第32話~十全たる激流の法則
最初に感じたのは、浮遊感だった。急激に落下した時に感じる身体が浮く感覚が私を支配した。これが、”昇る”というものなのだろう。肉体を失い、妖怪としての力すら失い、無垢な魂となった私が今立っているのは、現世と異なる次元────閻魔界なのだ。
「裁判なんて、いつぶりかしらッ! 私はね! ずっと待っていたのよ!」
そして今、私は水の糸で拘束され、天井から吊るされている。目の前に立っているのは裁判官を名乗る少女────
ここは彼女の担当する裁判所なのだろう。しかし、この場に彼女以外の姿はない。検察官も弁護士もいない。ただ裁判官として閻魔がいるだけだ。
「さぁさぁ! 私の前で全ての罪を曝け出すがいいわ! 裁判開始ぃ!」
彼女と私の前に浮かぶ鬼籍に私の名前が表示された。
そうだ────私の名前は、白でも御白様でもない。
本当の名前は────冬寺霧華だ。
☆☆☆
時間は、ほんの少し遡る。閻魔界の麓に存在する大河の対岸には、人だかりが出来ていた。そのほとんどが、地上から浮上してきた人間の魂だ。全員が生前の服装をしており、岸辺で船を待っている。本来ならば、渡し船が来るはずなのだ。
人間の魂に刻まれた生前の情報が人々に告げているのだ。
────老婆に衣を脱がされる事を。
「ここにいる者たちに告げるッ! 全員整列せよッ!」
背後から号令がかけられた。人々が振り向くと、彼らが登ってきた穴を警備していた鬼が数人近づいてきていた。
誰かが言った。「渡しの舟は来ないのか?」と。
「現在、奪衣を担当する者が不在なのだッ! 閻魔王の意向により案内人は閻魔や死神から我々へ業務が委託されているッ!」
そう言い終わると、鬼達が整列を促し、人々は従わざるを得なかった。
ただ一人を除いて……
「嫌だッ! 私はまだ死ねないの!? 子供がいるのよッ!?」
一人の中年女性が大声を出した。その様子に鬼たちが小声で何かを話し合っている。
「奪衣しないとこうもうるさいのか……」
肌の赤い鬼が一歩こちらに歩いてきた。そして、どこからともなく現れた身の丈ほどの大太刀が出現し、中年女性を一刀両断した。左右に別れた身体が煙のように消えていくのを全員が眺めているしかなかった。
「────命令に従わない魂は滅却して良いと、閻魔王は申しておる」
「えぇ、間違いありません。閻魔王代理の発言は閻魔王と同等の権限を持ちます……」
赤い鬼の発言を背後の緑の鬼が肯定した。緑の鬼が言いかけている最中に、我々は絶叫を上げた。遅れて込み上げる恐怖の感情を、誰も抑えられないのだ。
「そういうことだ、お前ら、今の行動へ連帯責任を取ってもらおうか」
────殺される……誰もがそう思ったに違いない。
「三度目の死なんて、聞いていないわ」
人として死に、怪異として死に、果ては輪廻転生の機会すら奪われる。そんな理不尽があって良いわけがない。
私は、無意識に両手を鬼に向けて伸ばしていた。怪異だった頃の名残……糸を伸ばし、この場にいる人の魂達を無意識に守ろうとしていた。
でも糸は伸びなかった。既に私の魂は、元の人間に戻されているのだ。これが閻魔の断罪の力。魂から、罪と共に余計な
「ほう、そこのお前、何をしようとした?」
赤い鬼が私に気が付いた。
「そうか、お前は元悪霊の類だな? よくいるのだ、そうやって現世と同様に力を行使しようとする奴らがな」
ずんずんと、赤い鬼が私の前にやってきた。そして言葉を続けた。
「時希様が教えてくださった通りだ……まったく、愚かだよお前らは」
「なにが愚かよ……私たちがどんな人生を送って来たかも理解しないで、勝手なことを言わないでッ!!!」
思わず反論してしまう。その言葉に、赤い鬼の眉間が動いた。
「消えたいようだな……ならば望み通り滅却されるが良いッ!!!」
再び大太刀が振るわれた。剣先が、どんどん視界に迫ってくる。
────あぁ、ごめん、薙君。せっかく助けてくれたのに、こんな形で終わる私を許して。
☆☆☆
「────なるほど、そういう事情だったのね……通りで私たちに裁判が回ってこないわけだわ」
突如、大河に水柱が立った。その高さは人間三人分の身長を優に超えている。大河から飛び出したと思われる人影は、空中で身をひねらせ、私と赤い鬼の間に割って入った。
青と白を基調とした色の道服、首から垂れる円鏡が、目の前の彼女を閻魔だと理解させた。
青い糸が大太刀の刃に絡みつき、赤い鬼の攻撃を止めた。
「なッ────み、水月様!?」
「職権乱用の罪で、地獄へ落ちなさいッ!!!」
水月と呼ばれた彼女の肩付近に鬼籍が出現し、赤い鬼の罪状を自動書記する。大太刀を支えていた青い糸が弾けると共に大太刀が真っ二つに折れ、同時に赤い鬼の身体が宙に弾き飛ばされ、地面へ衝突し動かなくなった。
「水月様……我々はただ、閻魔王の命令に従って動いていただけです……」
ガタガタと震えながら緑の鬼が何とか言葉を発した。
「ならどうして、私たちに裁判が回ってこないの? どうして、人間の魂が閻魔界に昇って来ないの? 貴方達が憂さ晴らしのために難癖つけて滅却しているからじゃないの?」
宙に浮く鬼籍を指差しながら水月は緑の鬼に詰め寄った。
「それは────」
「安心しなさい、もう手配しているから」
水月がパチンッと指を鳴らすと黒い袴姿の男性が三人出現した。
「五芒星として命じます……睦月さんは鬼達を連行、如月さんはここの魂を閻魔界へ案内、弥生さんは暗鬼さんに本件を伝えて」
三人は、「承知いたしました」と言い残し、指示通りに動き始めた。如月と呼ばれた男性が私に近づいたその時、
「あっ、この娘は大丈夫よ如月さん」
その言葉を最後に、私の視界は宙を舞った。
☆☆☆
「────助けてくれたんじゃないの?」
両手を拘束する糸を切ろうともがきながら、私は目の前で鬼籍を開く閻魔を睨んだ。
「助けたじゃない? あのままだったら貴女、消えてたわよ?」
水月はさらに続けた。
「それに、元々は裁判が出来そうな魂を探していた途中だったし」
「はぁ!? 裁判が出来たら誰でも良かったっていうの!?」
「仕方がないでしょ! ここ最近、五芒星に裁判が回ってこないんだもの! 与えられた職務を奪われている苦しみが分からないのかしら!?」
水月が取り乱した。先ほどの凛々しい彼女と打って変わってヒステリックだ。これが彼女の本来の性格なのかと少し恐怖を感じる。
「閻魔の役割ってやつ────むぐっ!?」
恐る恐る質問してみる。しかし────指を鳴らす音と共に私の口が水の膜で塞がれた。
「はいはーい、罪人ちゃん、そろそろ私語は謹んでねー」
またしても彼女のキャラが変わった。今は何にでも楽観的な少女にしか見えない。
「へぇ~冬寺霧華ちゃんって言うのね、可愛い名前ね────!?」
水月が息を飲むのが分かった。それは、鬼籍が私の罪状を一向に表示しないため、頁を手動でめくった時の出来事だった。
☆☆☆
鬼籍の書面には、罪状が表示されていなかった。それはなぜか? 答えは単純だった。
冬寺霧華は、既に裁判を終えている。その魂が抱えていた罪の数々は、既に計上され行くべき地獄の階層すら確定しているのだ。
「た、担当の裁判官は……閻魔……薙!? ありえないッ!?」
バンッ! と鬼籍が床に叩きつけられ、同時に霧華の手を縛っていた糸も切れた。口を塞いでいた水の膜も消える。
「閻魔薙はもういない! 貴女、現世で一体何を……」
水月の首にかけられた浄瑠璃鏡が輝き始める。冬寺霧華という人間が、筆舌に尽くしがたい恨みから悪霊へと変化し、時間と共に信仰を集め、”おしらさま”と呼ばれる妖怪へ昇華した過去が水月へと流れ込む。
そして彼女の最後の瞬間に映し出されたのが、かつての同僚。閻魔薙の姿だった。偽りの少年の姿から閻魔へ変化し、彼女を冬寺霧華へ戻した姿は、罪人にはまるで見えなかった。
罪人の逃走幇助────それこそが閻魔薙の罪だったはずだ。しかし、記憶の中の会話から災厄の神を信仰している素振りは感じ取れない。それどころか、災厄の神と同じ自由意志に目覚め始めている事実に戸惑っている。
「時希……私達に何を隠しているの?」
☆☆☆
水月が困惑し固まっていると、部屋の扉を破壊して警備服姿の鬼達がなだれ込んできた。その先頭にいたのは、またしても見慣れた同僚……赤色の逆立った短髪の男……
「閻魔水月、公務執行妨害の罪で君を逮捕する」
「公務……? あの暴挙が公務ですって?」
「閻魔王の指示は、我々すべての閻魔にとって絶対の規則だろ!!!」
動揺した水月に琰器は声を荒げた。
「既に
「待ってよ!? 死神達は指示に従っただけよ!? 何も悪くないわ!?」
「指示した者が罪人なら、彼らもまた罪人なり!!!」
琰器の目がギラリと光り、右手を上げると、鬼達が一斉に水月達へと走り出す。それを見て、霧華は急いで水月へと駆け寄った。霧華の予想通り、水月は糸を繰り出して鬼を拘束し始める。だが鬼達の士気が下がることはなかった。それどころか糸を引きちぎるほどの力を発揮してこちらへ近づいてくる。
水月は両側の壁に糸を繋ぎ、糸を編んで網に変化させた。網が障壁となって鬼達の進行を一時的に防ぐ事には成功したものの、こちらの背後は壁。退路はなかった。
「興奮を下げないと……」
「なら俱利伽羅を使って!!!」
水月の言葉に、霧華は閻魔薙の俱利伽羅の力を思い出した。罪を洗い流す特殊な刃は、悪霊すらただの魂へと還元し冷静さを取り戻させる。その力なら暴れ狂う鬼達を鎮静させる事も可能だろうと考えた。
「裁判以外で抜刀は出来ない決まりなのよ!?」
水月は自身の帯刀する俱利伽羅の柄を霧華に突き出し、「抜いてみなさいよ!?」とヒステリックに叫んだ。霧華が柄を握って引っ張るもビクともしない。
水月の視界の端に琰器が映った。彼は、水月の糸へ向けて指を鳴らしていた。パチンという音に合わせて火花が散ると、青い糸は烈火に包まれた。琰器は、燃焼反応とエネルギーの関係を学習した閻魔だ。発火のメカニズムは彼の手の中にある。きっと彼なら、怒りの炎すら増加させられるのだろう。
糸が焼き切れると、鬼達は再び水月達へ手を伸ばし始める。
その光景に、水月の思考は停止した。
「薙君を思い出して!?」
冬寺霧華の絶叫が水月を動かした。彼女の記憶の中で、閻魔薙は最低限の裁判の体裁を整え倶利伽羅を使用していた。ならば、彼を真似れば裁判以外でも道具の使用が可能になる。
「出来なかったら恨むわよ────簡易裁判を始めます!!!」
腰の鞘から倶利伽羅を押さえつける力が消えたのを確認すると、水月は抜刀し襲い掛かる鬼達向けて斬撃を放った。鬼の気力を正常に戻し、静止した鬼を壁に突撃の勢いを殺していく。
「────抜けた! こんな抜け道があるなんて」
「驚いていないで早く何とかして!?」
それでもじりじりと壁へ追いやられている事実は変わらない。
「諦めろ水月! もう逃げ場はない! 閻魔王の元で罪を認めるんだ!」
「閻魔王、閻魔王って……王は長い間、姿すら見せていないでしょッ!!!」
水月の顔面を鬼の拳が捉えた。霧華も共に壁に激突し、その衝撃で壁にヒビが入る。
「……うん? 水月、お前まさか」
この光景を異常だと感じていたのは琰器だけだった。水月は水を纏って高速移動できる。それを使わず、興奮状態の鬼の一撃を真面に受けた理由は、一つしか考えられない。
倒れる水月と霧華を鬼達が次々に囲んでいく。群衆の中から水月の声がした。
「────私は命の危機を感じている、よってこれより報復に入る」
正当防衛という大義名分を盾に繰り出されたのは、全能術だった。
「────”
彼女を中心に、巨大な渦が発生した。力強く同一方向へ流れる水が、建物を倒壊させる。飲み込まれた鬼達や琰器は、あまりの激流に身動きが取れない。
「同族に全能術を撃つ馬鹿がどこにいるんだッ! 水月ッ!!!」
渦の中心に向かって叫ぶ琰器だったが、既に水月達の姿はなかった。彼女達は、倒壊した建物のはるか上空へ逃げ去っていたのだから。
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