上げると言い残し、宮殿に篭り続けているのだ。


 私は、正式に五芒星の作業補助を解任となった。あの中年閻魔の思惑通りに事が進んだのである。閻魔王としても、これ以上、閻魔と人間の対立を煽るわけにもいかなかったらしく、立場上仕方がないと私に詫びの手紙をくれた。


 代わりに、和睦の窃盗犯が捕まった暁には、天帝様の補佐官に改めて推薦してくれると約束してくれた。ただし、表向きには左遷扱いになるようだ。それほど、人間の魂の暴動が恐ろしいのかと、私は複雑な心境だった。


 そして、ついに和睦の窃盗犯が判明する。


 盗みを働いたのは、神の国の自由思想派に属していた災厄の神。彼がなぜ和睦を盗み出したのかを尋問し、裁判にかけるため、閻魔界に護送中だと五芒星から報告を受けた。


 担当の裁判官は薙様。閻魔王直々の指名だった。


 これで、私の疑いも晴れる。そう思っていた。しかし、実際はそうではなかった。


 事件は、閻魔王の推薦が通り、私が神の国へ渡航する当日に起きたのだ。


 薙様とは結局会えず終いだったと、哀しみに暮れながら荷物をまとめて宿舎を出ると、そこには時希が待っていた。


 私は彼に業務の引き継ぎを行なっていた。なので、最近は薙様よりも彼の方が接点が多かった。彼は引き継ぎのお礼にと、私の渡航の付き人に名乗り出たのだ。


 それは、災厄の神の裁判が開かれる少し前の出来事だった。


「時希様……ありがとうございます」


「貴女の方が立場が上と言ったはずです……敬称はやめてください」


 時希はいつもこんな感じだった。彼はどことなく、他の閻魔とは違う雰囲気を醸し出していた。まるで、彼には人間の感情が理解できている様な、そんな閻魔だった。


 閻魔界を出て峠を下る私たちは、沈まぬ太陽を眺めながら下山した。時希は、最後まで沈まぬ太陽から来たということの詳細を教えてはくれなかった。


 私は、時希を友と認識していた。


 大河を渡るため、舟を呼んだ。船頭の老婆は、私の姿に嬉し涙を流していた。立派に成長したと、私は老婆にとって誇りだと、そう話してくれた。


 大河を渡り、道を歩き続ける。この辺りは、確か、人間の魂が浮上してくる大穴がある辺りだ。


 その周囲に、数十人の人だかりが見えた。その中には、私を蔑む閻魔達も見えた。彼らは、一体ここで何をしているのだろう。


「閻魔界を追われて、どんな気分だ?」


 我々の前に閻魔達が立ち塞がった。


「閻魔王は愚か者だ……お前を神の国へ送り出すなんて」


「彼女は左遷されたのです……神の国など」


「時希ィ!!! そんな嘘で騙せると思うなよ!?」


 激昂した閻魔が時希の首を掴み、地面へ叩きつけた。


「我ら閻魔は、鵺の閑職を望んだ! 閻魔王はそれを無視した! もう我慢の限界だ!!!」


「時希、お前を推薦したのは我々……従わなければどうなるか、分かっているな?」


 時希は砂利の上に数人がかりで押さえつけられる。私の体も、他の閻魔達によって羽交い締めにされる。


「表向きは左遷……国を追われた少女の行方など、誰も探しはしないだろう」


「な、何を!?」


 私の体は現世へ通じる大穴へと運び込まれる。時希はこちらに向かって何かを叫び続けている。


「なぜ彼女の気持ちを誰も理解しようとしないのです!?」


「する必要ないでしょう? たかが人間の魂を」


 時希の顔面が中年閻魔によって蹴り飛ばされた。


「鵺は特別だ! それが分からないのですか!?」


「まだ言うか!? むしろなぜ情を持つ? お前は、我々が推薦しなければ裁判すら持てぬ落ちこぼれ! 我々に感謝し従うんだ!」


 時希の体が無数の閻魔に蹴られ続ける。


「やめて!? これ以上、何もしないで!?」


「もうお前には関係のないことだ……さらば、人間の魂」


 私の体が大穴に投げ捨てられた。先の見えない暗闇へ、頭から真っ逆様に落とされた私が最後に聞いたのは、時希の絶叫だった。


「革命でも何でも起きてしまえ!!! いつか、閻魔界を統治してやる!!! 閻魔王も、五芒星も、貴様らも私の支配下に置いてやる!!! そして閻魔薙!!! なぜ、彼女を守らなかった!!! なぜ、最後まで付き添わなかった!!! お前の政策のせいで、こんな事が起きたんだぞ!!! 私はお前を恨む!!! 許さない……私は、許さないぞ!!! 閻魔薙ィ!!!」


 時希の声は次第に遠のいていく……


 ☆☆☆


「うわぁあああぁああぁあああ!!!!!!!!」


 体の端、手足の先端に青い稲妻を纏いながら、私の体は底の見えない穴に落ちた。この稲妻は落下直後から現れ始め、痛みと共に少しずつ体の中心へと広がっていった。


 同時に、穴の壁に映像が流れ始めた。それも一つではない。畳一畳ほどの空間がいくつも現れ、その一つ一つで異なった映像が流れている。木造建築が燃えているような映像、おかしな服装の人間が首を切られて殺される映像。


 そして、雨の中、岩の上から一人の全裸の男が、恐ろしい形相でこちらを睨んでいる映像。


 その目は見つめてはいけない気がした。なにかゾッとする感覚で包まれてしまいそうだった。


 その中で、一本の山道と竹林が映し出された映像に私は吸い込まれる。映像に触れた瞬間、全身を稲妻に包まれた私は道の上に勢いよく倒れこんだ。


 ここは……どこ?


 なんで私が……?


 なんでこんなことに……?


 許さない、許さない、許さない……!!!


 心の中の不安や怒り、今まで溜め込んでいた鬱憤が増大していく。それに比例するように身を覆う稲妻も輝きを強くしていく。負の感情から逃れるように、私は眼を閉じ、頭を抱えた。だが、その程度で治まるものではない! 頭を上げろと言わんばかりに、激しい痛みが私を襲う!!!


 悶絶しながら頭を振り、


「消えろ消えろ消えろぉおおぉお!!!!」


 と叫び、思わず目を開けた。


 その先には、先程の冷徹な黒い目があった。


 今考えれば、あれは幻覚だったのだと思う。あの場所に目があることなどありえなかったのだから。


 だが、当時の私はそんなことを理解できるほど冷静ではなかった。


「見るな……この私をそんな目で見るなああぁあぁぁああぁあ!!!!!!」


 その目に対して右手を勢いよく伸ばした。だが、私の右手は不快な音と共に肌色の小柄な腕から、無機質な色の異形に変化した。その腕からは稲妻は消えているものの、猫や虎に似た前足になっており動かす度にギシギシと嫌な音が響いていた。


「いや……いやああああああああああ!!!!!!」


 半狂乱で右手をブンブンと振り回す。しかし、意思とは真逆に体の稲妻が消え、その部分が別の生物の部位に変化していく。


 私はそれからも叫び続けた。


 どれほどの時間が経っただろうか。


 この姿を人に見られたこともあったが、私を見て一目散に逃げ出す人間が恨めしくて仕方がなかった。


 私は怒りのあまりに彼を食い殺した。


 私の体は昔よりも恐ろしい程に大きくなっていた。


 いや、もう昔の体が思い出せない。


 私は男? それとも女? それすら思い出せない。もう、忘れてはいけない人の名前すら思い出せなくなっていた。


「化物だぁああぁぁぁあああああああ!!!」


 また今夜も人間に恐れられる。


 私は、私は……私は…………いったい誰なの?


 遠い昔の未知の世界で、満月に照らされた山中、記憶のない一匹の妖怪が誕生し、わけもわからず泣いた。

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