第12話〜初めての感情

 森之宮神社の一室。僕は、敷かれた座布団に胡座をかいて目の前に並ぶ数多の鈴や鐘を吟味している。そのどれもが、かつて連盟に所属していた高徳な僧侶の手で作られ、そして清められた神聖な物。


 周芳に頼み込んで集めてもらったこれらは”霊具”と呼ばれる霊能者の使用する道具。僕は金剛鈴を生み出すため、手に持っている金剛杵をかざしては離す作業を早朝から続けていた。


 金剛杵に反応しないと分かると、一つ一つを丁寧に両手で包み込み、閻魔状態で力を込めてみる。しかし、そのどれもが金剛鈴に変化することはなかった。


 夕暮れに差し掛かった頃、僕は、少年状態と閻魔状態を繰り返すのに疲れ、金剛杵を苛立ちから畳に投げ捨てた。思考の洪水が、僕の脳内で暴れ回っている。


 金剛鈴を生み出せない焦り、周芳の申し出を断った過去の自分への怒り、後悔がうまく処理出来ていない。


 なぜ、金剛鈴は生み出せない?


 不動明王の剣はこんなにも簡単に、僕の予想通りに生成できたのに、鈴一つ手に入れるのに何をやっているんだ僕は?


 一体、何が足りないというんだ?


 自戒する心の叫びは何度もやって来る。頭を振っても、目を閉じても、耳を塞いでも、何度も何度も、僕の心の核を貫いてくる。


 肉体は無いのに、体は重く苦しく、行動する気力も次第に奪われてしまう。


「おい閻魔さん? タバコでも吸うか?」


 ちょうど廊下を渡ってきたアメリアが修道服のポケットから赤い箱をこちらに差し出した。彼女は、足下に転がった金剛杵を拾い上げ、それも僕に手渡してくれた。


「……ありがとうございます」


 金剛杵だけを受けとると、深呼吸をして自身を落ち着かせる。ここまで感情が暴走したことなんて、今まであっただろうか。


「なんだ、吸わないのか……」


 シスターアメリアは寂しそうに一人でタバコを咥え、窓を開けて火をつけた。プカプカと浮かぶ変幻自在の煙を、ただ意味もなく僕は見つめた。


「まぁ悠長にしていられないって焦りは、俺も分かるけど……根を詰めすぎるのも良くないぜ?」


「わかっています……頭ではわかっているんです……でも」


 僕は、自分の失った力を取り戻すため。そして、地上へ逃げた神を捕らえるために現世へ降りた。でも、燐瞳の心情を、鏡を通して彼女の心を感じた瞬間、僕は本来の目的を放棄した。頭ではなく、心で行動していた。


 金剛鈴を別の方法で手に入れると、自分で決めてしまったのだ。


「そんなに悩むなら、閻魔薙って同名の刀を受け取れば良かったのに……暦って女もそう言ってたぞ」


 アメリアの言葉に、僕は金剛杵を再び叩きつけた。ギョッとした表情で身を振るわせる彼女へ、僕はなるべく冷静に言葉を選んで発言する。


「彼女は、燐瞳さんは、お兄さんの形見を失うのを、よりも恐れている……彼女を支えているのは、亡き兄の存在……僕は、彼女の生きる希望を奪えないッ!」


 感情が高ぶり、気がつけば涙を流していた。身に収まりきらない感情が涙となって体外に漏れ出す現象を初めて体験した。涙とは、心に貯まる感情の限界を知らせているのだと、身をもって知ることとなった。


 深く吸った息を、煙と共に吐き出したシスターは、「アンタ……優しすぎるよ」と言い残し、携帯灰皿にタバコを押し付け部屋から出ていった。


 優しさ?


 違う……僕は恐れたのだ……燐瞳が僕を恨むのを。


 閻魔は裁判官だ。人間の魂を裁けば、その相手から恨まれる。時には裁判中に暴言を吐かれることもあった。でも、僕はそれらを気にすることはなかった。


 あくまで僕は、閻魔界の法律に則って行動していただけだった。そこに自我は存在しなかった。


 一介の閻魔は、五芒星だとしても自我を持ってはいけないのだ。


 中立な立場を貫くのに、個人の思想は邪魔なだけだ。


 それなのに、なぜ、今の僕は……燐瞳に恨まれるのを怖がっているんだ。


 暦と合流するまでに感じた焦りと不安。そんな情動なんて、今と比べものにならない。


 これが、人間に備わった感情なら、僕はそんなものを知りたくはなかった。思考を奪い、行動する気力すら奪うほどの重圧は、余計でしかないのだから。


 彼女と長く過ごすうちに……彼女の弱みを知るうちに……頭の片隅に彼女が棲みついたみたいだ。


 ☆☆☆


「どうだった……?」


 別室で湯呑みにお茶を汲む暦。湯呑みを同席している周芳と桜の前に並べながら、戻ってきたアメリアに薙の様子を確認する。机の前に置かれたソファにそれぞれ対面する形で座る周芳と桜は、暦に礼を言った。


「だいぶ追い詰められてたよ……閻魔ってのはあんなに感情豊かなのか?」


 アメリアは見たままの薙の状態について詳細に話した。それを聞いた周芳が申し訳なさそうに項垂れている。


「閻魔にも色々な人がいるわ……でも、薙様がここまで他人を想うなんて、今までなかったわよ……それこそ、ぬえの時だって」


 五芒星時代、薙には友人と呼べる者が存在した。彼女の名は”ぬえ”。元は人間の魂だったが、地獄の清掃係を任され、後に最高神の天帝の補佐官を命じられた少女の魂。


 彼女は、人間の魂の昇進に不満を持っていた他の閻魔の恨みを買い、濡れ衣を着せられ、閻魔界を追われた。それを知った薙は悲しんではいたものの、今回ほど取り乱してはいなかった。


 むしろ、これも一つの結末と、私情に区切りをつけていた。裁判官だった頃の薙はそういう男だったのだ。


「あの鵺と薙くんが友達だって!?」


 周芳は声を荒げた。連盟は鵺に相当手を焼いていたのもあるし、周芳の兄弟子だった源因幡は鵺が原因で命を落としている。反応しない方がおかしい。


「その鵺と同一人物かはわかりませんが……やっぱり、衣が魂に影響を与えているのかも」


「そんなに、衣って影響力があるの? 私たちは衣の存在を貴女たちが来るまで知らなかったから、知見がないのよ」


 お茶をひと啜りした桜は、衣という未知の物質に興味があるようだ。


「……正直言えば、私たちも衣の詳細は知らないんです」


 衣を纏えば、現世で魂を保護できる。これは、暦の仮説なのだ。仮説は本件で実証されたわけだが、他人の魂を数十年包んでいた衣を着る行為が如何なる弊害を生むかまでは考えていなかった。


 しかし、暦にも思い当たる節はある。まるで、誰かが心を動かす感覚。そうでなければ、暦は高松屋敷で号泣などしなかっただろう。


 人間の魂を包み込む衣……それを肉体が内包している。この三重構造は、衣が肉体と魂の間で何かのやり取りをしている可能性を充分に秘めている。


「分かっているのは、衣さえ纏えば、現世の理から魂を保護出来る……傷ついた魂も、衣によって修復される……この二つだけです」


「それにしては、暦さんはまだ冷静ですよね?」


 桜の言葉に、暦は「私は薙様一筋だから……」と返すと、その場の全員が妙に納得した。


「ちなみに暦? 金剛鈴ってのが戻らないと閻魔はどうなる?」


「仮説ですが……薙様の存在は、”鬼籍”がある以上は維持されると思います」


 唯一、初めから持っていた鬼籍。これが和睦から抜け落ちた力。もし、薙の復活が本来の力を取り戻したことに起因するとすれば、鬼籍以外は飾りに過ぎない。


 これは、薙という存在の不安定さも表していた。いくら鏡や剣、天秤、鈴を揃えようとも、元々持っていた力ではない以上、存在を安定させる要素になるのか、それが暦にとっての不安要素だった。


 薙自身は大丈夫だと言っているが、発言を保証するだけの根拠はない。


 もし、鬼籍が燃えて無くなってしまったら、どうなるのか。


 世界は、再び薙に”無能”の烙印を与え、存在が消えてしまうのだろうか。


 それとも、他の借り物によって命を繋げるのだろうか。


「唯一の救いは……ここが閻魔界じゃなくて現世だということ」


 閻魔界で現世の理が適応されないように、現世では役割を失っても閻魔界のように消えてなくなりはしないはずなのだ。


「それでも、鈴がないと閻魔界には帰れないわけか……」


 薙の目的は、力の回収と神の捕縛。完全な状態で自身の無罪を証明すること。アメリアはため息をついてソファに勢いよく座り込んだ。衝撃で隣の桜が跳ねた。


 全員が黙り、部屋に静寂が訪れた。静寂を破ったのは、周芳のスマートフォンの着信だった。


「すまん、電話だ」


 電話の主を見て、慌てた様子の周芳が部屋を後にした。


 ☆☆☆


「もしもし……遅いぞ蓮華!」


〈すまない森之宮さん……こっちも立て込んでいたんだ〉


 閻魔薙が飾られる神社の本堂の暗闇の中で周芳は電話に出た。相手は、蓮華だった。彼は、会合で薙が気を失った後に一度姿を現して以来、再び音信不通となっていた。


「今どこにいるんだ? 出来ればお前にも神社か高松屋敷に居て欲しいんだが」


〈結局、連盟の人間に俺の存在はバレたわけだし、もう隠す気もないんだけどさ〉


 蓮華は今、淡海神道連盟の瀬田と共に移動中だと述べた。


「瀬田さんと? 一体どうして?」


〈どうしてって……この間のダムの閃光と動画サイトの件で問い合わせが酷いんだよ〉


 暦とアメリアが対峙した煉獄の炎を操る少女の一件。ハヤトが関わっていた事件が一般人に目撃されたことで、各自治体や警察から連盟に問い合わせが殺到しているのは周芳も知っていた。しかし、それらの対応は瀬田に一任していた。


〈お上は、責任者の説明を待っている……まだ親父の名は使えるからな……がやらないから俺が代わりに挨拶回りしてるんだよ〉


「あぁ……その件かぁ……申し訳ないです……はい」


 連盟幹部だった源因幡の息子という威光を、また使うことになるなんてと愚痴をこぼす蓮華に周芳は頭が上がらなかった。


 連盟トップの淡海琵琶が失踪し、幹部は森之宮周芳だけの状況では、本来なら周芳が説明に出向くのが礼儀。その責任を薙たちのために放棄してしまった以上、代わりを務めている蓮華へこれ以上の追及は出来ない。


「お前は単独で動きまくるから、てっきり……」


〈まぁいいよ、既に教団の信者にハヤトの情報収集をさせている……〉


 蓮華は、来日以降、自身が教祖を務める宗教団体の拠点を回り、信者たちに情報収集を頼み込んでいた。それが原因で合流が遅れたわけだが、桜の霊視を掻い潜るハヤトたちを探すには、古典的な目撃情報に頼るしかないと考えたためだ。


 最も、暦の持つ羅針盤の存在と、アメリアの生命力の感知能力を彼は知らないわけではないのだが。


〈それより、”閻魔薙”の継承の件は? まだあの閻魔は渋ってるのか?〉


「あぁ……燐瞳を想って薙くんは辞退したままだ」


 自身が継承者だった頃が懐かしいと、周芳は台座に鎮座する閻魔薙を手に持つ。柄を握り、引き抜こうと力を入れるもビクともしない。


〈閻魔薙が眠りについて十年……燐瞳も春人を忘れられないのか〉


「そりゃあ……私も随分と引きずったからな」


 自分の息子のように思っていた弟子の死を、簡単に受け入れられる人間が何人いるだろうか。少なくとも周芳は、受け入れられなかった。なら、彼を兄と慕っていた燐瞳もまた、同じなのだ。


 弓栄春人ゆみえはるとは、生まれながらにして異常な霊媒体質を発現していた。彼の魂の部屋は、半分以上が”空洞”と化していた。それは、浮遊霊からして見れば、自分の存在出来るスペースが他の人々と比べて大きいことを意味する。故に霊にとって春人は優良物件。霊を引き寄せ、取り憑かれる危険性は常人よりも遥かに大きかった。


 春人は、”喜怒哀楽”の怒りと哀しみを制御する魂がバッサリ無くなっていた。それ故、憑依された時に浮遊霊から感じる死の恐怖や激しい痛みへの怒り、現実を受け入れられない哀しみが、濾過されることなく伝わってしまい、過度の負荷をかけてしまうのだ。


 彼の精神は、子供時代から衰弱していた。私生活で襲い掛かる不安など負の感情を処理出来ない事。そして、負の感情によって魂が締め付けられ収縮し、空洞を広げていく事が霊媒体質を強める要因となった。それが原因でさらなるストレスを受ける負のループが彼から生きる希望を失わせていた。


 だからこそ、周芳は彼を弟子に迎え入れ、閻魔薙を継承したのだ。閻魔薙の持つ不可侵の力がなければ、彼は、霊に取り殺されるか、自身の感情によって自家中毒を起こしていただろう。


 十年前の惨劇とは、春人と閻魔薙の物語と言っても差し支えない。


〈あの頃は、俺とアイツが、連盟を牽引すると思ってたよ〉


「よく言う……連盟は童子切の返還を今も望んでいるぞ?」


〈ははッ! その件は瀬田さんに了承をもらったよ……十年越しに、俺は正式な継承者になったってわけだ〉


 それは、今回が非常時だからではないのかと周芳は勘繰った。


「……薙くんは、鵺と友人だったらしいぞ? お前はそれを知ってどう思う?」


〈親父の件もあるが、親父を殺したのは”ツグミ”だ……鵺じゃない〉


 ツグミとは、鵺に埋め込まれた別人格。十年前、ハヤトの言霊の力によって、殺戮的な性格を形成されただけなのだ。言霊が消えた今、その人格も消え去り、本来の鵺としてこの世界のどこかに隠れている。だから蓮華は鵺への復讐をやめたのだろうか。


 いや、そう簡単に割り切れるものではないはずだ。


「なら、今回の事件が解決したら童子切は……」


〈俺と童子切は……いや、俺と酒呑童子は切っても切れない関係にある〉


 この力で、今度こそ全てを終わらせると言って蓮華は電話を切った。


 ☆☆☆


 電話を切った蓮華は、車の後部座席に座っていた。車内には、蓮華の他に瀬田が運転席に座っている。


「……よろしかったのですか? もっとお話ししなくて?」


「必要なことはこの間伝えてある」


 全身を黒のフォーマルで着飾り、隣に細長いジュラルミンケースを携えた蓮華は、ぶっきらぼうに返答する。前を見たままの瀬田は、そんな蓮華の態度に対しても笑顔だった。


「それにしても、十年ぶりでしょうか……再び、お会いできたことを嬉しく思いますよ、蓮華様?」


 瀬田が蓮華に最後に会ったのは、淡海邸に蓮華が童子切を盗みに来た時だった。当時、蓮華は情緒不安定で、連盟に対する不信感から瀬田を含む屋敷の使用人たちを信用していなかった。


 もちろん、窃盗は犯罪なのだが、こちらに怯えた目を向けながら逃げていく蓮華の顔を、瀬田は忘れられずに今日まで過ごしていた。


「こんなにご立派になられて……」


「お前たちからしたら犯罪者だぞ?」


「それでも、幼少の頃よりお世話させていただいた私としては、有事に来てくださったのが嬉しいのですよ」


 二十代後半に差し掛かった蓮華をバックミラーでチラリと見た世田は、彼が顔を背けているのが分かり、またしても笑みをこぼした。


「なぁ瀬田さん?」


 蓮華は、顔を背けたまま瀬田に話しかける。車外の風景を眺め続ける蓮華は、独り言のようにポツリと呟いた。


「ハヤトの目的は……本当に神の封印なのだろうか?」


 車は赤信号で停止する。静止した車内で、瀬田も言葉を返した。


「それは……一体どういうことでしょう?」


「奴は、十年前の時点で、絡み合った空間の糸を解くことが封印解除の方法だと気が付いていた……ならば、森之宮神社のシヅキを狙うのが最短の道なんだよ」


 それにも関わらず、ハヤトはシヅキを狙わない。彼女を霊視で探すことも、その手段を取ろうともしない。ハヤトは十年前と同様に、仲間を集め、魂の実験を繰り返している。蓮華自身がシヅキに確認した事実だった。


「もっと別の、簡単な方法を思い付いた……というのはどうでしょう?」


「それなら、俺が奴に気が付く前に行動しているだろうよ……桜の前にわざわざ身を晒すこともなく」


 仮に、”完全な言霊”を開花させたのだとしたら、ハヤトは真っ先に封印を解除する。十年前、シヅキを使わざるを得なかったのは、彼の言霊が”不完全”だったからに他ならない。


 言霊は、世界の理すら改竄する力を持っているのだから。


 桜の霊視を掻い潜る手段を知りつつ、ハヤトはわざと情報を流した。連盟に対する牽制と桜は言っていたが、実験を進める前に封印を解かない理由が分からない。


 ニコラスを仲間に加え、裁定者や案内人という怪異を自作する理由は一体何なのか。


「十年前の奴なら、実験をする理由も分かる」


 ハヤトは、魂の原理……悪霊化のメカニズムを知りたがっていた。それは、彼にとって自分自身の原点を知ることだった。


 如何なるプロセスを経て、彼は浮遊霊となり、現世の理に順応したハヤトへと変貌したのか。


 なぜ、”滅却”と”言霊”の力に目覚めたのか。


 そのための実験を繰り返し、浮遊霊を自作の怪異へ変えていた。皮肉にも、彼の成果は、敵対する連盟が資料にまとめ上げ、悪霊化のメカニズムは白日の元に晒されたのだ。


「魂の容量増加……これを調べて奴は何がしたいんだ?」


「まさか……神を身に宿すつもりでは!?」


 ハヤトが桜に伝えた方法は、蓮華の身体に大きく関係している。一つの体に一つの魂。これは世界の理だ。しかし、この事実は一つの体に一つの部屋しかないことを前提としている。


 他人の魂の部屋を移植すれば、一つの体に複数の魂を内包することは可能なのだ。だが、その場合、肉体の優先権は、より強い魂に与えられる。


 人間が神を内包しても、神に意識を奪われるのがオチだろう。それどころか、神の持つ知識や技術、記憶といった全ての情報は、人間の魂、その部屋の容積を遥かに凌駕する。


 そんなものを受け止めたら、肉体と魂は崩壊するだろう。


「いや……待てよ」


 もし、情報量がゼロの魂があるとしたら、元々の魂が持つ情報を、細分化して、空の魂に移し替えることは出来る。


 酒呑童子の記憶を情報として魂に書き込まれた蓮華が、”酒呑童子”だけを右手に移植したように、神の持つ情報量を、肉体に散りばめたそれぞれの魂に限界まで詰め込むなんてことが可能だとしたら……


「俺を参考にしたってのは、そういうことなのか?」


 蓮華の脳裏に、不適な笑みのハヤトが思い浮かぶ。それを掻き消すように、自身の膝を素手で叩いた。


 車は、レンタルオフィスのあるビルの地下駐車場へと入っていった。


 ☆☆☆


 少し時間が経った。時間と共に、僕の中で暴れる感情の洪水は収まりつつあった。感傷を癒すのは、時間なのかもしれないと、僕はふと思った。


 目の前に散らかった鈴や鐘を整頓する。僕のために、わざわざ周芳はこれらを集めてくれたのだ。ぞんざいな扱いをしてしまった事を謝らなければいけない。


「閻魔さん、気晴らしに散歩でもどうだ?」


 またしても僕の元へやってきたアメリア。なぜか服装が修道服からレースやフリルのたくさん着いた黒のドレスに変わっていた。俗に言う”ゴスロリ”というものだろうか。化粧までしたアメリアの顔は、心なしか引きつっている。


「…………その服装で?」


「俺だって反対したんだよ!?」


 彼女の話を聞くと、燐瞳の母が無理やり着せた上に化粧まで施したとか。僕にとってそれは衝撃的で、意識を切り替えるには充分すぎるほどだった。


「これも一応、燐瞳の服だって……まぁ、本当か怪しいが」


「えッ!? 燐瞳さんの!?」


 まさか、燐瞳にこんな趣味があったとは……


 いや、他人の趣味を否定してはいけないか。


 ただ、想像がつかない……燐瞳が……えぇ……


 フリルを嫌そうに振って見せるアメリアの後ろから、燐瞳が現れた。僕はあの夜に見せた辛い表情を思い出すも、燐瞳の表情は明るく見えた。しかし、アメリアの服装を見て表情が変化する。


「それ……なんで……?」


 その顔は、明らかに嫌悪の表情。


「あっ……あの、君のお母さんが、あの」


「お母さん何やってんのよ!? 毎回毎回、私の着ない服ばかり買ってきて!?」


 燐瞳は憤慨した。そして、アメリアの手を引いて、「その服で外に出ないで!?」と、言い残して自室へ連れて行った。僕はそれを廊下で見送っていた。


 数分後、燐瞳の部屋から出てきたアメリアは、オーバーサイズのパーカーとジーンズ姿に変わっていた。燐瞳の本来の私服を貸し出したようだった。


「ハァ……ハァ……これで大丈夫」


「なんか……ごめんなさい」


 疲弊した燐瞳の姿から、必死で脱がせたんだろうなぁと想像してしまう。心なしか表情に明るさが戻っているように見えた。


 アメリアの着せ替えに必死で、無理やりだが気分転換させられたようだ。


「せっかくだし、散歩に行くなら三人で行きません?」


 そんな彼女たちを見て、自然と僕は提案していた。アメリアも乗り気だ。燐瞳も、それに了承した。家にいたら、母親に怒鳴りそうと燐瞳がこぼしたのを見て、一時間くらい外出しようかと思えてくる。


 それにしても、どこまで行こうか。


「そういえば、シスターさんの呼び方って」


「あぁ、まぁ好きに……いや、待って」


 燐瞳の何気ない質問に対して、アメリアは頭を抑えて考える素振りを見せる。


「”シスター”か、”アメリア”のどっちかでお願い」


 絞り出したような苦しい声で返事が来た。


「ほ、他に……呼び方ってあります?」


「僕もそう思います……」


 その返答に、僕と燐瞳は乾いた笑みを浮かべ、三人で玄関まで歩く。途中、居間で燐瞳の母親らしき女性が、暦にファッションを熱弁しているのが見えた。


 ドール系が熱いとか、そんな話をしている。暦はニコニコして聞き役に徹しているが、その隣の桜と周芳は明らかに辛そうな表情であった。


 僕の手をアメリアが引いた。さっさと出るぞと僕を急かす。


 外は、太陽が沈みかけていた。赤く染まる空と神社を見て、沈まぬ太陽に照らされた故郷を思い出した。


 僕は当時、裁判の後はいつも沈まぬ太陽を宮殿から眺めていた。それが僕にとっての日常だった。西の妖星は、常に我々を照らし続けている。それは、普遍的で不変だった。沈まぬ太陽を、閻魔も、鬼たちも、自然と崇めていた。根拠などいらなかった。


 真に神と崇めるべきなのは、アレなのではないかと、誰かが言ったのを覚えている。我々にとっての不可侵領域。近づく者を分解せしめる圧倒的な存在。


 近づいてはいけない……アレは、我々が理解してはいけないものだ。


 僕に虚空を教えた空間の神は、かつてそう言っていた。


 沈まぬ太陽とは、何なのだろう。そんな疑問を、西の空に半分ほど身を沈めた現世の太陽を見て、僕は思ってしまった。


「薙くん! 早く!」


 燐瞳が僕を呼んでいる。彼女は石段の手前、鳥居を背にしてこちらを向いている。隣では、欠伸をするアメリアが手招きしていた。


 燐瞳は、気丈に振る舞っている。あの夜が嘘だと言っているように。


 しかし僕は知っている。浄瑠璃鏡が、感覚として彼女の内側に潜む闇を伝え続けている。


 彼女は頑張っている……自身の心を表に出さないよう、必死で抑えて飼い慣らそうとしている姿は、人間の感情を覚え始めた僕にとって、刺激が強すぎる。


 桜の霊視も、また、他人の心を覗き込める。桜も、僕と同じく、他人の感情を共有し、思い悩んだ経験があるんじゃないか。便利な目だと、僕は彼女を誉めたが、それは彼女にとって皮肉だったかもしれないと、後悔の念が渦巻いた。


 人間の感情は、時と共に移り変わる。本来、怒りも憎しみも、悲しみさえ、その時にしか感じ得ないものだ。記憶は、感情を再現する。切れない鎖として魂に纏わり付き、まるで衣のように包み込む。


 魂に感情を刻むのは、その人の記憶なのだ。記憶が掘り起こされる度に、感情が重圧として蘇る。僕は、この十年間、燐瞳の繰り返す記憶のループを味わったに過ぎない。


 直視すれば潰れるほどの、自身の命すら対価にならないほどの、兄を想った彼女の心を、生まれたばかりの僕の感情が支え続けることはできないだろう。そして、この心は執着という罪になり得るだろう。


 それでも……


「……今、行きます!」


 たとえ、それが執着だったとしても、僕が彼女を裁くことは永遠にないだろう。閻魔が罪と定義する感情が、如何にして発生するかを理解してしまった僕には、それを、罪と呼ぶことは出来ないのだから。


 今、この時にこちらへ笑顔を向ける燐瞳に僕自身の感情が安らいでいくのを感じた。薄らいでいた金剛鈴を探すための活力が蘇ってくる。


 あぁ、人間の心の安定は、こうして得られるのか。


 歪む心を伸ばすのも、また、感情なのである。


 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、全てが釣り合って存在している。


 それらも、欠けてはいけない、人の道具なのだ。


「じゃあ近くの小川でも見に行きましょ? 私のお気に入りの場所なのよ」


 石段に足を掛けると、西日が僕たちの影を、階下の道路へ伸ばしていた。

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