第19話〜衣

 シヅキは、どこかの廃病棟の受付へ移動し、破れたソファの上に僕を座らせた。


「ア、アンタ……あんな隠し玉持ってるなら、さっさと使いなさいよッ!!!」


 僕の頬が平手で打たれる。シヅキは恐怖で涙を流していた。自らの死を覚悟していたんだろう。それでも僕とハクを置いて逃げなかった。決して見捨てようとはしなかった。


 彼女の中の空間の神がそうさせたのか、それとも、彼女の優しさなのか。恐怖と緊張から解放された彼女は僕の身に抱きついて大声で泣いた。


 僕も、我慢できなかった。


 僕を拒絶する現世で、存在を認めてくれたハクは、もういないのだ。


 同じ魂として、対等に扱ってくれた彼女の存在を証明するのは、僕の小指に巻き付いた細い蚕の糸だけ。


 理解者の喪失と全能術の反動で、僕はもう動く気力が出なかった。


「……ッ!?」


 声を出すだけで魂が崩壊しそうだ。現世の理が発生していないのに、衣を纏わないと消えてしまいそうだ。


 全能術の反動は、ここまで酷くはない。


 それに、僕の全能術は……あんなもの・・・・・では済まない。


「ちょっと!? 何か言いなさいよ!? 恥ずかしいじゃない!」


 シヅキの声が焦りと照れを帯びていた。


 僕は、袖の中に手を入れようと、腕を見ると、既に電流が発生し始めていた。


「ここは安定してる場所よ!? なんで現世の理が!?」


 正確には違う。感覚がそう訴えかけている。この場所は、安定と不安定の中間。悪霊化が最も起こりやすい環境。最後の力で衣を取り出すと、僕は少年の姿に戻った。


「はぁ……はぁ……すみません」


 魂の限界を悟った彼女は、「落ち着くまで休んで」と涙を拭って呼吸を整えた。


 ☆☆☆


 廃病棟の二階。かつては患者の個室として使われていただろうその部屋にシヅキは一人で入ると、専用端末を取り出した。


 端末を耳にあて、数秒待つと、彼の声が聞こえた。


〈こちら蓮華。シヅキ、何かあったか?〉


「ニコラスと案内人が現れたわ……閻魔薙と私は何とか逃げた」


〈よく逃げられたな……奴らの目的はお前と閻魔薙だろ?〉


「いいえ、私たちよりも、”おしら様”を最優先にしていたわ」


 電話先の蓮華は、確認するようにそう言った。しかし、シヅキの返答を聞き、何かを確信したように納得の声を出す。


〈……通りで、森之宮神社へ襲撃が起こらないわけだ。既にハヤトの目的は、神の復活の先にあるってわけか〉


 蓮華は続けて、〈保険でシスターアメリアを神社に置いていたが、それも不要そうだな〉と彼女の引き上げを提案してきた。


「引き上げって、まだ何も解決していないじゃない!?」


〈勘違いするな。神社から引き上げさせ、俺と合流させる〉


 蓮華とアメリアのペアで奴らを本格的に叩く算段のようだった。


〈俺は日本の信者を使って奴の動向を探らせていた……そして、やっと根城を突き止めた〉


 奴らの拠点とする廃墟の位置を特定し、今はその付近に駐在しているらしい。


〈おしら様……十年前と同じく、”人間の集合意識”に介入するのが目的だろう〉


「それ、なんの意味があるのよ?」


〈神の目的達成に必要なのは”言霊”だった。だから神はハヤトに知恵を与えて自らの従僕として働かせていた〉


 しかし、その”言霊”は、彼ら・・と共に十年前に消滅した。今のハヤトに言霊の能力は存在しないのだろう。だからこそ、代替する能力が必要なのだと蓮華は説明する。


「言霊って、”名前”を支配する力でしょ? それと、集団意識だか共通思念だかの何が関係してるってのよ?」


〈……世界中の誰もが、神を心のどこかで信じている。言ってしまえば、”存在しない者”を”存在する者”として誰もが扱っているに等しい〉


「宗教団体の教祖とは思えない発言ね……」


〈人々の”神が存在する”という思考が集合し、今の神々を形成しているとしたらどうだ? 集合意識への介入は、神々の立つ土台をいじるのと同じなんだ〉


 かつてハヤトは、”タルパ”のようだとも言っていた。タルパとは、人の意識によって生み出される”存在”だという。


〈閻魔も同じだろう……人々が”罪を裁く存在”として承認しているわけだし〉


「つまり……どういうこと?」


〈奴は、災厄の神の意のままに、他の神や閻魔の”役割”を掌握するつもりだ〉


 役割の有無は、彼らの世界において生命線。和睦という刀が恐れられた理由と同じ。


〈俺はシスターアメリアに連絡する〉


「な、なら……高松屋敷に電話すると良いわ。桜の霊視を受けに行ってるみたいだし」


〈分かった。シヅキはどうする? 神社に戻るのか?〉


「えぇ、そのつもり……私もだけど、少し休まないと閻魔薙の容体が悪い」


〈引き続き、閻魔薙を頼む〉


 そう言って電話が切れた。


 私がロビーに戻ると、横になっていたはずの閻魔薙の姿がなかった。


 遠くで、車輪が回る音がした。


 ☆☆☆


 ────周囲で老人達の声がする。


 “すごい、完全に包まれている”


 “でもかわいそうになぁ……まだ子供じゃないか?”


 “あたしゃもう嫌ですからね”


 “逃すにも、弱ってるみたいだし、少し休ませようか”


 “何言っているんだ? こんなチャンスは二度とないぞ”


「だ、誰……だ?」


 ソファに仰向けになっていたはずの僕が目を開けると、数人の霊体がこちらを覗き込んでいるのが見えた。


 彼らは全員、青い患者着を纏っていた。中には、手に点滴用のキャスターを持った老人もいる。


 おそらく、この廃病棟の住人達だろう。


 だが、問題はそこではない。僕は”移動”している。


 いつの間にか医療用ストレッチャーに寝かされた僕は、廃病棟の奥へと連れ去られている。


 ストレッチャーは手術室へ運ばれた。そこには、執刀医と思わしき男が両手を上げて待機している。


「……な、なにを」


「魂を包む”衣”をいただきます」


 執刀医の手にメスが握られる。その刃が紫電を帯びる。この執刀医は、”滅却”の力を持っているのだと理解した。


 ────まずい。このまま衣を剥がれたら、僕の魂は保たない。


 かといって反撃できるだけの力は残っていない。


 ────こうなったら一か八かだ。


「こ、衣が欲しいなら、幾つか予備がある……それを渡す」


 僕の腹部に迫るメスが止まった。執刀医が、ゆっくりとこちらに顔を向ける。


 マスクとサングラスで顔は見えない。


「……衣の予備だと?」


「ぼ、僕を解放してくれたら、お渡しします……悪くない取引でしょう!?」


 焦って早口で捲し立ててしまったが、執刀医はメスを引っ込めると、サングラスとマスクを取り外した。


 その顔は、周芳や風切よりも年上の六十代後半くらいに見えた。彼は、「証拠を見せて貰おうか」と、青い手袋のまま僕に手を差し出した。


 僕が今着ているのは、暦が仕立てたポケット付きの衣。そのポケットから道服へアクセスすると、衣を一着取り出して彼に見せた。


「絹の白装束……こんなに綺麗な衣を持っているなんて」


「解放してください……そうすればお渡しします」


 僕が言い終わるよりも早く、僕を繋ぐベルトが外され、そのまま手に持つ衣を引ったくられる。男は衣を持って手術室の奥の扉まで掛けて行き、その内部へと消えていった。


 ストレッチャーの上で呆然とする僕と、周囲の患者服の老人達。


「……先生には、困ったもんだ」


 点滴用キャスターを杖代わりにした老人がポツリと呟いた。


「ほら、坊主はさっさと逃げろ……またお前の衣を取りに来るぞ」


 白髪混じりのメガネの男は僕の脇を掴んで立ち上がらせようとする。しかし足に力が入らず、ストレッチャーから落下しうつ伏せになる。


「あ、あの!? 皆さんは”衣”をご存知なんですか!?」


 地面を這ってストレッチャーに捕まりながら彼らを見上げた。


 誰もが、言いたくなさそうな顔をして目を逸らした。


「あのお医者さんは、”衣”を切ろうとしました……つまり、霊能者ですね?」


「その通りですよ。でも、あたしゃ正直、嫌いだね」


 シワだらけの老婆が手に持っていた杖で床をコンコン叩きながら答えた。


「あたし達を脅して、”衣狩り”なんてさせてるんですもの」


「衣狩り……?」


 前のめりにストレッチャーに乗り上げる。そんな僕を支えるメガネの男と、この中では一番若い筋肉質な青年。


「俺たちはここに入院していた元患者だ。だが、全員助からず、こうして地縛霊として病棟に住んでいる」


 筋肉質な男が僕を背負った。そのまま出口へと歩いていく。


「あの医師は、ここの外科の先生だよ。俺たちの手術を担当したな」


 手術室から出る僕を、小柄な老人が追いかけてくる。「その子は先生に預けろ!」と、後方で叫んでいる。


「まだ子供だぞ! しかも、完全に衣で魂を守っている! まだ天に昇る選択だって選べるんだ! ここに置くわけには行かない」


「裏切り者! 先生に言いつけて滅却してもらうぞ!」


 彼らのやりとりが僕抜きで続く。それを聞いて、何となく背景が見えてきた。


 あの医師は、目的不明だけど、”衣”を知っていて、それを集めている。


 ここの住人の地縛霊たちは、医師の持つ”滅却”の力で脅され、この廃病棟に紛れ込んだ浮遊霊を捕まえ医師に献上している。


 そして、医師は、”衣を加工する技術”を持っている。


 背後の老人の、


 “今までこんな綺麗な衣は見たことないだろう!”


 “もう縫合せずとも良いのだぞ?”


 この言葉から、傷ついた衣や切れ端は何度も見ているのだろうと推察できる。


「先生!!! 子供が逃げようとしている! 此奴らも手を貸している! 滅却してくれ!」


「おいやめろ!」


 わざとらしく騒ぎ立てる老人の声を聞いて、手術室の扉が開いて先ほどの医師が姿を現した。いつの間にか白衣姿になっている彼の目と、僕は目が合った。


  ☆☆☆


「どこ行ったのよ、もー!!!」


 シヅキは廃病棟の内部を走り回っていた。閻魔薙がいない。動けないことを良いことに、おそらくここの住人に連れて行かれた。ただ、ここには誰の姿もない。


 時刻は朝五時。怪異が表立って活動する時間帯ではないが、それでもシヅキは動き続ける。


「……御札を持ってくれば良かったわ」


 霊障を感知する御札なら探知機としても使える。


「一瞬だけ戻って、取ってくるしかなさそうね」


 閻魔薙を思い、魂の安定性だけでこの場所を選んだのは間違いだった。後悔の念がシヅキの中で渦巻いた。


「すぐ戻るから、死なないでよ、閻魔薙!」


 彼女の姿が、病棟内から消えた。


 ☆☆☆


 医師は、オモチャの水鉄砲をポケットから取り出した。オレンジ色のプラスチックでできた、上から水を入れるタイプのものだ。


 水鉄砲からは、透明な水が射出されたが、それが筋肉質な男に命中すると、悲鳴を上げて暴れ回る。その衝撃で僕は背中から落ちた。筋肉質な男の腕は、火傷でも負ったようにただれていた。


「聖水です。彼をこちらに寄越しなさい」


「こ、子供を使ってでも、延命したいのか!? この子は、アンタの子と……!?」


 ニ、三発と追加で聖水が撃ち込まれる。筋肉質の男はもう何も言葉を発さなくなる。


「はぁ、私だって罪悪感はありますよ……」


 僕へゆっくり近づいてくる医師。僕は、何とかポケットから浄瑠璃鏡を取り出して首からかけた。


 今は、何としても情報が欲しい。


 ☆☆☆


 鏡から伝わる医師の過去は、家族の思い出だった。


 溺愛していた息子の不治の病。それを受け入れられない家族。


 何としても解決しようと身を粉にして調査に励む彼。


 しかし少年の余命は、一刻も残されていなかった。


「あ、あなたは……お子さんのために?」


 銃口が僕を向いた。医師は、「なぜそれを?」と冷静さを保とうとしているが、銃を握る手が震えていた。


「でも、衣を何のために……」


 僕の問いかけに、鏡が医師の心を伝えた。


 “息子が苦しまないように。息子がいなくならないように。そのために衣が必要だ”


「先ほどの衣の礼だ……特別に見せてやる」


 医師は床に横たわる僕を抱えると、再び手術室へと連れて行った。それを住人達は何とも言えない表情で眺めていた。


 ☆☆☆


 手術室の奥の扉を抜けた先に広がっていたのは、十畳ほどの空間と、その奥の台に横たわる少年の遺体。髪はなく、全身に包帯を巻かれている。


 その遺体の上には、十五歳の少年の浮遊霊が浮かんでいた。その姿は、元気だった頃の姿なのだろうか。ショートの黒髪にサッカーのユニフォーム姿でこちらを見続けている。


 医師は椅子を用意すると、僕を座らせた。


「……君の衣を着せたらこうなった。この修復力は相当良い衣だ……」


 それまでは、浮遊霊の姿は、肉体と同じく闘病中の見るも無惨な姿だったという。


「息子は、若くして亡くなった……今から十数年前だ……私達は誰もその事実を受け入れられなかった」


 医師は、彼の父親だと語った。そして彼の妻……少年の母親が未練の原因。


 子供を亡くしてから、母親はおかしくなった。いないはずの息子が見えると言い、まるで生きているように振る舞ったと。


 だが医師は知っていた。医師は元々、連盟に所属していた霊能者だった。だからこそ分かるのだ。


 妻が見ている息子が”幻覚”だと。


 誰も、それこそ浮遊霊すらいない空間に向かって子供の名前を呼ぶ姿は見ていられなかった。


 そして、そんな妻を見て、子供も成仏できる筈がなかった。


 少年の母への想いは未練となって現世に留まり続けた。だが、現世の理は彼の存在を許さない。


 医師がそれを知ったのは、青白い電流にもがき苦しむ少年の姿を目撃してからだった。


「……私もこの子が苦しむのを見ていたくなかった。だから、この廃病棟を買い取り、遺体と魂をここに静置した……だが、負傷した魂は回復しなかった」


 その日以降、現世の理は発生しなかったものの、浮遊霊だった少年と意思疎通を図ることが出来なくなった。損傷が激しすぎたのだ。


「私はこの子と話したい……だから、衣を集め、魂の修復をしている」


「衣のことを……一体どこで?」


 僕は疑問に思った。連盟に所属していたと医師は語ったが、そもそも連盟は衣について一切の知見を得ていない。


 ましてや、僕たちですら衣は未知数な物質。現世に衣に精通する者がいるとは思えなかった。


「十年ほど前、”カレン”と名乗る少女が、衣の実験に付き合う代わりに私に技術を教えてくれた……彼女は、衣の修復力と、加工技術を研究していた。彼女の元で助手をしていなければ、浮遊霊の破損した衣でここまで耐えられなかった」


「カレン……?」


 聞いたことのない名前だ。いや、連盟の周芳なら知っているかもしれない。


「……だが、まだ喋らない」


 医師は、僕の首にメスを押し当てた。


「持っている衣を全て出しなさい……今、君が着ているものもだ」


「……話と違いませんか? 取引をしたじゃないですか?」


「一度、解放しただろう……それにきっと、この子も望んでいる」


 息子を亡くし、妻がおかしくなった。精神的苦痛は想像を絶するものだろう。簡単に割り切れるものではない。その感情が、この現状を引き起こしている。


 僕は少年の浮遊霊を見た。まっすぐと目だけがこちらを向いている。


 少年も、伝えたいことがあるのだ。鏡が、それを僕に伝えている。


「お子さんも、貴方と話したがっている」


 そう言って、僕は首の鏡を外し、医師に手渡した。


「……何だこれは?」


「浄瑠璃鏡……魂の記憶や情報を知覚できる鏡です……首からかけてください」


 ────そして、目の前の少年の意思を受け止めてください。


 ☆☆☆


 医師の脳内に、少年の思念が流れ込んでくる。


 “お母さん、なぜ僕を見てくれない……僕はここにいる……そっちじゃない”


 “身体中が痛い……苦しい……息ができない……怖い……死にたくない”


 “お父さん……どうして、僕を放置するんだ?”


 “いつまで……いつまで僕は……こんな思いをしないと……いけない?”


 同時に、少年の感じた苦痛が医師へと感覚として伝わった。


「こ、これは……当時の記憶!? なぜだ!? 衣で修復しているのに病に犯される苦痛が!?」


 医師は腰を抜かし、その場に座り込んだ。首から鏡を外すと、床に投げ捨てた。


「今のはなんだ!?」


「それが彼の記憶……心の奥底にある感情です」


「衣で癒しているのに、どうして!?」


 医師は僕の胸ぐらに掴み掛かる。


 “この世への未練が、亡くなった肉体の状態を維持している”


 過去に燐瞳が言っていた。浮遊霊の姿形は、未練によって亡くなった時の状態を維持し続ける。落下死した霊が、終わりのない地面との衝突を味わい続けるように、目の前の彼は病の苦しみを受け続けている。


 未練を消さない限り、終わりのない無限の苦痛があるのだと。


「彼は、今も病の苦しみを味わい続けている……母親への未練のせいで」


「そんなッ!? 馬鹿なッ!? じゃあ、私は、何年間もこの子を拷問しているようなもの……」


「未練を洗い流しましょう……」


 僕の提案は、医師に一蹴された。


「ふざけるなッ!? 衣が……衣があれば治るんだッ! カレンはそう言っていたんだッ!!!!?」


 今まで信じてきた事を、否定されるのが許せないのだろう。医師は、取り乱し、大きく身体を震わせた。


「これは悪霊化を延命しているに過ぎません!?」


 医師は馬乗りになってこちらにメスを突き立てた。


「未練を祓えば、少なくとも苦しまなくて済みます!?」


「未練がなくなれば、この子は現世から昇ってしまうだろッ!?」


「これ以上、お子さんを苦しませ続けたいんですかッ!?」


「黙れぇッ!!!」


 メスが胸に突き刺さった。その刃は、僕の魂へ到達していた。


 滅却の激痛が僕を襲い、それでも刃は縦に動かされた。


 僕を包んでいた衣は剥ぎ取られ、強制的に閻魔の姿へ戻される。


 全身は薄く青白い電流に包まれた。これは、現世の理に加え、魂の崩壊を意味していた。


 ☆☆☆


 “致命的な損傷。生命力が低下しています。魂を保護してください”


 “繰り返します。大変危険な状態です。”


 “致命的な損傷。生命力が低下しています。魂を保護してください”


 倒れる僕の横で、鬼籍に赤文字の警告文が表示され続けている。


 鬼籍に、こんな機能があったなんて知らなかった。魂が危機に瀕した時の最終警告なのか。


 呆然と、仰向けで鬼籍を眺め続ける僕を他所に、剥ぎ取った衣を少年にさらに重ね着させる。医師は捲し立てるように、「もっと必要なのか? これでも足りないのか?」と、僕の袖からこぼれた予備の衣を全て奪い取って少年に繰り返し着せていく。


 “崩壊する魂の情報と未練の情報が混ざり合い、偶然にも意味のある情報になった時、魂は現世の理から逸脱する”


 周芳が僕に見せた論文の一説だ。


 少年の魂は、ほぼ崩壊している。その状態を衣で維持しているなら、彼は悪霊化の条件を既に満たした上で保存されているに等しい。


 ────まさか、本当は”悪霊化のメカニズム”の試験が目的だったんじゃ。


 少年の首が、僕の方を急に向いた。ぼやけた視界で少年を見ると、何かを伝えたような表情をしていた。


 浄瑠璃鏡は、先ほど医師に投げ捨てられ、遠くに転がっている。


 でも、僕は彼の感情を理解した。


 母親が少年を見失ったことへの焦りと恐怖。


 父親が自身の意図を理解してくれないことへの憤り。


 “怒りが全身を支配し、魂を変異させるのに時間は掛からなかった”


 ハク……僕は今、悪霊の誕生に立ち会っている。


「君は……変異しちゃ……いけない」


 絞り出すように少年に向けて放った言葉。彼の背負っている罪は少ない。まだ閻魔界に昇っても、苦痛は少ない。これ以上は、いけない。


 しかし、そんな願いは叶わない。


 少年は雄叫びを上げながら全身を発光させていく。衣の生命力を、魂の修復に使い果たし、砕け散った衣の中から現れたのは、現世に適合した全裸の少年の姿だった。医師の手にある白装束を奪うと、少年は迷うことなく羽織った。


 衣が、父親と同じ白衣姿へ変貌する。


「ありがとよ、親父……俺のことを痛ぶってくれてッ!!!」


 今まで、どこへ向けていたら良いのか分からなかった感情を、作り出したメスに乗せて、自身の父親へと突き立てる少年は、血の涙を流しながら笑っていた。


 ☆☆☆


「ゴォッ……!?」


「いっぱい苦しめよッ……俺が味わった分よぉ」


 腹を抑え、うずくまる医師の足元には赤い水溜りが広がった。何度も繰り返し同じ箇所に突き立てられる刃。その度に医師の苦痛の声が部屋に広がった。少年の手からメスが消滅する。


「ありがとよ……」


 動かない医師を置いて、薙の前まで移動した少年は、衣を脱ぐと薙に着せた。今度は薙の姿が白衣に変化する。しかし、少年の姿は以前、白衣姿のままだった。


「おっ! 服もつくれるのか! こりゃ便利だぜ」


 わざとらしく少年は笑うと、薙を掴み壁に寄りかからせた。


「俺の心を理解してくれたのは、アンタだけだった」


 動かない薙の姿勢を維持するために周囲に箱を創造して支えにすると、床に転がった鏡を首へかけた。


 少年の中に、薙の感情が流れ込んでくる。それは、薙が現世に降りてから今日までの激動の変化を味わうことだった。アップダウンの激しい精神状態を途中までは嫌悪し抗いながら、それでも自分の感情として受け入れた薙。そんな彼を肯定した友人を、目の前で失った事実に対する復讐心という闇。


 少年は目を逸らし鏡を外した。


「……アンタも復讐してぇよなぁ」


 少年は薙の首に鏡をかける。


「なのに、俺の心配なんてすんなよ」


 薙の肩を揺さぶり、「もっと我儘になっても良いんじゃねぇの?」と励ましの声をかける。しかし薙から反応はない。


「俺も友達とか欲しかったし……あと、タバコとか吸ってみたかったし」


 タバコを創ってみようとするも歪に曲がったオブジェしか出てこない。自分の中にあるものしか創れないのだろう。


「なぁ、閻魔さんよぉ……俺は母さんに会いに行こうと思うんだけどさ、良かったら────」


 ”一緒に行かないか”


 そう言おうとした少年の首が跳んだ。視界が上下反転する。


 少年が最後に見たのは、身の丈ほどの大鎌を振るった少女の姿だった。


 ☆☆☆


「薙くん!!?」


「閻魔薙ッ!!!」


 廃病棟の地下に下るスロープを走り抜け、通路にいる悪霊を片っ端から御札で祓う燐瞳。その後ろを追うシヅキの二人は、薙のいる手術室に突撃した。


 御札を構える燐瞳の視界に映ったのは、壁に寄りかかる白衣姿の薙と、血溜まりに横たわる老人の姿だった。燐瞳の口から引き攣った叫び声が上がる。


「落ち着いて燐瞳! まだ息があるわ! 周芳に連絡するから閻魔薙を確認して!」


「わ、分かったわ……シヅキちゃん」


 燐瞳は薙に駆け寄って肩を揺する。だが薙は動かない。彼の足元に開かれたままの鬼籍が落ちている。そこには赤い墨でこう記されていた。


 “生命力が著しく低下しています。生命活動を一時停止します”


「え……なにこれ」


 まるでSF作品で見るような文章が本に浮かび上がっている。


 “これ以上の負荷がかかった場合、魂が消滅します”


「魂が……消滅?」


 薙の肩に置いた燐瞳の手がゆっくりと離れる。反応はないものの、かろうじて息はあった。


 今までも意識を失うことはあったけど、こんなのって……


 様々な思考が燐瞳の脳内に浮かぶ。


 自分の呼吸がうるさく聞こえる。視界がブレる。体が震えているんだ。


「いや……死なないで」


 目の前で項垂れる彼を失いたくない。


 喪失への恐怖。それだけが、燐瞳の思考を支配していた。

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