第33話~閻魔界の深淵
閻魔界の空を翔ける一筋の水流があった。その先端には、霧華を抱く閻魔水月がいた。彼女の操る水の力で閻魔琰器から逃げているのだ。もうすぐ、閻魔界を囲う壁を抜け、大河へと差し掛かろうとしていた。
「ど、どこまで行くんですか!?」
「そんなの琰器から逃げられるところまでよ!? まったくもう、本当に犯罪者になっちゃったじゃないのよー!!!」
霧華の質問にヒステリックな返答をする水月。彼女も余裕がないのだ。正当防衛とはいえ全能術を神以外に使用した罪悪感が今になって彼女を襲い始めている。
全身に嫌な感覚が広がっていく。これが罪の意識かと水月は思う。閻魔として中立性を維持している身で罪悪感や自責は自我に繋がる。元々、水月のように感知能力に優れる者は他者の感情を読み取る事にも長けており、その影響で自我が発生しやすかった。閻魔としての責務を果たすため、自我の断舎利とも呼べる修行で自我を切り離している水月は、この感覚によってさらに感情的になっていく。
山を下り終えた。もう大河は目の前だ。
「いっその事、現世へ逃げようかしら……閻魔薙もいるみたいだし、でも現世は私達が生きていける環境じゃないって暗鬼さんが言ってたし……」
「ちょっと、ぶつぶつ言ってないで何か解決策を────あの小屋は!? あそこなら少しやり過ごせるんじゃないの!?」
自暴自棄になる水月を横目に大河の端に建つ小さな木製の小屋を発見した霧華は声を荒げた。そこは、地上に浮上する魂から衣を剥ぎ取る奪衣の業務を任された者の作業場だった。水月も霧華の案に賛成し、二人は小屋から少し離れた位置に不時着すると、隠れながら小屋に近づき、その扉をゆっくりと開けた。
☆☆☆
中は閑散としていた。脱がされた衣を保管しておくための箪笥が無造作に開かれており、作業者は見る影もない。全くの無人……というわけではなく、一人の老人が胡坐をかいて座っているだけだった。
「……水月か?」
「あ、暗鬼さんーッ!!! 会いたかったよー!!! 私、どうしよう……琰器に全能術を使っちゃったのッ!!?」
暗鬼を見て安心したのか水月の感情が爆発した。
ここまで取り乱すかと言わんばかりの水月と、それに大きく引いてしまった霧華は暗鬼と呼ばれる老人に言われて中に隠れた。暗鬼は雑務の帰りに鬼達が騒いでいるのを見つけ、気の流れを感知するためにここで集中していたようだった。
「異常な気の乱れを感じてな、まさかお前の全能術だったとは……おそらくワシにも閻魔王からお前の捜索命令が出されるだろう……そうなったら従わざるを得ない、その前に詳しく話せ」
「えーん、えーん!!!」
水月はまともに話せる状況ではなかった。暗鬼は慣れているのか、今度は霧華へと向き直る。
「すまん、申し遅れた。ワシは暗鬼、閻魔暗鬼だ……五芒星を知っているか? 閻魔王直属の五人の閻魔だ、ワシはそこに席を置いている」
「はい、薙君……閻魔薙から五芒星については伺っています────」
「うん? 閻魔薙を知っているのか? 奴は────死んだはず」
暗鬼は口髭を触りながら眉をひそめる。閻魔界の通説────”閻魔薙は神の逃走幇助の罪で裁かれ消えた”というものと異なる発言に疑問を抱いたのだ。霧華は事の詳細を話す。自身の過去と閻魔薙との邂逅、そして鬼達と閻魔琰器の襲撃についてを。
「────それが本当なら、閻魔王は一体何をお考えで……代理を任されている時希を問い詰める必要がありそうだ」
「その、私は閻魔様について詳しく知らないんですけど、その時希って閻魔は?」
霧華の質問に暗鬼は答えた。
閻魔時希は閻魔界の異端児として知られている若い金色の閻魔。言葉の端々から自我が垣間見えたため、教育係の閻魔は彼に帯刀を許さなかった。さらに鵺と呼ばれる人間の魂に傾倒するなど閻魔としての中立性を怪しむ声が絶えなかった。そのため生まれてから今日まで裁判を担当した事がないという。
「しかしある日、奴は神の国へ留学を果たし、閻魔王に認められる形で五芒星へ加入した。裁判経験がない者が五芒星になるのは前代未聞だ。その後も奴は多くの功績を残し、今では閻魔王代理の地位まで昇りつめた」
そして、閻魔王代理の地位に就任したその日から閻魔王は日に日に姿を現さなくなっていったという。
「────いや、五芒星就任は鵺が左遷された後だったか? それともその前だったか? 記憶が曖昧で申し訳ない」
「い、いえ、謝らないでください! それで、その時希さんはどちらに? 薙君の誤解も解いてもらわないと、彼は
「それにしても、本当に閻魔薙が……神の逃走幇助は冤罪……うーむ」
腕を組み、悩む姿勢を見せた暗鬼だが、何かを決心し、「ワシが時希に会ってこよう」と立ち上がった。
「でも暗鬼さん、それじゃあ暗鬼さんの中立性が……」
現在の状況で表立って水月に肩入れすることは閻魔の法に反する行為。しかし暗鬼は止まらなかった。
「これは、閻魔王へ中立性を問う行動だ。もし閻魔王が私欲のためにこんなふざけた指示を出したのだとすれば、ワシが五芒星として裁こう」
暗鬼の背中から黒い靄が発生したかと思うと、水月と霧華の視界から姿を消した。
☆☆☆
暗鬼は宮殿へ戻ると、慌ただしく働く鬼の一人を捕まえ、時希の所在を質問した。しかし返ってくるのは「我々も時希様の所在が分からないのです」という曖昧な言葉だけだった。
時希がいると思わしき場所を全て回り終え、最後に辿り着いたのが旧閻魔王の部屋だった。今は誰も近づかない領域と化した部屋の扉を叩く。
「時希いるか? 暗鬼だ! いるなら返事をしてくれ、いくつか質問をしたい!」
しかし、返事はない。暗鬼は扉に手を当てると精神を集中させる。部屋の中に生命力が二つ感知出来る。一方は静止しているが、もう一方は動いている。つまり、中に誰かがいるのは確実なのだ。
「おい、お前の気は感知している! 出てこい!」
それでも誰も出てこない。痺れを切らした暗鬼は、扉を思い切り殴りつけ、黒い靄を使って鍵を破壊し強制開錠する。開け放たれた旧閻魔王の部屋の玉座から、こちらを睨みつける閻魔時希と目が合った。
暗鬼と時希の間には絹の布が被された何かがあった。
「────入室には、私の許可を取れと言っていたはずですがね、暗鬼さん?」
「まだワシは部屋へ踏み入れておらん、それに扉を壊してはいけないという規則はなかったはずだ」
玉座から時希が立ち上がった。時希の羽織るマントが風もなくなびき始める。
「では、何用でこちらへ?」
「閻魔王に謁見したい。理由は────
閻魔薙────その言葉を発した瞬間、暗鬼の眼前へ時希は瞬間移動してきた。両手を合わせることなく、それも音もなく一瞬での移動だった。ただ後ろの絹の布が揺れているばかりである。
それは一瞬だった。めくれ上がる布の隙間から見えたのは、かつての見慣れた少女。
かつて鵺と呼ばれた人間の魂がそこにはあった。
「ぬ、鵺────!? どうして!?」
暗鬼の首元へ時希は掴みかかる。
「閻魔薙は、神の逃走幇助の罪で、裁かれ消えたッ! 奴はもうこの世界に存在しないッ!」
珍しく声を荒げる時希に暗鬼は驚きつつも、自身の発言を弱める気はなかった。
「現世で目撃情報があった……それに、ほんの少し前にも閻魔界でな……それよりも、なぜ鵺がここに!?」
少し前に閻魔界へ侵入した謎の存在────それが閻魔薙だという噂が流れていた。五芒星は信じていなかったが、今となっては真実なのだと時希の反応を見て確信する。
暗鬼の足元から黒い靄が噴出した。目の前にいるのが閻魔王の代理人だったとしても一歩たりとも引かないという彼なりの意思表示だった。
「お前、どこで誰にそれを聞いたんだ?」
「答える気はないのか……五芒星として、閻魔時希、お前の中立性を確かめさせてもらう」
暗鬼の力、深淵の力が時希を襲う。
☆☆☆
暗鬼の操る靄を時希は倶利伽羅を使い切り裂いた。靄と倶利伽羅の衝突は何度も続く。衝撃で火花が散る。
それでも暗鬼の方が優勢であった。じりじりと部屋の中へ押しやられる時希は、背後の鵺を庇いながら必死に暗鬼の猛攻に耐える。
「裁判外で倶利伽羅を抜けるのか……やはり中立性を捨てたか」
「勘違いしないでいただきたいッ! 閻魔の中立性は、閻魔王は適用外……私の罪にはなり得ないッ!!!」
靄が倶利伽羅に絡みついた。そして釣り竿のように上にしなったと思うと時希の手から倶利伽羅を空中に弾き飛ばす。はるか後方、閻魔王の玉座付近に落下した倶利伽羅は音を立てて横たわった。
「閻魔薙について真実を語れッ!!!」
黒い靄は、蛇のようにうねりながら時希の身体へ巻きついていく。ただ巻きついているのではない。靄が時希の気力を奪い続ける。これは暗鬼が深淵から習得した技術だ。深淵────闇の持つ恐怖の念はいかなる生物にも刻まれている原初の感情を呼び起こす。
”蛇に睨まれた蛙”という言葉があるが、まさしくその現象だ。恐怖が思考を、力を奪う。中立性を持ち合わせた閻魔相手にならさほど脅威にならないかもしれない能力だが、逆に言えば中立性のない相手には効果は絶大である。
その証拠に、閻魔王代理の男は靄に対してもがき苦しんでいる。
「閻魔……薙は、存在しないッ────
神をも捕らえる完成された術が全能術であるならば、それに遠く及ばない術を何と呼べば良いのだろうか。十全ではないのだから、不全と呼ぶしかない。
時希は指を鳴らした。同時に彼に巻き付く靄は霧散し、時希は暗鬼の側面へ瞬間移動する。それでも靄の影響はあったようで、表情に焦りと陰りが見えた。
「あの裏切者は存在してはならないッ!? 鵺を……私を裏切った閻魔なんて、消えるべきだと思わないかッ!!!」
朦朧とする時希の意識が、彼の本音を引き出した。時希の背中に時計の文字盤が出現する。ギリシャ数字の文字盤上で、長針がガタンと時を逆方向へ刻んだ。
「────
不全術は、閻魔聖が行った全能術を分ける行程とは真逆の術。彼は、全能術を生み出すために生まれた不完全な術をそう呼んだのだ。
時間が巻き戻るように暗鬼の靄は彼へと還っていく。暗鬼は必死に靄を飛ばそうとするが叶わない。靄は彼の意思に反して動き続けている。
「時間の能力……これが
先程の瞬間移動に見えたのも、実際は移動速度を加速させた高速移動の類なのだ。暗鬼はそう理解した。霧散した靄は、高速移動の余波によるもの。
「お見せするのは初めてではないですよ────でも、それも関係ない」
────貴方は全てを忘れるのだから。
時希はそう言っているようだった。
逆回転を続ける文字盤の力によって暗鬼の記憶が消えていく。まるでフィルムを巻き取るように。すべてが白紙に戻っていく。
「ふ、ざけるなぁあああああああ!!!!!」
全ての靄が暗鬼へ戻った。それは、時間遡行が完了した証拠だった。
☆☆☆
文字盤の針が再び逆回転すると、破壊された部屋の扉がめきめきと修復された。修復が終了したと同時に文字盤も姿を消す。そして時希は暗鬼の正面へと向き直った。
「暗鬼さん?」
時希の問いかけに、呆然と立ちつくしていた暗鬼が反応した。まるで目覚めたばかりのように立ち尽くしている彼に時希は言った。
「外回りは終わりましたか?」
「────あ、あぁ……さっきまでやっていたが、ワシはどうして」
なぜ旧閻魔王の部屋の前にいるのかが分かっていない。
「確か、鬼達が騒いでいたような……」
「鬼達が? 何か言っていましたか?」
暗鬼は口髭に手を添える。彼は何かを考える時、必ずそうする。手に違和感があった。口髭に深淵の靄がほんの少し付着している。靄から感じる恐怖心が、今すぐここを離れろと警告する。
「────いや、分からない……ワシは報告書を書きに戻ろう」
「えぇ、そうしてください」
反転し出口へ歩みを進める暗鬼に、背後から時希の声がした。
「あぁそうだ、もし宜しければ追加で業務をお願いします」
ドサッと足元へ投げ渡される資料の山。処理するのに相当な時間がかかるだろう。時希は、暗鬼を作業場から出す気がないのだろう。
「お願いします、ね?」
旧閻魔王の部屋の扉がバタンと閉じられた。
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