第2話〜海原の洞窟

 次の日の午前七時、僕は再び港に来ていた。港には、大型の客船と、乗船予定の人達が列を成していた。まだ出航まで一時間あるものの、手荷物検査やチケット確認などの作業をスタッフが行なっている。


 ん? チケット?


 そういえば、僕は乗船チケットを持っていない。虚空を使って乗り込む事も出来るが、一日に数分間しか閻魔の姿になれないし、多くの人の前で道服になるのも目立って仕方がないし、どうしたものか。


 そもそもの疑問なのだが、衣を脱いだ状態の僕は一般人の目に映るのだろうか?


「薙くん、おはよう」


 悩む僕に背後から呼びかけたのは燐瞳だった。昨日と同様に、彼女は制服姿である。昨晩は気付かなかったが、腰に黒いカードケースを付けている。


「あ、おはようございます」


「ちゃんと来てくれたのね」


 そう言って彼女は僕の手を引いて歩き始めた。「船に乗るんじゃ?」というと、彼女は客船の隣を指差し、「私たちが乗るのはコッチ」と言った。


「救助用の小型船に乗せてもらえるよう手配したわ」


 さらに燐瞳は、「もう薙くん来たし、行っちゃおうか?」と、小型船に乗り込むよう指示してくる。


「八時に出港じゃないんですか?」


「クルーズは十時よ。私たちはそれより先に問題の海域で待機するの」


 本当にただのクルーズなのだろうか。出港の数時間前にこれだけの人数が乗船手続きをしているのを見ると、中で展示会でも開かれるのではと思ってしまう。


 ただ、救助船が二艘なのはそういうことか。下見も併せて、一艘は先回り。


 原因が船なのか海域なのかはっきりしていない現状ならこれしかないか。


 燐瞳に連れられ小型船に乗り込むと、作務衣姿の男性が既に待機していた。黒髪に白髪が混ざった中年男性。おそらく五十代。先日の夜に燐瞳が会っていた人だ。


「はじめまして、燐瞳の父の周芳すわです」


 森之宮もりのみや 周芳すわは僕に頭を下げた。でも偵察は燐瞳に任せているって言っていたような?


「君の事を娘から聞いて、私も同行させていただく事にしたよ」


 森之宮は笑ってそう言ったが、目だけは笑っていなかった。この言葉が意味するのが、単に実力不足を危惧しているだけなのか、はたまた……


 予定の人数が揃ったため、操縦士の老人がエンジンを始動させた。船が海原へと発進する。


「薙くん、だったかな? 宍道しんじさんの知り合いだそうで?」


「あー、えぇと、はい」


 知り合いといえばそうだが、まだ出会って二週間程度。


「彼は連盟に非加盟だ。だから正直、君を参加させるのに私は後ろ向きでね」


 森之宮は続けて、「だから今回は我々の補助をしてほしい」と言った。


「聞くところによると、君は占い師なんだってね」


 よく知っているようで……


 連盟のネットワークは至る所に伸びていて、僕の二週間の行動は筒抜けのようだ。


 だとしたら、僕が閻魔だってのもバレているのか? 森之宮の話し方からその様子は伺えないが、何かあるまでこちらから言うのはやめておこう。


「とりあえず、薙くんにはこれを貼ってもらおうか」


 そう言って森之宮が手渡したのは、風切も持っていた御札の束だった。僕は言われた通り、船内の四方の壁一面に御札を貼っていく。


「これ、風切さんも持ってましたよ」


「あぁ、この間貰いに来たからね。御札を作るのは私と燐瞳の役割なんだ」


 御札は連盟の人間への支給品らしい。


「この御札は、霊体に反応して文字を浮かばせる。それが悪霊や妖怪など、"悪意"に満ちているほど、反応は強くなるんだ」


 なるほど、だからあの時も異形の方角だけ文字が出たのか。


「つまり、霊の探知機ってわけですか」


「まぁそういう使い方もあるけど、本来は呪いを吸い出すのが目的なんだ」


 森之宮曰く、霊の持つ悪意が呪いとなって霊障を引き起こす。霊障とは、人間への危害。体調不良など軽いものもあれば、命を脅かす力もある。さらに、妖怪は自然現象すら霊障で操るとか。


 この御札は、霊障の対象を人間から御札に移し、御札自体が崩壊する事で霊障を消し去るのが本来の使い方らしい。


 それを聞いて、僕の虚空も一種の霊障なんだなと実感する。御札が僕自身に反応していないところを見るに、衣が霊体を守っているのだろう。


「ちょっとした霊なら、御札一枚で浄化出来るよ。余ったら持って帰るといい」


「浄化? 魂を消し去るんですか?」


 僕は異形が浮遊霊を消滅させた現場を思い出す。


「そんな事はしないよ。霊がこの世に滞在するのは、何かしら心残りがあるからだ」


 家族を残した不安。殺された怒り。死んだ事を受け入れられない恐怖。それらが心に残り、あの世に渡るのを妨害している。そう森之宮は言った。


 僕は、過去に裁いた人間の魂の言葉を思い出した。


 “身体を失った途端、ふと気が付くんです。昇らなければ・・・・・・、と。誰かに教えられたわけでもなく、まるで、初めからインプットされていたように。動物の本能、遺伝子の記憶があるように、我々には、魂の記憶・・・・とでも呼称出来る何かがあると、思えてならないのです。”


 魂の記憶が、閻魔界に導く……まるで本能だ。なら、現世に魂を留める未練は、理性ということになるのか。本能を理性でコントロールするのに慣れた人間だからこそ、現世に留まってしまうのだろうか。


 衣がボロボロになるまで、不安や恐怖を払拭しようと現世でもがいているのか。


「御札はね、そんな未練を浄化し、天に昇る手伝いをしている。だから魂を破壊するわけじゃない」


 森之宮は、「まぁ全てに通じるわけじゃないけどね」と言ってデッキに出て行った。代わりに燐瞳が船内に入ってくる。


「素敵なお父様ですね」


 話を聞いて、正直、僕としては森之宮の存在はありがたかった。閻魔界で僕が裁判を行えるのも、現世から魂が昇ってくるお陰だ。その手助けをする森之宮達には敬意を払おうと思えたのだ。


「でしょ? あ、ちゃんと貼ってくれたのね!」


 壁一面の御札を見て燐瞳は僕の頭を撫でた。完全に子供扱いである。


「なんか弟が出来たみたいね」


 少なくとも年の差は数百歳あるはずなんですが……


「あの、燐瞳さん」


「なにかしら?」


 森之宮に聞き忘れた事を燐瞳に確認する。僕は風切から、人探しのプロを紹介すると言われていた。おそらく連盟の人間だろう。なら、彼女もその人物を知っているのではと踏んだ。


「人探しのプロ? 霊視なら"高松先生"か"桜ちゃん"だと思うけど……」


 よし! やはり知っていた!


 この件が終わったらその二人を訪ねてみよう。


「誰か探してるの?」


「はい! 死神のコヨミって女の子を」


 燐瞳は「死神!?」とビックリして身体を跳ねさせる。僕は必死に「し、知り合いの」と訂正した。


「なんだビックリした……死神なんて見た事もないわよ」


「あはは……ですよね」


 死神は霊能者にも周知されていないのか。


「そのコヨミって女の子を、なんで探してるわけ?」


 僕の記憶と力を取り戻し、逃げた神様を捕まえるためです……とは言えないな。かと言って嘘を付いても、霊視とやらが浄瑠璃鏡と同じなら心を読まれる。うーん困った。


「こっちに来る時に逸れてしまって」


「ん? 引っ越しの際にって事?」


 グイグイ聞いてくるな、この娘。


「おい二人とも! ポイントに着くぞ!」


 デッキから森之宮が僕達を呼んだ。助かった……


「お喋りはここまでね! 行くわよ!」


 腰のカードケースから御札を一枚取り出し、構えながら燐瞳はデッキに出て行く。僕もそれに続いた。


 ☆☆☆


 デッキに出ると、強風が僕達を襲った。続いて眩しい朝日が顔を照らす。手で日差しを遮り、視界を確保した先に、件の海域が広がっていた。


 前方には水平線。後方には小さくなった港が。そして向かって右側の離れた場所に断崖絶壁が見えた。岩肌は荒れており、ぶつかる波は白く濁っていた。


「このポイントで間違いないのか?」


 僕と同じく周囲を見渡していた森之宮が口を開いた。それもそうだ。僕の目にも森之宮の目にも、霊はおろか超自然的現象すら確認できない。


「御札は?」


「今のところ反応はないわ、お父さん」


 手に御札を持った燐瞳は、御札を見ながら森之宮の問いに答えた。僕も鏡で周囲を再度確認する。


 鏡にも穏やかな海原と青空が映る。これといって変化はない。行方不明者が出たと連盟は言ったが、霊の仕業ではなく、ただの事故なのではと思えてならない。


「……ん?」


 僕は鏡の中に違和感を覚えた。鏡に映る断崖絶壁の波打ち際が光っている。鏡から視線を移すと、洞窟のようなものがあるのを発見した。


「あの、あそこに何かありませんか?」


「えっ!? どこ!?」


 燐瞳は僕の指差す方角に目を向けるが、遠すぎるせいか洞窟を発見できない。


 僕の意見に対して、森之宮が船を近づけるよう操縦士に指示を出した。ある程度のところまで近づき、他の二人はやっと目視で洞窟を発見した。入口付近に波がぶつかり、割れた瓶の破片が舞った。


 洞窟の中から不快な音が聞こえる。きっと風なのだろうが、暗闇が見えない何かを想像させてしまう。


「……ここ、何かあるわ」


 彼女を見て、燐瞳が言った意味を悟った。彼女の手の御札が反応している。僕は船内に隠れて鬼籍を開いた。


 ……自動書記が始まっている。あの洞窟には人間の霊がいる。


「ここに降りる事って出来ますか?」


「これ以上近づくと乗り上げちまうよ!? お客さん、引き返しますぜ?」


 森之宮の質問に操縦士が焦って答えた。僕は甲板に戻り距離を測った。まだ洞窟まで数メートルは離れている。ジャンプしても届かないだろう。


「あの突き出した岩までは?」


 燐瞳が少し離れた岩場を指差した。海岸から海に突き出た岩が見える。操縦士は渋りながらも、「まぁ……あそこまでなら」と口にした。


「お父さん、私が一人で見てくる」


「いえ、僕も行きます」


 岩に手をかけスッと登った燐瞳の後を追った。森之宮からは「君は戻ってきなさい!」と言われたが、正直、燐瞳だけを行かせるわけにはいかなかった。


 鬼籍の自動書記が終わらない……


 罪状が多いわけではない。対象が多すぎるのだ。人物名だけで何ページも使用している鬼籍を見て、僕は嫌な予感がしてならなかった。


 僕は燐瞳を追い越して洞窟へ走った。後ろでは燐瞳が、「お父さんは船で待機してて!」と停泊指示を出している。


 その隙に現場を把握して、危険なら退避する。そう考え、洞窟に侵入すると、屈んで通れる細い道の先に大きな空洞が広がっていた。


 そして、その空洞にひしめく大量の霊体を目撃した。海難事故や身投げで酷く損傷したのだろう。 生前の姿が霊体に反映されたそれらは見るに耐えないほど痛々しい。


 霊体の損傷も激しそうだ。ほとんどの霊がまともに衣を纏っていない。


 ……衣を纏っていない?


 僕は書記の終わらない鬼籍を片手に立ち尽くす。なぜ、衣なしに存在しているのか? 僕自身も味わったあの激痛は、森之宮の言った未練どうこうで片付けられる問題じゃない。


 思えば、あの時、異形の怪異と化した霊も安定して存在出来ていた。彼は衣がなければ存在出来ない事を知っていた。だからこそ、浮遊霊から衣を剥ぎ取っていた。


 立ち尽くす僕の方を、ひしめく大量の霊体が向き直った。それぞれの顔は岩肌で削られたのか原形を留めていない。


 一人の手が僕に触れた。髪型から、おそらく男性だろう。手の感触で肉体がない事を理解したのか、彼は僕に優しい口調で話しかけてくる。


「君も……苦しみから逃れにきたのかい?」


 現世は我々の存在を許してはくれない。でも、この洞窟だけは、痛みから救ってくれる。だからみんな、ここに集まっている。そう、男の霊は語った。


 僕は衣を脱いでみた。姿が閻魔に変化し、男の霊は少しだけ驚くものの、「閻魔様も辛いのですか」と身を案じてくれた。


 男の言うとおり、ここは霊が安定して存在できるみたいだ。いつもの息苦しさを一切感じない。ここなら、時間の制限なく、無限に力を使えるだろうとすら思える。


「あなた達は……ただここにいるだけ?」


 僕の問いかけに、ゆっくりと首を縦に振った。天に昇りたいけど、未練があって留まってしまった。だけど今では、その未練すら忘れてしまった……と。


「でもなんで、この洞窟だけ……」


 そう言いかけた時、僕に燐瞳が追いついた。後ろから、大量の霊体に息を呑む声がした。


「さ、さすがに多すぎでしょ……」


 燐瞳は目を丸くし、開いた口が塞がっていない。数々の現場で仕事をこなしてきた彼女でも、この数は想定していなかったようだ。


「足りるか分からないけどッ……!」


 そう言ってカードケースを開き御札を展開させた。どういった原理か、燐瞳を中心に御札が円を描くように列を成して回転し始める。


「ま、待ってください!? 彼らに害はありません!」


「はぁ!? なんでそんな事が分かるの!? てか何その格好!? コスプレ?」


 燐瞳の顔を見ると半泣きだ。


 あぁ、流石に情報が多すぎてパニックになっているのか。


 僕は、燐瞳に鬼籍を見せた。自動書記が完了し膨大なページ数になっているが、なんとこの鬼籍には、罪人や罪状を一覧で表示出来る便利機能がある。


 一覧で罪状を表示させたものの、その中に”誘拐”や”拉致監禁”、”殺人”などの罪は一件も発見できない。それどころか、ここにいる霊達は、過去の判例を見るに、軽すぎる罪しか犯していない。


「つまり、行方不明者にここの霊達は関係ないんです」


「えっ、待って、何その本……」


 そっちかい。


 いや、まぁ普通はそうなるか……


 仕方がないので燐瞳が御札を発射する前に霊達に聞けることは聞こうと思う。


「あの、どうやってこの洞窟に辿り着いたんですか!?」


「分からない……痛みから逃げて、逃げて、気が付いたらみんなここにいた」


 偶然集まったってわけか。にしても、この付近で事故など起こった事はないって言っていたような。


 この疑問に男の霊は答えた。”俺たちは、この崖で死んだわけじゃない”……と。


「話はそれまでよ……悪いけど、どんな霊でも祓うのが私達の役目なの」


 回転する御札の中心で燐瞳が構えながら僕たちの会話に口を挟んだ。


「あぁ……構わない。俺たちは皆、楽になりたがっている」


 男の霊はそう言って僕を見た。その顔に御札が触れると、御札は赤い煙と化し、同時に男の姿から外傷が消え綺麗な姿へと変貌する。


「……ありがとう」


 男はそう燐瞳に言うと、笑顔で天に昇って行った。


「傷が癒えた……?」


「この世への未練が、亡くなった肉体の状態を維持しているのよ……」


 僕の疑問に燐瞳は優しく答える。未練があるから死してなお苦しむのだと。そうして彼女は次々に霊を浄化していった。その顔つきは、先ほどまでのパニック顔ではなく、真剣そのものだった。


 浄化される霊達も口々に「ありがとう」と礼を言って消えていく。そうやって天に登り、大河を渡り、霊峰を抜け、閻魔界に……


 ……今の閻魔界がおかしな事になっていることを忘れていた。彼らが公平に裁かれる事を切に願う。


 霊達が浄化され、数を減らしたことで、空洞内部の詳細が分かってきた。ここは、何かを祀る場所なのだ。朽ち果てた石像と祭壇が奥の壁に設置されている。石像が手に持っていた石製の剣も折れて刃と柄が別々に地面に転がっている。


 相当長い年月、この空間が放置されていたことを表している。


 札を飛ばすのに集中している燐瞳はそれに気がついていない。僕は祭壇に近づいた。近くにいた女性の霊が僕に言った。“私の友人が不動明王様の像を壊した”……と。


 ☆☆☆


 船で待つ森之宮は洞窟の入り口をじっと見つめていた。波打ち際に停船しているため、視界が上下して不快だが、それよりも気掛かりなのは、燐瞳が何も連絡を寄越さないことだ。


 中の状況は一体どうなっているのか。薙くんも静止を振り切って行ってしまったため、操縦士を残して私も行くわけにはいかなくなった。


 仮にも、連盟が目星を付けた海域にいるのだ。正直、何が起きてもおかしくない。いきなり八本足の鮫に襲われるかもしれないし、機械式の鮫が船底を突き破ってくるかもしれない。


 馬鹿げているように聞こえるかもしれないが、一般人から見たら似たり寄ったりな現象に遭遇している手前、我々にとっては冗談にすらならない。


 私は後方の小さな客船に視線を移した。もうすぐ出発だろうか。ここからは点にしか見えないが、きっと、今日を楽しみにしていた人々で賑わっているだろう。


 そうして、再び洞窟に視線を戻すと、違和感に襲われた。なんだか、遠くなっていないか? 操縦士に確認を取ると、慌てて操舵室に向かう。しかし、返ってきた言葉は信じられないものだった。


「操縦が効きません!?」


 慌てて船内の御札を確認しに向かうも、遅かったようだ。壁一面の御札が赤く発光している。船はどんどん沖に流されていく。私は御札を一枚、床に落としたが、触れた途端に煙となって消えてしまった。


 ……船の下にいるんだ。


 大きく船が揺れた。その正体は、船端を掴む大きな手の形をした海水だった。


 ☆☆☆


「像を壊した?」


「はい……何十年も前になりますが」


 彼女曰く、何十年もの昔、彼女の友人が失意の果てにこの像を破壊し、その後日、海難事故で亡くなったらしい。


 彼女の友人はどうも執着心が強かったようで、他人に異常なほど依存していたとか。当時、自分は周囲に裏切られたと言い続けていたらしい。友人が亡くなった時、像の祟りじゃないかと周囲は思ったようだ。


「その場所に……まさか自分が死んでから来るなんて」


 彼女の見た目は他の霊に比べて比較的綺麗だった。亡くなったのも自宅とのこと。


「その……ご友人は?」


「私の知る限りでは、遺体すら発見出来てなかったかと……」


 そうですか……と言葉を返した時には、彼女も浄化され、安らかな顔で消えていた。僕の後ろで燐瞳の息切れが聞こえる。


「ちょ、ちょっと休憩……」


 その場にペタンと座り、呼吸を整えている。どうやら御札を飛ばすのは肩で息をするほど消耗する技術みたいだ。彼女のカードケースの御札は残りわずか。一度船に戻り、森之宮と情報共有をしたいと伝えてみるが、この場を祓い切ると燐瞳は言っている。


「……じゃあ残りは僕が祓います」


 この場所に不動明王の偶像があって良かった。仮に作り物だとしても、ここにある像は、かつては人々に信仰されていた対象。


 閻魔に貸与される”不動明王の剣”は、名前の通り、不動明王が持っている剣がそのまま使用され、閻魔が柄を握ることで、”命を奪う剣”から、”罪を洗い流す剣”へと性質が変化する。


 ならばと、折れた剣の柄を握る。たとえ石でも、”信仰の対象は神と同等の存在”。その像が持つ剣を閻魔の僕が持ったら……


 触れている石の柄から空洞内を照らすほどの閃光が発せられ、性質が石から金属へと変化する。折れた刀身も光に包まれ、再び暗闇に戻った時には、一本の秀麗な両刃の剣として転生を果たしていた。


「……読みが当たった」


 元々、僕が持っていた剣は柄に革が巻かれたものだった。今、手元にある剣は、金色の柄の上下が勾型かぎがたの三叉に分かれ、上部の中心が刃となって天高く伸びている。まるで、煩悩を打ち破り、穢れを祓うとされた金剛杵こんごうじょが剣に変化したような姿。


 ちなみに、かつて僕の持っていた金剛鈴こんごうれいは、今持っている剣の刃部分がそのまま鐘になったものと思ってもらえれば良い。金剛杵とハンドベルの複合体みたいなものだ。この剣は、金剛杵と剣の複合体だ。


「いや、もしかしたら……」


 これこそが”不動明王の剣”本来の姿……倶利伽羅くりからなのかもしれない。”罪人の罪を洗い落とす”とは、煩悩を打ち破り、穢れを祓う事を指しているのだ。そんな剣なのだから、金剛杵が変化したものと考えるのが普通かもしれない。


 “金剛鈴は罪人を知らせ、金剛杵は罪を洗い流す”


 初めて五芒星に就任した時、閻魔王からかけられた言葉が脳裏をよぎる。


「金剛杵は閻魔そのものなのか?」


 不動明王の剣の性質変化は、閻魔の中の金剛杵と剣が融合していることを表している? 現世の宗教で使われる金剛杵は閻魔を模したした代物?


「さっきから……なに訳のわからないこと言ってんのよ?」


 燐瞳がやっと立ち上がった。こちらを見る目は、明らかに敵意のあるもの。当然だ。さっきまで人間の子供だと思っていた僕の姿は閻魔に変化し、手には剣を持っているのだから。八本足の鮫にでも会った気分だろう。


「その剣は何? あなた何者なの!?」


「できれば、あまり周りを巻き込みたくない」


 霊体が安定して存在できる空間。その中で、失っていた”剣”の力を取り戻した。燐瞳からは人探しのプロを教えてもらえた。浄瑠璃鏡で燐瞳の記憶を読み取れば、そのプロの居場所も把握できるだろう。


 なら、この場を祓い、燐瞳を船に乗せ、それで本件が解決なら、僕はこの場から虚空で移動する。これ以上、関係のない人と関わりを持つのは、神との接触時に二次災害を呼びそうだ。


 神を知る彼女に事情を話せば、もしかしたら協力してもらえるかもしれない。でも、これ以上人間と関わるわけにもいかない。反撃手段を得た今、暦との再会を優先し、残された”金剛鈴”と”天秤”の回収に突き進むだけだ。


「これより、簡易裁判を始める」


 鬼籍の名と霊体を照らし合わせながら、剣を構え、舞い踊るように周囲に残された霊体を秀麗な刃で切り裂いていく。刃はただ霊達を通過する。この刃は、命を奪うためのものではない。人間だろうが霊だろうが傷を付けることはできない。その代わり、如何なる罪でも魂から分離できる。


 斬られた霊達は、一斉に浄化され、安らかな顔で天に昇っていく。本来、閻魔界で洗われる罪を、現世で祓い落としているので、おそらく裁判は開かれないだろう。この程度の罪ならば閻魔界をスルーしても、そのまま地獄に行くことはないだろう。


 一息ついて、燐瞳を見ると、「今の剣の力……閻魔……薙」と、僕の正体に気がついたみたいだった。そして、思い切り駆け寄ってくると、僕の顔に詰め寄った。


「燐瞳さん、船に戻りましょう?」


「無論、そのつもりよ……貴方を帰すわけには行かなくなったわ」


 ん? 帰すわけにはいかない? 一体どういう……


 その時、燐瞳のスマートフォンがけたたましく音を立てた。自動的に通話モードになったスマートフォンから、森之宮の大声が響いた。


 ☆☆☆


 洞窟を逆走する。先頭を走る燐瞳に道服を掴まれ引っ張られている僕は、空気が変わるのを感じた。あの息苦しさが戻ってくる。本能が洞窟に戻りたいと言っている。


 朝日が全身を包み込む。目が慣れた時、沖に流され、左右に大きく揺られる救助船の姿が見えた。


 燐瞳のスマートフォンからは低いモーター音しか聞こえなくなった。森之宮はスマートフォンを海にでも落としたのか、それとも通話状態で衣服に仕舞ったのか。燐瞳を見ると体を震わせながら船を見ている。すぐに近づけないもどかしさが僕にも伝わってきた。


「燐瞳さん、そのまま道服を強く掴んでいて」


 剣を袖にしまうと、両手を構える。僕は船の真上の座標へ跳んだ。燐瞳は驚きつつも、冷静に着地し、ふらつく森之宮を支えた。一番驚いていたのは森之宮だ。突如、空中に現れた僕たち。そして僕の服装。さっきの燐瞳と同じく目を丸くしている。


 操縦士は船内に避難していた。船を揺らす波は、よく見ると手の形をした海水。船内は四方を御札で守られているお陰で、飛沫しか入っていない。


「船の下だ! 何かがいるとしたらそこだ!」


 森之宮は僕に迫る手へ札を投げつけながら叫んだ。御札に触れた手は目の前でただの海水に戻る。僕は鬼籍を開いた。人間の名が浮かび上がる。


 これだけの事象を人間が引き起こしているのか? 一体どうやったらこんな芸当を……


 鬼籍に記される罪は”執着”。他に寄生し自我を育てなかった事への罪。


「海の中だ! 御札が届かない!」


「なら、僕が船を浮かせます! その隙に!?」


 船ごと上空に移動すれば、祓うことは可能かと問う。


「馬鹿な!? 船を浮かせるって、どうやって!?」


「可能よ! 薙くん! 早くやって!」


 半信半疑の森之宮を静止して燐瞳が叫んだ。僕は、両手を大きく開き、体の前に引き合わせた……


 その時、真横から突き出された海水の手が、僕の体を反対側の船端へ突き飛ばす。森之宮が札を出すのを遅らせた。いや、僕が質問したばかりに隙が出来た……


「ッ!? ナギくん!?」


 森之宮の伸ばす手が空を切る。薙の体が海原に叩きつけられ、まとわりつく数多の手によって深く沈められていく。


 海に入って気がついた。この手は特殊な海流だ。体の周りで様々な方向に細い海流が発生して手の形を維持している。


 “……なんでみんないなくなってしまったの?”


 脳内に声が響く。寂しさの中に怒りを内包した声は、「どうして」と執拗に僕を責め立てる。


 “……やっと、あんなに集まったのに!”


 海底に叩きつけられる。砂が舞い、僕の視界を奪った。体制だけでも立て直したいが、常に足先に海流がまとわりついているせいで立つことを阻害される。


 舞った砂が人の形を形成する。うつ伏せの僕を見下ろす人型は、僕が仲間になるまでこのまま放置するつもりなのだろう。


 人型のさらに上に船底が見える。スクリューと真逆に海流が発生し推進力を無効にしているのが見て取れた。


「……僕は溺死しないぞ?」


 袖から鏡を取り出すと、鏡越しに人型を見た。若い女性だ。鏡の見せるビジョンから、不動明王像を破壊した張本人で間違いない。続けて鏡は、彼女の白骨化した右手だけがこの海底にあるのを見せてくれた……


 出来る事なら、僕が彼女を裁きたかった。彼女は生前から、何をしても満たされない事が嫌で仕方がなかった。それを周囲が誰も理解してくれない。心の根本にあるのは、他人に理解されない事への怒り。あの異形の怪異と、本質は一緒。


 だからこそ、罪だけは洗い流したかった……


 実態のない彼女を、身動きの取れない僕が祓うのは不可能。両手を静かに合わせ、地中に埋まった彼女の右手を船のデッキに移動させた。僕の全身には、すでに青白い電流が表れ始めていた。


 ☆☆☆


 揺れるデッキに白骨の右手が突如出現した。砂で磨かれ、光沢を持ったそれは間違いなく人間の手だった。


 薙くんが持ってきたのだろうと私は察した。私を船まで移動させた技と同じものだ。”シヅキちゃん”と同じ技を薙くんが使える理由は分からない。けど、これを持ってきたってことは、そういうことなんだろう。


 私はお父さんに目を向けた。船を襲う海水の手を御札で防ぐので手一杯。ならばと、カードケースから残った数枚の御札を取り出す。


「祓うのは、私の役目」


 空中に解き放たれた数枚の御札が人骨を包み込んだ。御札の中でガタガタと暴れているものの、表面に赤い幾何学模様が表れ、一切の動きを封じた。


 人に仇を成した悪霊が、安らかに天に登れるのか、私はずっと疑問だった。


 でも、私の兄はこの意見に肯定的だった。罪さえ償えば許される。口癖のように私にそう言っていた兄の姿が、海底に消えた薙くんと重なっていた。


 だからこそ、私はこの事象を鎮め、今回で終わりにしたい。


 御札の幾何学模様が引いていく。同時に船を襲う荒波も息を潜めた。お祓いは完了した。


 残った仕事は、薙くんを助け出すことだけ。

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