第34話~トラツグミとトキ
これは、水月が大河で霧華達を発見するよりもほんの少し前の出来事である。
閻魔界の宮殿最奥に位置する閻魔王の部屋。ここはかつて、鬼達が入口を守り、中では事務作業に追われる閻魔王が見られる場所だった。しかし今では入口は固く閉ざされ、守衛すら存在せず、五芒星も近づく事のない領域となっていた。その理由は単純なもので、この扉は閻魔王代理の時希以外が開くことを禁止しているからだ。
そんな部屋の中に時希は居た。かつて閻魔王が座っていた玉座に座り、前傾姿勢で両の手を組んだ恰好の時希は静かに瞳を閉じていた。彼は知らせを待っているのだ。
「時希様……ご報告に参りました」
玉座の後ろから声がした。時希の側近の鬼の姿がそこにはあった。どうやらこの部屋に通じる秘密の連絡通路が玉座の裏に隠されているようだった。
鬼の報告は閻魔界の麓へ浮上した人間の魂についての情報だった。報告を聞いた時希の目が開く。
「やっと、この日が来た……報われる日が」
「────他の魂達は、いかがなさいますか?」
「普段通りだ、五芒星以外の閻魔へ隠密に裁判を分配しろ」
時希の指示に、「承知致しました」とだけ言葉を残し、鬼は姿を消した。
「いま迎えに行きますよ……鵺」
時希の口から漏れたのは、かつて憧れていた少女の名だった。
静寂を破るように、時希は右手の指を鳴らした。
☆☆☆
「────様へ連絡しろッ! 目的の少女を発見したとッ!」
私が初めに聞いたのは、鬼達の怒号だった。目を開けると、なぜか服を着た鬼達が私を囲い込み、誰かへ連絡をしようとしている。隙間なく並ぶ彼らの仕草は、まるで周囲の目から私を守っているようだった。
ゆっくりと立ち上がり、周囲と足元を見ると、ここは私が閻魔たちに落とされた穴のすぐ近くだと分かった。
「失礼を承知でお伺い致します、貴女は鵺様で間違いないですね?」
なぜかスーツ姿の眼鏡をかけた鬼が丁寧な言葉使いで私に話しかけてきた。眼鏡をクイッと上げる仕草に、ここが本当に閻魔界なのか疑問を持ってしまう。
「は、はい……あの……」
「落ち着いてください、我々は現閻魔王……閻魔時希様に遣わされた者です」
────閻魔時希!? あの時希が閻魔王!? 一体、ここで何が起きているの?
「ここから移動しましょう……移動先で時希様と合流していただきます」
「あ、あの……私はもう────」
────もう行くべき地獄は決まっています
だから裁判は不要だと言いかけた。しかし、私が瞬きした時には、私の視界は一変していた。
そう、ここはかつて閻魔王が私を採用した部屋。鵺という名を授かった部屋に移動していた。何が起きたのか、まるで時間が飛んだような、過程をスキップし結果だけを残したような不思議な感覚だった。
「貴女が昇ってくるのを、長い間待っていましたよ」
玉座から声がした。見上げると、記憶の中の彼がいた。あの頃と違い、俱利伽羅を帯刀した閻魔時希が私を見下ろしていた。その表情は、様々な感情を必死にかみ殺していた。
玉座から降りた時希は私の手を握った。
「会いたかった……鵺」
その手は震えていた。きっと、今言ったように彼はずっと私を待っていたのだろう。それは途方もない時間だっただろう。苦痛だっただろう。それが報われたと、小刻みに震える彼の手から伝わってくる。
「全て……全てが計画通りだ」
震えた手が私を引き寄せ優しく抱きしめた。耳元で時希がささやいた。
「と、時希!? ちょっと!? やめて!?」
「すみません……取り乱しました」
私を放すと時希は深々と頭を下げた。その姿からは、閻魔王の気品は感じられない。当時の閻魔時希にしか見えなかった。しかし、先ほどの鬼の発言が私の頭を離れない。
「貴方が……閻魔王だって聞いたけど」
「はい、表向きには”閻魔王代理”とされていますがね」
真面目な表情を作る時希の顔からは喜びの感情が隠しきれていなかった。
「前の閻魔王はどうなったの?」
「先代閻魔王は……あの方は────」
だが、その表情が一変する。
☆☆☆
「────そんなことより鵺、私も貴女にいくつか質問したい」
先代閻魔王など、どうでも良いと言わんばかりに時は話題を切り替えた。
「かつて和睦を盗み、現世へ逃亡したマガツヒノカミは、今も生きていますか?」
「なッ……えっ?」
「生きていますか?」
時希は語尾を強めた。狼狽する鵺の様子から、神が生存する事実を確信した彼は、マントを翻して玉座に再度座った。彼が指を鳴らすと鵺の真後ろにソファが現れ、自動的に鵺を座らせた。
「越えなければならない障害は山積みだが、希望は見えた」
「ちょっと……あの神と貴方に、何の関係が……?」
鵺の問いかけに、時希は強く言葉を発した。
「神の革命は、我々の規範を覆す────私はそれを望んでいます」
その言葉に鵺は無意識に一歩退いた。目の前の閻魔は災厄の神を崇拝していた。かつて鵺を支配し別人格を与えたハヤトと同類なのだと理解し、思わず拒否反応を示したためだ。
しかし時希は意に返さない。自身への拒絶すら鵺の意思なのだと尊重しているようだった。
「私は、あの神がどんな存在か知らない……でも、あの神を崇拝していた人間の異常さは誰よりも知っているつもりよ……時希、お願いだから考えを改めて」
「別に崇拝しているわけではありません、私は神の革命を利用したいのです────貴女のために」
「利用って……一体何が何だか」
多くの情報に襲われた鵺は弱々しく答えた。時希の目がそんな鵺をじっと見据えている。そして、鵺の疑問へシンプルな回答を提示した。
「災厄の神は人と神との繋がりを断つために世界記憶を改変しようとしています────その改変に私は介入し、閻魔界に”恩赦”の規則を追加する」
恩赦とは、簡単に言えば裁判結果を覆す特例である。
「恩赦によって確定した罪を帳消しにする……そのためには、災厄の神と対等に交渉する必要があります……この閻魔王の立場こそが交渉の武器なのです」
今の地位は閻魔薙を罪人に仕立て上げ昇りつめたもの。薙の存在が明るみに出れば失脚は免れない。だが時希に後悔はなかった。鵺を地上へ落とした元凶は閻魔薙だと信じて疑ってなどいないのだから。
「だから信じてください……私は貴女の敵ではない……ただ、貴女を守りたいのです」
「時希……」
この言葉を最後に、しばしの静寂が二人を包み込んだ。
☆☆☆
時希の手が鵺の頬を撫でるように空を切った。地上で犯した罪によって既に行くべき地獄が確定した鵺を憐れんでの行動だった。
鵺に再会する────それだけが時希の支えであり、他には代えがたい意思の支柱だった。
仮に鵺が罪人になっていようと関係がなかった。そのために罪を帳消しにする特例を用意する計画を立てていたのだから。
正直言えば、この計画は
鵺が罪を犯さず再び天に昇ればそれで良い。仮に罪を犯していた時に計画を実行すれば良いだけなのだから。その準備だけをしておけばいいのだ。ただ、それだけなのだ。
杜撰だろうが何だろうが、それで良いのだ……
☆☆☆
「薙様に会ったわ……時希」
静寂を破ったのは鵺の方からだった。思い出したように地上で会ったかつての同居人の名前を口にし、時希に事実を伝えた。
「閻魔薙は神の逃走幇助で裁かれ消えました────それが
まるで閻魔薙との邂逅すら予見していたように時希は鵺の発言を流した。
それは必然だった。大河の渡し舟の座礁、捕らえた老婆から聞き出した情報から、時希は既に閻魔薙が地上を目指したという事実に辿り着いていた。
だが鵺はそれを知らない。もっと言えば、時希が薙に抱く復讐心……鵺を目の前で失い失意に飲まれた彼が辿り付いた怒りの矛先が閻魔薙という事実すら鵺は知らない。
「────閻魔薙と一緒に、この女がいませんでしたか?」
鬼籍に模写された桃色の髪の少女の絵が鵺の眼前に浮かんだ。その顔を見た鵺は息を飲んだ。
「この人……薙様は、死神の暦と言っていたわ────でも」
「やはりこの女も地上に降りたか……面倒な」
鬼籍が畳まれて時希の道服の袖に消えた。
「そんな死神はいない……暦なんて死神は記録に存在しない」
その時だった。
「時希様! 再び魂の浮上を感知致しました!」
時希の座る椅子の背後から声がした。連絡用の鬼の声だった。
「────同じように五芒星以外の閻魔へ隠密に裁判を分配しろ」
「いえ、それが……」
連絡用の鬼の声が急に弱々しくなった。鬼によると魂を発見した時点で誘導しようとしたらしいが、そこで問題が起こり、さらには閻魔水月に現場を抑えられたらしい。
ガンッと時希は椅子の肘置きを叩いた。これは時希が鵺に夢中になっていたために見逃してしまった事象なのだ。責任の一旦は時希にもある。
時希は椅子から立ち上がると、ここからの会話を鵺に聞かれないよう椅子の裏手へ身を移した。そこには酷く憔悴した鬼が床から顔を覗かせていた。
「恐れ多いのですが、時希様のお力をお借りしたく……」
「私はここを離れるわけにはいかない……離れれば、鵺の刑が執行されてしまう」
鵺を探すためとはいえ全ての人間の魂を検閲していたと他の五芒星が知れば、閻魔の中立性に反すると非難されるのは火を見るよりも明らか。水月を止めなければならない。
目には目を、歯には歯を、五芒星には五芒星を。
「仕方がない……閻魔琰器に水月が公務を妨害したと伝え、琰器と共に即刻水月を捕まえろ」
五芒星随一の拘りを持つ琰器なら閻魔王の勅命に従うはずだ。もし従わず水月側に付いたとなったその時は、全能術を使ってでも直接阻止しよう。
☆☆☆
「────お待たせしました、鵺」
再び鵺の前に姿を現した時希は、椅子に座らず彼女の目の前まで歩いてくる。
「時希、貴方が私を探してくれたのは嬉しいわ……でもそろそろ行かないと」
鵺は閻魔薙と約束していた。薙が迎えに来るのを、行くべき地獄────地獄の最下層で待つと。彼を待つために、自分の罪と向き合うために、地獄へ行かなければならない。
「行く必要などありません! 貴女の罪は、私が恩赦を使い帳消しにします! それまではここに居てもらわなければ困るのです!」
「それでも、私の犯した罪は本物なのよ時希……貴方の恩赦も私は待つわ。でも、それまでは地獄の責め苦に耐えなければ……耐えなければ……私が殺した人達に示しがつかない。何も背負わずに罪が消えるなんてあってはならないわ」
引き留める時希に対し、覚悟を決めて鵺は言った。罪を認め、反省する時間が必要な鵺にとっての意思。罪が消えることは許されることとイコールではないと時希を諭した。
「さぁ、早く術を解いて」
鵺の視線から思わず顔を背けた時希だったが、ゆっくりと右手が鵺に向けられる。震えるその手から、パチンと指を鳴らす音が響き渡った。
「許してくれ」
しかしその音は、術の解除ではなく発動を意味していた。
「もう貴女を失いたくない……あんな想いを二度も味わいたくない」
鵺は立ったまま静止していた。意識も魂の状態も一切が微動だにしない。
「来るべき時まで、貴女はここで、この静止した空間で、ただ待てばいい」
マントを翻し、時希は玉座へ座りなおした。かつて尊敬した人間の魂を眺めながら……
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