間話〜ゼロケルビンの世界

 夜の海岸を歩く人影があった。白のセーラー服姿の少女は、潮風に髪を靡かせながら、ただひたすら、波打ち際をまっすぐ歩いていた。彼女の名は、冬華フユカ。十年前まで、影の住人達として活動していた雪女だった。


 親友の鵺を失った彼女は、元いた土地へ帰るために、鵺と過ごした山を去り、人里まで降りてきたのだった。


 砂を踏みしめる音が重なった。彼女は、ピタッとその場で静止する。それでも音は止まらない。波の音に混じって、背後からコチラに近づいてきている。


 足音が、止まった。


「────人里に降りてきて、何をしているのかしら? 雪女さん?」


 代わりに声が聞こえる。フユカは振り返らずに声を聞いている。


「どうぞ、私を食べてくださいと言っているようなものよ?」


 こちらを馬鹿にしたように、演技したような口ぶりの声に、フユカの目がピクッと痙攣した。その手はギュッと握られ、小刻みに震えている。


 怒りではなく、恐怖によって震えていた。


「────死神が何の用?」


 振り向かず、返事だけをした。振り向く勇気がなかった。


 フユカの脳裏に、山中で対峙した死神の姿が浮かんだ。大鎌を携え、地面から生える無数の手を操作する死神に、フユカは様々な点で優っていた。地の利は彼女にあったのだ。


 それでも負けたのは────


 ☆☆☆


 着物姿に桃色のショートボブの髪型の少女は、胸の前で両手を組み蝶を形作った。それを合図に、砂浜から無数の黒い手が生え、フユカの身体に撫でるようにまとわりついた。


「災厄の神が地上に降り立ったわ。神は、取り込んだ魂の情報コードを我が物に出来る。────貴女が神に取り込まれれば、気象の力は神のものになってしまう」


「だから……その前に、私を消そうっての?」


「鵺と共に閻魔界へ昇らなかったのが悪いのよ」


「なぜ、死神がツグミの事を知っているの?」


 閻魔薙によって鵺が浄化された事実は、あの場にいた三人だけが知りうる事だった。それを死神が知っているのはおかしいと、フユカが思うのは不思議なことではなかった。


「────それは、取るに足らない与太話よ」


 胸の前の手をギュッと締めると、フユカの身体にまとわりついた手も同じく締め付ける。フユカの口から嗚咽が漏れた。ミシミシと全身を締める音は生々しく響いている。


 完全に固定されたフユカは、必死に首だけでも声の方向に向けようとした。


「なぜ、今になって……私ごとき、神のお眼鏡に叶うとは、思えないけど」


「影の住人達の元メンバーってだけで充分……という訳ではないけど。貴女の力は、世界記憶に介入出来る可能性があるのよ」


「世界……記憶?」


 世界記憶とは何か。そして、気象の操作が世界記憶と何の関係があるのか。フユカの頭は疑問で埋め尽くされた。


「ゼロケルビンの世界……絶対零度は、世界記憶に時間停止と認識される可能性がある」


「絶対零度でも、原子の運動は止まらない……わよ?」


「もし、原子すら存在しない空間があったら?」


 想定外の返答が来た。そんな空間が存在するなんて、あり得ない。あるとすれば、虚無という言葉が妥当だろう。


「それに、人の意識は、時間停止と絶対零度を見分けられない。そうなる以上、世界記憶も時間停止と誤認する可能性はゼロじゃない。世界記憶に蓄積された情報は、この世界の生命体が持って帰った遺産なのだから」


「だから何だってのよッ!? 何の関係が……あるって────!?」


 フユカの口を影の手が塞いだ。ゆっくりと、こちらに近づいてくる彼女の顔が、フユカの顔の正面に突き出てきた。


「気象の力は、私がもらう・・・・・


 次の瞬間、フユカは腹部に衝撃を受けた。繰り出される突きが、鳩尾を貫通していた。傷口からは、砕けた氷の欠片が散っていた。


熱力学エネルギーがゼロの状態を、私は煉獄の炎で作ろうとした。光の速度を超えようとした。虚無を作り出そうとした。────全ては、時間停止による世界記憶への介入が目的」


 時間とは、一方向に流れ続ける大河のようなもの。その流れを停止させれば、世界記憶に介入する隙を作れる。


「世界記憶に何の準備もなく近づけば、魂は、元の情報へ還元されてしまう。ゼロケルビンの世界は、時間の神に見放された私にとって、すがりたい藁なのよ」


 フユカの腹部から、拳が引き抜かれると、傷口から読めない文字が記された青白い紐が出現する。


「なッ……なによ……これ……」


「魂の情報コード……それが視覚化したものよ。貴女の魂には、この世界の自然界の情報が記されている。だからこそ、気象を操作できていた」


 妖怪と呼ばれる存在が、この世界の事象を操れるのは、その情報を魂に格納しているから。フユカに記された情報は、長い年月をかけて人々が思い描いた雪女のイメージが蓄積した代物。まさに集合意識の結晶とも言える情報だった。


「でも起源オリジンじゃないわね。貴女は、元々は一介の人間に過ぎなかった。その昔、貴女に雪女の役割レッテルを与えた人々が居たんでしょうね」


 文字の紐は、スルスルとフユカの腹部から彼女の右腕に移り、右腕全体に巻き付いていく。フユカは、両手に氷柱を発生させて抵抗しようとするものの、文字の紐が抜けていくと共に氷柱が維持できなくなっていき、最後には砕け散った。


起源オリジン!? そ、そんな……雪女は……私だけ」


「いいえ。情報コードは後天的に与えることが可能。だからハヤトは好きに怪異を生み出せた。先天的な情報コード────それこそ言霊なんて、観測出来たのは一人だけ……貴女はとは違う」


 人の魂に、元から記載されている情報の中に、事象を操る力が存在している場合もある。それは、魂を構成する情報の中に格納されている。魂は、情報の器として機能している以上、格納された情報が露呈することはない。


 それこそ、魂が崩壊しない限り、表面に出てくることなんてありえない。


「悪霊化した人間が、怪異な力を持つのは、これが原因よ?」


「なんで、魂の中にそんなものがあるのよ……!?」


 フユカは、身体を抑えつける黒い手の隙間から、両手を伸ばして文字の紐が巻き付いた彼女の腕を掴んだ。掴んだ部分の文字の紐が霧散する。


「────魂が、世界記憶の一部だからよ。この世界の規範たる世界記憶の欠片こそ、魂の正体。規範の一部なんだから、ランダムに情報が込められている」


 フユカの表情が強張った。この世界の規範。全ての法則を決めているのが世界記憶なんだと、理解したと同時に、魂がその一部という事実を飲み込めない。


 この会話は、数分間の出来事だ。それが、まるで何時間にも感じられた。


 フユカの片目からはタトゥーが消え、全身に電流が発生し始めた。現世の理だ。もう、自身が妖怪でもなく、ただの魂に戻っているのだと察するのに時間は掛からなかった。


 しかし────それが逆に、フユカに疑問を植え付けた。


 目の前の死神は、どうして……


「死神……どうして、貴女に現世の理は発生しないの?」


「知らなくていいことよ」


 その声を最後に、フユカの視界は空中に放り投げられた。見えたのは、首のない自身の胴体と、文字の紐を引き抜き終わった死神の姿だった。


 ☆☆☆


 右腕に巻き付いた文字の紐は、腕を完全に覆い尽くし、青白い光を発しながら腕の中に取り込まれていった。


「付け焼き刃の知識……あくまで保険」


 死神の暦は、そう自身に言い聞かせた。


 保険が無いよりはマシだ、と。強く右の拳を硬く握りしめた。


「────から座礁ざしょうは、私が止める」


 地平線の先に視線を向けた彼女は、そう言い残し、この場から消えた。

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