第28話〜継承

 アメリアと蓮華が出発した後、森之宮神社の鳥居の前に、薙は立っていた。閻魔の姿にならない方が良いと、暦に忠告されたものの、彼は、自身の身の安全よりも優先して為すべき事があった。


 それは、月に封じられた神へ、全能術を放つ事。金剛鈴が戻ったという事は、彼が閻魔界に居た全盛期の状態を取り戻したことを意味していた。


 薙の全能術────十全たる空孔の法則パーフェクト・オブリヴィオンは、虚無の空間を自在に作り出し、神を捕える術。虚無の空間は、次元の壁を越える。現世から断絶された神を、空間ごと・・・・包み込む事が可能なのだ。


 今まで実行に移さなかったのは、不完全な術のリスクを考慮してのこと。その証拠に、廃校で案内人に放った全能術は不完全なものだった。あれは、虚無への入口が開いたに過ぎない。


 鳥居の上に浮かぶ月に流れる雲が重なった。


 それを合図に、薙は両手を打ち鳴らした。破裂音を鳴らした両手は、そのまま体の前で交差する。虚空を放つ時の姿勢とは異なる姿勢。


「────十全たる空孔の法則パーフェクト・オブリヴィオン


 鳥居と月の間に、虚無の新円が口を開けた。


 開いた虚無の入口は、数秒間、その場に留まった後、音もなく消えた。同時に、薙の全身から力が抜けていく。全身に発生する電流が、限界を告げている。膝から崩れ落ちた彼が抱いたのは、疑念だった。


 なぜ、術が正常に作動しないのか。異常な脱力と制限時間を無視した現世の理が身を襲うのか。道具の他に、何が足りていないのか。


 人間の姿に戻った薙が、月を睨みつけようと上を見た時には、既に全貌が雲によって遮られた後だった。


 ☆☆☆


 鈴の音が響き渡った。それは、薙の衣の中から聞こえている。道服の袖に仕舞われた金剛鈴が、彼へ呼びかけていた。


 ────神社の本殿へ来てくれ


 薙の耳には、ハッキリとそう聞こえた。数日前の、和睦の鈴の音とは違い、言葉として聞こえた。声は、優しい少年の声だった。薙は、誘われるように本殿へ歩き、引き扉を開けた。


 明かりのない本殿には、一人の少年が立っていた。ワインレッドのコートを羽織り、メガネをかけた少年は、薙と和睦のちょうど間に存在している。


 唖然とした。言葉が出てこなかった。


 目の前の少年は、燐瞳の部屋に立てかけられた写真の人物そのものだったのだから。


「────君が、閻魔薙なんだね」


 悲しそうに、少年が告げた。


「覚えているかい? 僕と君は、十年もの間、一緒に活動していたんだ。僕は、何度も君に命を救われた。僕も、同じだけ命を救ってきた。それもこれも、君がいたから出来たことだ」


 少年は、「君は、僕の相棒だ」と、語る。


「あ、貴方は、燐瞳の────」


 少年の語る言葉に、薙は覚えはなかった。だが、想像はついた。


「そう、僕は燐瞳の兄────弓栄春人だ」


 少年が名乗ったのと同時に、和睦が鈴の音を鳴らした。失った主人を迎えるような、そんな音だった。


 ☆☆☆


「そんな、貴方はもう……」


「覚えていないのも無理はない。君は、それこそ何百年もの間、和睦に封じられていたんだから」


「そうじゃない!? 貴方が弓栄春人なら、会うべきは僕じゃない! 燐瞳さんだ!」


 突き出した薙の右手は、春人をすり抜けた。その勢いを抑える事は出来ず、鎮座する和睦の上に倒れ込んだ。大きな音を立てて和睦が台座から床に転がった。


「────訳あって燐瞳には会えない。僕が君の前に現れたのは、継承権を行使するため。そのために、アメリアに運んでもらったんだ」


 薙の持つ金剛鈴は、弓栄春人の魂の一部が変化したものだと彼は語る。


「君が和睦に拒絶された時、アメリアに抜いてもらう事も考えた。でも、あの祓いの力は君のものだ。君が抜くべきだ。金剛鈴を手にしている今の君なら、和睦を制御できる」


 和睦の継承権は、未だ春人にある。だからこそ、薙は刀を抜けなかった。しかし、継承者の魂を譲渡されたことで、抜刀の権利は得たはずだと、春人は倒れた薙へと振り返った。


「僕は、和睦を”閻魔薙”と呼んでいた。君の名前だ。連盟に伝わる”分離”の力を秘めた宝刀。次の継承者は、元となった君しかいない」


「分離の力? 不動明王の剣は、罪を洗い流す力ですよ?」


「閻魔薙の力……いや、和睦の力は、二つの工程を踏んでいる。君の力は、その二段階目なんだよ」


 歴代の継承者が隠し続けてきた和睦の秘密。春人は、それを知っていた。


「今の和睦は、継承者の望むものを分離し、分離した対象に倶利伽羅の力が働いている」


 本来、和睦には、役割を分離し、剣に封じる力が備わっている。神や閻魔にとって、役割は命と言っても過言ではない。だからこそ、和睦は神の世界で抑止力として働いていた。


 和睦は、閻魔界で薙の力を封じた後、現世に落ちたことで性質が変化し、封じる能力は閻魔の力に置換された。


 その和睦を、連盟の人間は”罪を祓い落とす刀”だと勘違いし続けていた。


「なんで、そんなことを貴方が? 周芳さんは、祓いの力としか言っていなかった」


「神から与えられた知識の断片だよ。僕は、ハヤトに身体を乗っ取られた時、知識を共有している」


 災厄の神は、和睦を調べ尽くしていたと春人は語る。


「────倶利伽羅では、アルベルトからハヤトを分離できない。でも、和睦なら、閻魔薙なら、それが可能だ。ハヤトの意思・・・・・・を分離し、彼を浄化してくれ」


 薙は立ち上がった。向かいあう薙と春人の目が合った。


「閻魔薙……君に、和睦を継承する」


 継承権は行使された。


 はずだった。


 ☆☆☆


 二人の間に数秒間の間があった。風が扉を揺らす音だけが耳に届く。


 ふと、春人の顔に陰りが見えた。


 想定と違う……そう言っているような表情だった。


「────閻魔薙?」


 床に転がる和睦へ視線を移した彼は、不安そうにそう言った。


 和睦からは何も聞こえない。


「なぜだ、閻魔薙!? 僕が”継承する”と、そう言えば権利は彼に移るだろ!? 森之宮さんから僕に継承した時のように、彼に権利を与えてくれ!?」


 動揺する春人の顔に焦りが見えた。まるで、彼に残された時間が、残りわずかだと言っているような、そんな顔だった。


「すみません。僕は、継承できません」


「どうして!?」


 春人は、薙の言葉を遮って、床の和睦に触れようとする。だが彼の手は無慈悲にも和睦をすり抜ける。苛立ちから、春人の顔が歪んだ。薙は、異様な雰囲気の彼に近づく。


「燐瞳さんのためにも、僕は、和睦を継承するわけにはいかないんです」


「違うんだッ!? 君が継承しなければならないんだッ!? 和睦の継承者には、歴代の────!?」


 何かを言いかけた春人の姿が、煙のように消えた。


 ☆☆☆


「ちょ、ちょっと!? なにやってるの!?」


 本殿の入口から声がした。薙が振り返ると、燐瞳が慌てた様子でこちらを見ている。薙の足元には、台座から転げ落ちた和睦があるのだから、燐瞳が騒ぎ立てるのも無理はないのかもしれない。


 今、目の前で起きた現象を燐瞳に説明するべきか。それとも黙っておくべきか。薙は、口を開いたものの言葉が上手く出てこない。


「薙くん、あの────」


「ご、ごめん、燐瞳さん! ちょっと、金剛鈴のテストをしてて」


 嘘は言っていない。しかし燐瞳の神妙な顔つきが変わることはなかった。


「────さっき、お兄ちゃんの名前が聞こえた」


 燐瞳の言葉に、薙は顔を背けた。


「ねえ! 正直に答えて!? もしかして、ここに────」


「えぇ、いましたよ……弓栄春人を名乗った人物がさっきまで」


 忽然と姿を消した燐瞳の兄、弓栄春人。彼が薙に、和睦の継承を試みたと、全てを話すしかなかった。


「訳あって、燐瞳さんには会えないとも……」


「お兄ちゃんは、生きている……?」


 燐瞳は、彼女の知る限りの情報を薙に話し始めた。


 ☆☆☆


 十年前、私は小学校に通い始めたばかりだった。だから、この記憶が正しいのか、未だに分からない。


 “影の住人達”と名乗る集団が、日本の各地で怪事件を引き起こし、連盟と幾度となく衝突を繰り返していた。


 影の住人達のリーダーだったハヤトは、漆黒のローブを身に纏い、執拗に私の兄を狙っていた。兄の心を追い詰めるために、当時、兄を慕っていた女性を罠にかけ、人質に取ったのだ。


 “彼女を助けたいなら、俺とサシで戦え”


 それが、ハヤトが兄に出した条件だった。兄は、条件を飲み、伊吹山の頂上でハヤトと対面した。


 兄は、私達を巻き込まないよう、たった一人で向かった。でも、私と父は、急いで兄を追った。嫌な予感がしていたからだ。高松先生の霊視で居場所を割り出し、現地に着いた時には、既にハヤトは身に纏ったローブを脱ぎ捨てていた。


 その場所は、月がよく見える断崖の前だった。


 ローブの中から現れたのは、兄と瓜二つな少年だった。違いと言えば、兄の着けていた眼鏡を、ハヤトはかけていなかった。その程度の違いしかなかった。


 そこで初めて、ハヤトの正体が、”弓栄ゆみえ 隼人はやと”だと知ったのだ。私の兄、弓栄春人の双子の兄になるはずだった男こそ、影の住人達を束ねる首領だった。


 彼が、伊吹山を指定したのも、山が神の封印の一部だったからだ。もちろん、連盟側もそれを知らなかったわけではない。五つある封印の地点に、連盟員を警備に向かわせていた。


 ハヤトは、自身の正体に動揺した兄の心の隙間に入り込み、その身体を支配してしまった。そして、あろうことか、腰の閻魔薙を抜き去ると、地面に深々と突き刺したのだ。


 伊吹山を包み込む光を合図に、他の四地点に配備されたメンバーが各封印を破壊しにかかった。連盟員は抵抗した。行方を眩ませていた蓮華君すら、鵺との戦闘には加担していた。


 兄の身体を支配したハヤトは、シヅキちゃんを呼び出し、最後の封印を解きにかかった。父は、その場に割って入ったが、私は動けなかった。


 それは、私がまだ子供だったからじゃない。自分の知らない全くの別人が、兄の姿で話している現実を受け入れられなかった。父と話す彼から、兄の意思は一切感じられなかった。知らないというのは恐怖だった。


 “お兄ちゃんは、いなくなってしまった”


 不意に、頭に浮かんだ。そう考えるだけで視界が暗転した。目の前を見たくなかった。兄の姿で、兄の声で、父を罵倒するハヤトが怖かった。


 耳を抑え、茂みの中でうずくまった。


 薄く開けた目が最後に見たのは、閻魔薙が兄の心臓を貫き、崖下に落ちていく光景だった。


 ☆☆☆


「────お兄ちゃんは、それから発見されていない」


 落下地点に到着した時点で、そこにあったのは鞘に納まった閻魔薙だけ。


「私は、閻魔薙がお兄ちゃんを貫いた時点で、お兄ちゃんの魂は……魂は……」


 もう、壊れてしまった。この世界から消滅してしまった。そう思っている。


「待ってください!? この刀和睦で命は奪えない。僕の倶利伽羅だってそうです!」


「閻魔薙が折れた時、雨叢雲剣の一部が修復に使われたの……その影響で、今の閻魔薙には、わずかに滅却の力が備わっているの」


 三種の神器を使わなければ修繕すら不可能だと、修理を担当した刀鍛治は言っていた。閻魔薙は、この世界の外側の存在だと。


「天帝様の宝……神様の道具を直すには、同じだけの力が必要……雨叢雲剣は、まさに打ってつけの代物だったの」


 床に転がった和睦を燐瞳は持ち上げると台座の上に静置した。


「だからさっき、継承が上手くいかなかったのか?」


「分からないわ……それに、本当にお兄ちゃんなら、なんで、なんで……」


 大粒の涙が床で跳ねた。薙は、奥歯を噛み締めて声を抑える燐瞳を静かに抱き寄せた。


「ねぇッ! どうしてッ! どうして、私に会ってくれないの!!!」


 薙の肩を、何度も燐瞳は殴打した。強く握られたその手は震えていた。


「どこに行ったの、お兄ちゃん!? ずっと、私を守るって言ってくれたじゃないッ!?」


 燐瞳は足の力が抜け、ずり落ちるように、その場にかがみ込んだ。その様は、今まで溜め込んでいた感情が一気に吹き出しているようだった。


「教えてよ……薙君……教えてよ」


「お兄さんは、僕に和睦を継承しようとした。でも、失敗した。だから、近いうちにまた現れると思う……その時に、僕から説得する。約束する」


 そんな約束は叶わないと、薙は、これから実感する。


 和睦と金剛鈴が、警鐘と言わんばかりに鳴り響いた。


 脅威を知らせる鐘の音に、薙と燐瞳は顔を見合わせ、同時に外に目を向けた。


 空の月が、真っ二つに裂かれ、何かが漏れ出ていることだけが、遠くからでも確認できた。


 ☆☆☆


「あれ、なに……?」


「そんな……あれが、災厄の神?」


 滴り落ちる赤黒い液体が、災厄の神なのだと、薙は本能で理解した。


 神といえど、元は同じ魂。現世の理には抗えないはずなのだ。


「何百年もの間、耐え続けた成れの果てなのか……?」


 落下地点は分からないが、一刻も早く、なんとかしなければならない。薙は衣を脱ぎ捨てた。


「暦ッ!!!」


 鳥居の前まで走りながら暦の名を叫ぶ。しかし、一向に現れない。


「暦ッ! どこだ!? 早く来てくれ!!!」


 少し遅れて燐瞳が涙を拭いながら走ってくる。過呼吸ぎみになっていたためか、途中で大きく咳き込んでいる。


「燐瞳さん、暦を呼んできて!!!」


 薙は、裂けた月に向かって、「十全たる空孔の法則パーフェクト・オブリヴィオン!!!」と叫ぶ。しかし、またしても空間に入口が開くだけに留まった。


「なんでだッ!?」


 全身を包む電流なんて、関係ない。今、月から溢れる災厄の神を、虚無の空間に閉じ込めなければならない。


「頼む……今だけでいいッ!!! 十全たる空孔の法則ッパーフェクト・オブリヴィオン!!!」


 何度も、全能術を発動しようとする。徐々に、入口の開く時間が短くなる。代わりに薙の表面の電流が増していく。


「十……全……たる……」


「閻魔薙ッ!!! もうやめなさい!!!」


 膝をつく薙の元に、シヅキが燐瞳と共に空間移動してきた。シヅキは衣を一着、薙に着せ、人間状態に戻した。


「全能術の理論を私に教えなさい……私が代わりにやるわ……これでも、空間の神の遺児よ」


「ダメです!? いくらシヅキさんでも、この術は────」


「案内人だって、全能術を使っていたわ。なら、私だって出来るはずよ」


「負担が大きすぎます!? まだ、死神の暦の方が耐えられる────暦は!?」


「それが、いないの……」


 燐瞳は息を切らしていた。暦のいた部屋は、読みかけの本が山積みになっているだけで、彼女の姿は見当たらなかったという。他の部屋も確認し、両親にも確認したが、神社のどこにもいなかったという。


「暦が、いない?」


「えぇ、私も一緒に探したから間違いない。燐瞳が霊視を使えれば一発なんだけど……」


「ごめん、シヅキちゃん」


「仕方がないわ。燐瞳は桜に連絡して! 閻魔薙は早く私に理論を教えて!」


 シヅキの指示で、燐瞳はスマートフォンを取り出し電話をかける。薙は、ポケットから浄瑠璃鏡を取り出すと、シヅキの首にかけた。


「鏡を通して、僕が全能術を習得した過程を追体験させます。言葉や文字で説明するよりも、その方がずっと早い!」


「ありがとう……何がなんでも習得するわ」


 シヅキは、鏡を撫でると、薙の手を強く握りしめた。

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