第24話〜衝突②

 ────お前は狩猟会から追放だ


 ────動物に好かれすぎて狩れないなんて馬鹿か


 ────俺がアルベルトを撃ったのは熊と間違えたからだ


 ────間違ったのなら仕方ないな……ミスは誰にでもある


 ────アハハハハッ!


 嫌な声が聞こえる。脳の奥底。随分と古い記憶。


 これは、肉体の覚えている最後の記憶か。


 まだ、アルベルト・ハンターが人間だった頃の。


 廃墟の屋上へ、小鳥が飛んでくる。それは、モズだった。ハヤトの伸ばす右手に着地し、彼は耳元へモズを近づける。


 ハヤトは何度もうなづいた。


「そうか、そうか、うん……二人ね……」


 小鳥と会話するハヤトに、絶句の表情を浮かべるニコラスと聖。二人は、ハヤトがおかしくなったとお互いに顔を合わせて確認しあった。


「────仲間がやられたか……相変わらず、加減の知らない奴だ」


 ハヤトは餌を与えると、小鳥を再び空に放つ。


「仇は取ってやる」


「あ、あの……ハヤト……あの」


 明らかに動揺したニコラスは、声を震わせながらハヤトへ近づいていく。


「ん? あぁ、見ていたのか」


 ハヤトは、「この身体の特性だ……変な目で見るな」と二人を一蹴する。


「聖くん……頼みがある」


 ハヤトは西に半分沈んだ太陽を指差した。それは、聖にとって、”光を蓄えろ”と言っているのだと理解した。次に、道路を挟んだ先にある山林を指差す。


「準備が整ったら、撃ってくれ」


 ────何発でも構わない。それこそ、”全能術”でも。


 ハヤトは確かにそう言った。


 ☆☆☆


「……蓄光できました?」


 ニコラスは、案内人をおぶった状態で閻魔姿の聖に話しかけた。ハヤトの指示を受けてから、十数分は夕日に手をかざしている。


 聖の背中には日輪が発生し、幾何学模様と共に時計回りにゆっくり回転している。


 回転が止まった。


「"光芒"と"斜陽"、それぞれ一回分ってとこだな」


 一息ついた聖は両手を眺めながらそう言った。


「弾数の多い"光芒"が最適かと」


「……そうだな」


 ニコラスに同意した聖は、先ほどハヤトが指差した山林に右手を向ける。


「生み出すのに協力してくれたカレンがいないのが残念だ」


 グッと足を踏ん張ると、聖の背中の日輪が強く発光し始める。


「繋げ、祭壇への架け橋……"十全たる光芒の法則パーフェクト・ラダー"!!!」


 詠唱と同時に、背中の日輪が頭上へ移動して円鏡に変化する。鏡に光が集中すると、鏡面から山林方向へ何百発もの光弾が連続で発射され続ける。


「────さながら、機銃のようですね」


 空中を埋め尽くす光の弾丸に、ニコラスは言葉を漏らした。天使の梯子の異名を持つ光芒の名が与えられる術にしては、いささか物騒。そう言っているようだった。


 目的地へ降り注ぐ光弾の雨。木々を薙ぎ倒し、地面の砂埃を巻き上げる音と様子が伝わってくる。


「こんなに派手に暴れて良いんでしょうか」


 こちらの行動が、一般人に目撃された場合をニコラスは心配していた。いくら人通りの少ない土地だからといって、これだけの轟音と光景だ。インターネットの普及した現代なら、一人でも目撃者がいれば明日のニュースで流れるだろう。


 それでも強行したハヤトは、何を考えているのか。ニコラスは、楽しそうに光弾を発射し続ける聖を他所に、一人、もの想いに耽る。


 ☆☆☆


「────おい……これ当たってるのか?」


 聖は、土煙の端で光弾が予想外の角度に弾き飛んだのを目撃した。


 十全たる光芒の法則パーフェクト・ラダーは、蓄えた光のエネルギーを無数の光弾に変換して射出する術。”神を拘束する”という”全能術”のコンセプトからは逸脱している上に、威力であれば神に遠く及ばないだろう。


 それでも、一発に込められたエネルギーは人間や怪異相手であれば十分すぎる。


 またしても、数発が別の角度に飛んでいくのが見えた。


 無数の光弾を弾き返せる人間がいるのだろうか。


「ハヤトは、誰が来るって!?」


「……そういえば、言ってませんでしたね」


 不穏な空気が屋上に漂う。


 光弾の着弾点で、紫電が発生した。その大きさは、ハヤトの放つ紫電など比べ物にならないほど巨大で、聖の光弾を一時的に消し去るほどの威力なのが、遠くからでも視認できた。


「なんだアレ!? ニコラス!?」


「まさか、源蓮華……!?」


 空中を高速で移動する点が見える。その点が人間だと理解した瞬間、聖の頭上の円鏡が真っ二つに両断された。


 人間の持つ日本刀は、怪しく紫電を纏い、鏡を切った勢いのまま屋上の床を殴打した。その衝撃で紫電が弾け、衝撃波として聖、ニコラス、案内人は場外へ弾き飛ばされた。


 ☆☆☆


 三人の叫び声が廃墟に響く。肉体を持つニコラスと案内人ですら、屋上の蓮華が放っている紫電に触れれば火傷では済まない。霊体の聖は尚更だった。


「ふ……ざけるなぁあああああ!!!!!」


 落下しながら、聖は右手で光線を放つ。一直線に蓮華の頭部を撃ち抜きにいった。


 蓮華はガントレットで光線を殴り、軌道を逸らす。


 それを見越していたのか、聖は日輪を発生させ、光と共に高速移動し、蓮華の側面へと出た。背中の日輪が円鏡に変化する。


「十全たる太陽────」


「遅いッ!!!」


 詠唱よりも、蓮華の一撃の方が早かった。横一文字に放たれる一閃は、聖に致命傷を与える。傷口に紫電を発生させながら、閻魔聖は二つに分かれて地面へ頭から落ちていく。


「聖くんッ!? 嫉妬レヴィアタン!!!」


 片翼で浮遊していたニコラスは、聖を案内人に任せるべく、彼女を地面に下ろすと、再び飛翔する。その翼を尾に変化させ、目にも止まらぬ速度で蓮華を貫きにかかった。


「報告にあった大罪の力か……」


 嫉妬の尾も、ガントレットに捕獲される。相当な力で掴まれているのか、ニコラスの表情が痛みで歪んだ。


 蓮華の姿は異形へと変わっていた。額から伸びる歪な二本の角。半透明な角は、蓮華の身体から発せられる生命力の集合体。溢れる生命力は、オーラとして全身からとめどなく溢れている。


 さらに、彼の短髪は、今は腰まで伸びる白髪へと変わり、瞳の色も茶から紫へと変化している。


「お……に……!?」


 嫉妬の尾を引っ張られ、屋上へと釣り上げられたニコラスが見たのは、人でありながら鬼へと変わった男の姿。


 “あんな化け物に勝てるのなんて、蓮華君くらいよ!?”


 ニコラスは、廃校でシヅキの口から発せられた一言を思い出していた。あれは、間違いではないかもしれないと、本能が知らせている。目の前の鬼に、勝てるビジョンが見えない。


 だが、ニコラスはそれを認めることができない。


「────暴食ベルゼブブ!!!」


「────分解ブレイク・ダウン!!!」


 翼から放たれる黒い粒子と、ガントレットから放たれる放射状の紫電が衝突する。粒子が紫電を、紫電が粒子を、互いに対消滅させていく。空を染める黒と紫の光。


 押し切ったのは、蓮華の放つ紫電だった。暴食ごと、ニコラスの全身を紫電が弾き飛ばし、再び空中に放り出される。


「アメリアッ!!!!!」


 蓮華の声にニコラスが反応した時には、彼の左腕と右足が切断されていた。落下するニコラスを追い越すアメリアのブレードが腕と足を切ったのだ。切り飛ばされた左腕の肘から先、右足の膝から先は、空中で煉獄の炎に包まれ、灰燼と化した。


 ☆☆☆


 ────ふ、ふざけるな……こんなところで……終わってたまるかッ!


 蓮華によって、上半身と下半身を分けられた聖は地面を這っていた。上半身だけとなっても、彼は闘志を失っていなかった。這ってでも屋上を目指していた。


 聖の身体には電流が発生し、鬼籍は警告文を表示し続けている。このままでは消滅すると、何度も聖に伝え続ける。


「……うるせぇ!」


 空中に浮かぶ鬼籍を掴むと地面に叩きつける。


「あの男に……残った力を……」


 廃墟の入り口を目指す聖の前に、案内人が立ち塞がった。彼女は、聖の下半身を必死に引っ張ってきていた。下半身を近くに置くと、彼女は衣を全身に覆い被せた。


 衣によって聖の姿が人間状態に戻される。上半身と下半身はくっついていた。


「カレン言ってた……衣、キズ治す……聖、死んじゃダメ」


「お、お前……喋れるようになったのか……」


 聖と案内人の頭上が、黒と紫の光に包まれる。その直後、ニコラスの絶叫が響き、遠くで彼の肉体が地面に激しく衝突して跳ねるのが見えた。


 ニコラスの近くには、修道服を着た女が降り立つ。手に持つ金色の燭台から伸びる青白色のブレードが、ニコラスに向けられていた。


「案内人ッ! こ、これを使えッ! ニコラスを頼むッ!!!」


 一瞬、閻魔に戻った聖は腰の太刀を抜くと案内人に投げ渡した。再び衣を纏った聖は、うつ伏せのままニコラスの方へ這い始める。


 聖の太刀……倶利伽羅を拾った案内人の髪が青白く発火する。指先から放出する煉獄の炎が倶利伽羅の刃の周辺を包み込んだ。


 ☆☆☆


「────エクストラ、追い詰められる気分はどうだ?」


 うつ伏せのニコラスの首筋に後ろからブレードを突き立てたアメリアは冷徹な瞳を向けている。その息は荒く、興奮している。


「少しは俺の痛みが分かったか?」


「ア、アメリアッ!? お前もいたのかッ!?」


「話せよ? 財団を崩壊させた理由を……」


 ブレードが左足を切断する。四肢の内、右腕以外を切断されたニコラスは絶叫をあげた。


「早く話せ……そして謝れ……俺にッ! メイスにッ! そしてジョーカーに詫びて死ねぇッ!!!」


 復讐……アメリアの抑えていた感情がニコラスを前にして爆発した。ニコラスを捕え、謝罪をさせる。これは彼女の本心で、嘘はなかった。しかし、そんな思考など今のアメリアの頭からとんでいた。可能な限り苦しませて、目の前の悪魔を殺したい。その衝動を抑えられない。


 残された右腕を切断しにかかる。五体満足で殺しはしない。両手両足を奪い、次は下半身を奪わなければ。親友と居場所を失った痛みを、ニコラスにも体験させなければ気が済まない。


 怒りのまま振るったブレードが、太刀の刃で防がれ火花を散らした。横を見ると、黒いワンピースの少女が歯を食いしばって太刀を持っている。


 復讐を邪魔された。アメリアの怒りがさらに増大する。


「────踏み潰せ、強欲マモン!!!」


 アメリアの立っている場所に影ができる。上空から、黒く巨大な足が降ってくる。地面に衝突した強欲の足は、ニコラスと案内人ごとアメリアを鉄柵に弾き飛ばす。


「今日は木曜日……やはり寵愛の減った貴女になら、大罪の力も通用するわけですか」


 土煙の中、ニコラスは立ち上がる。欠損した両足と左腕は、黒い影が形取っている。これは強欲の手足を一時的に借りているのだ。


強欲マモン……しばらくは借りますよ」


 グラリと、ニコラスの姿勢が揺らいだ。義足に慣れていないのもあるが、蓮華の紫電を真面に受け、さらに燭台の斬撃を食らっている。既に限界なのだ。


 アメリアにとっては好機。それを彼女が見逃すわけがなかった。


 鉄柵から空中に飛翔したアメリアは、四枚の翼を展開したままニコラス目掛けて突進する。


 しかし二人の間に案内人が割って入る。アメリアのブレードと、案内人の太刀が何度もぶつかり合う。案内人はアメリアの足を掴み、二人は空中に舞い上がった。手を離した案内人は、その手をアメリアに向ける。


「────十全たる閃光の法則パーフェクト・ノヴァ!!!」


「────煉獄を支える炎柱ピラー・オブ・アビス!!!」


 衝突し合う煉獄の炎。二人の最大火力。巨大な火球と炎柱は、大爆発を起こし、二人は爆風で廃墟の二階の窓から室内に叩きつけられる。


 十全たる閃光の法則は、草薙剣による燃料供給があって初めて最大火力となる。つまり、公園でアメリアに放った術と、今回の術では威力が全く異なる。煉獄を支える炎柱で相殺できている事実がそれを裏付けている。


「お前が、公園で狙撃してきた奴かッ!!! 邪魔すんじゃねぇ!!!」


 室内でも繰り広げられる剣戟。防戦一方の案内人は倶利伽羅を使ってアメリアのブレードを逸らし続ける。


「焼き払う……」


 後方へジャンプした案内人は、倶利伽羅を地面に突き刺した。太刀の柄から刃を通ってコンクリートへ蒼炎が広がる。太刀の突き刺さった地点からアメリアの方へ、蒼炎の壁が迫り来る。


 蒼炎のグラスは、迫り来る同じ炎によって機能を失う。案内人の位置はアメリアの目では追跡できない。案内人は攻撃と奇襲の両立を図ったのだ。


 ────こざかしい!!!


 右手の燭台を同じくコンクリートに突き立て、アメリア側も炎の壁を作って相殺する。左手で腰の鐘を外すと軽く振った。音波が室内で反響し、案内人の位置を浮き彫りにした。


 案内人は、両手に蒼炎を纏い、アメリアの右斜め前から迫ってきていた。炎の壁が衝突し、青い火の粉を散らす中、蒼炎の拳が修道服をかすった。


「寵愛を舐めるなッ!!!」


 金剛鈴による空間把握。そして寵愛の直感。視覚情報を奪われようと、これらがある限りアメリアの優位は揺るがない。


 コンクリートから抜き放たれた燭台が案内人の髪を切り裂き、振り向き様に心臓目掛けて突き出された。そのブレードを、素手で掴む案内人。彼女の両手の蒼炎が強く燃え上がる。


 掴んでいる部分がバチバチと火花を散らし、案内人の表情が歪んだ。生命を燃やされてもなお、アメリアを止めようと必死なのだ。


「────なッ!?」


「ニコラス、聖、殺させない……私の家族」


「家族だと……!? 俺から多くを奪っておいて、そんな口を叩くなぁッ!!!!!」


 強く、押し込まれるブレードは、ゆっくりと、案内人の心臓へ近づいていき、ついに先端が左胸を貫いた。


 ☆☆☆


 廃墟の二階の窓から、蒼炎が吹き出し、建物が大きく揺れた。それは、屋上にいた蓮華とハヤト。地上にいたニコラスと聖に目撃された。同じ階層にいれば命はなかっただろうと、目撃した全員が息を呑んだ。


「あ、案内人……」


 蒼炎の噴出で、弾き飛ばされた倶利伽羅が、地面に這いつくばる聖の前に落ちてくる。突き刺さった倶利伽羅の鍔には、案内人の衣服の一部が引っ掛かり、風で靡いている。


 同じく、金色の燭台が地面に転がった。先端の形状から、アメリアが使っていた燭台で間違いないとニコラスは理解した。


「相討ち……」


 聖の後ろで壁を背に膝立ち姿勢のニコラスが、小さく震えた声を出した。ポツリと、ニコラスの頬を濡らす水滴。気が付けば、空は雲に覆われ雨が降り始めていた。


 依然、屋上からは蓮華とハヤトが衝突する轟音が響いてくる。雨に打たれ、全身を濡らすニコラスは、片翼を展開させた。


「案内人を……確認してきます」


 右腕以外を失い、満身創痍ではあるものの、油断はできない。まだハヤトが蓮華と戦っているのだ。それに、アメリアの死亡を確認しなければ安心できない。


 ────寵愛があるといえど、煉獄の炎は生命力を焼き尽くす


 あの大爆発を直撃したとなれば、寵愛もろとも消し炭になっていてもおかしくない。


 割れた窓枠を右手で掴み、二階へ入ったニコラスが目にしたのは、うつ伏せに倒れた修道女と、案内人だった遺体。二人から生気は感じられなかった。


 生命力がゼロになったことで、彼女の元となった燭台が遺体の近くに転がっている。


 強欲から借りた足で着地する。


「案内人は……対アメリア用の怪異……その役目を……全うしましたね」


 右手を胸に当て、案内人へ敬意を払う。手を当てたことで、ニコラスは自身の鼓動が早くなっていることに気が付いた。


 胸を締め付ける痛み……案内人と過ごした記憶が脳裏をよぎる。


「感傷に浸るなど……辛いだけです」


 ────人間の気持ちを知りたいと、他の悪魔を取り込んだ?


 ────傲慢ルシファー……名は体を表すとは、よく言ったものだ


 ────それで、感情を理解したお前は、何を望む?


 蘇るジョーカーとの会話。財団に拾われた、五年前の記憶。


「ジョーカー……貴方は理解してくれませんでしたが、私の結論は変わりませんよ」


 人間の感情を消し去るため、神を利用し、ことわりを改竄する。


 これが私の結論なのです。


 ☆☆☆


 燭台を拾おうと、遺体に近付き手を伸ばした時、遺体の上の燭台が揺れた。カタカタと、何かに反応するように揺れた燭台は、天井付近まで飛び跳ねた。


 同時に、息がなかったはずのアメリアが高く飛び跳ね、案内人の燭台を掴んだ。彼女の背中には、二枚の翼が展開されている。


 アメリア・シルフィウムは、まだ生きていた。


 それも、未だ寵愛を一つ残して……


「────アメリアァ!!!!!!」


 空中の彼女へ槍の如く突き出される嫉妬の尾。沸々と湧き上がる怒りの感情が、ニコラスの中の”憤怒”を刺激する。今まで片翼だった背中に、傷だらけの黒い翼膜が出現する。まるで、おとぎ話に出てくるドラゴンの翼。


 アメリアが案内人の燭台を掴むと、先端の松笠が開き、青いブレードが形成され、嫉妬の尾を両断した。


 切断された尾の先端は、床で跳ねると灰塵と化した。”嫉妬”を失ったニコラスの右手の爪が鋭く尖り始め、龍鱗が見え始める。


「────憤怒サタン……大人しく引っ込んでいろ」


「俺が死ぬのは、貴様を殺した後だ……ニコラスッ!!!」


 アメリアの絶叫と共に、廃墟の外で、豪雨と共に稲妻が走った。


 青白色のブレードがニコラスの眼前に降りてくる。ニコラスには、時間が止まって見えた。死の瞬間、人の感覚は異常なほど過敏となり、時間感覚を狂わせる。


 咄嗟に突き出した右腕に、龍鱗が見えた。今まで、”怠惰”と”色欲”で押さえつけ、代わりに”嫉妬”に依存していたニコラスの感情。


 彼の意思に最後まで抗っていた悪魔。


 眼帯の奥から、声がする。


 “憤怒サタン”が顕現する。


「────分かっているだろう? 戦場で怠けている場合ではないと。色物にうつつを抜かしている場合ではないと。そうだ。戦場で必要なのは、怒りだ。ワシを抑えきれないのはそのためだと、理解しているだろう? 傲慢ルシファー!!!」


 ニコラスの奥底から空気を震わせる重みのあるしゃがれた声がした。それは、アメリアの耳にも届いていた。彼女は、目の前で、何が起きているのか、現状を飲み込めない。振り下ろしたブレードが、ニコラスを切断するのを、ただ待つばかり。


「────殲滅せよ……憤怒サタン


 ニコラスの口から、ニコラスではない声が聞こえた。


 眼帯が、吹き飛んだ。右目があるはずの部分には、黒い影が渦巻いている。その渦の中心から、歪な三本指の腕が伸び、ブレードを掴んだ。腕は、龍の前足だった。表面で輝く黒の龍鱗が、煉獄の炎と火花を散らす。


 空中で止まったアメリアに、傷だらけの黒い翼膜が叩きつけられ、彼女は、後方のコンクリートの壁に激突した。彼女の左腕が、肘を軸に真逆に折れ曲がる。


「怒りは、抑えれば抑えるほど跳ね返る。お前傲慢が悪いのだ。最初から、ワシは融合に反対していた。それを、その傲慢さ故に押し通した貴様が悪いのだ」


 声の主は、右目から生えた腕でニコラスの頭頂を鷲掴みにする。


「暴食は分解され、嫉妬は焼却され、色欲も湧き立たず、怠惰の余裕もない……残った強欲を支えに、傲慢な貴様が、憤怒を鎮められるわけがないだろう」


 ミシミシと、頭蓋骨に圧力が加えられ、ニコラスの表情が苦痛に歪んだ。


「融合を解くか、身体の主導権を全て寄越せ」


 従わなければ殺すと、憤怒サタンのしゃがれた声が脅しをかける。


「……アメリア天使と、蓮華が攻めてきているのですよ」


「じゃあ殺せばいいだろう」


 ニコラスの意思に反して右手がアメリアに向けられた。右目から生えた龍の腕が、右手の向いた方角へ、歪に突き進む。節が何箇所もある龍の腕は、くねりながらアメリアの心臓目掛けて突きを放つ。


 ☆☆☆


 ────ニコラスに何が起きた?


 激痛の中、アメリアは目の前で変化するニコラスを凝視していた。右目から生えた龍の腕。右半身を覆う龍鱗。しゃがれた老人の声。


 “憤怒サタン”……奴はそう言った。大罪の名を持つ悪魔の名前。ニコラスが、悪魔の力を借りているのを知ったのは、閻魔の報告を受けた後だった。しかしその中に、憤怒はなかった。


 財団時代、奴は自身の正体と力を秘匿し続けた。七大天使の寵愛の前では無力だと、自覚があったのだろう。


 だが、目の前のやり取りを見るに、ニコラスと憤怒サタンの間には、何かしらの確執があるはず。今まで、奴が片翼だったのも、それが関係しているはずだ。


 ────仲間割れしている間に、腕を治さなければ……


 衝突の際、左腕をクッションにしたことで致命傷は避けられた。翼を展開すれば、奴らも気がついてトドメを刺しに来るだろう。お互い満身創痍だとしても、片腕で目の前の化け物をなんとかできるとは思えない。寵愛の力で、腕を治し、隙をついて反撃する。


 天使の翼を展開しようとした時、俺の目の前に誰かが割って入ってきた。足元しか見えないが、誰だか理解できた。ワインレッドのロングコートに見覚えがあった。


 ────“弓栄 春人”……なぜ、ここに……


 ニコラスと憤怒は、言い合いを続けているお陰か春人に気が付いていない。


 春人は、俺を見下ろし、こう言った。


「閻魔薙を呼べ……君ならできる……君なら、呼べる」


「閻魔……薙?」


 閻魔の倶利伽羅が、ニコラスにとっての弱点だと、報告で聞かされていた。わざわざそれを伝えるために、コイツ春人はやって来たのか……


「閻魔薙なら、ニコラスから大罪の力を”分離”できる」


 罪を洗い流す力……倶利伽羅の持つ能力を使ってもらえというのか。


「このままだと、君が死んでしまう……君を死なせるわけにはいかない」


「寵愛は……まだ、一つある」


「その寵愛を失えば、君は……!?」


 春人の姿が透け始める。高松屋敷の時と同じく、時間が来たのだろう。


「まだ継承が済んでいない────」


 話し終える前に、春人が立っていた地点に瓦礫が落ちてくる。屋上の床が破壊され、その一部が落下したようだった。


 砂埃が散った時、既に春人の姿はなかった。


 直後、「じゃあ殺せばいいだろ」と、しゃがれた声が響き、龍の腕が俺の心臓を貫こうと高速で迫ってきた。


 ☆☆☆


 耳障りな高音が、廃墟に響き渡った。その直後、龍の腕が、修道服の表面で静止した。息が止まったまま、ニコラスを見ると、奴は、目を見開き、顔から色を失っていた。


 ズズ……と、這いずるように龍の手が奴の右目に戻っていく。まるで、巻き尺を伸ばして、手を離した時のように、素早く、暴れながら。


「おのれぇ!!! この音は“魔笛まてき”か!? 邪魔をするな笛吹男!!!!」


 しゃがれた声が絶叫した。彼の心を表すように龍の手が周囲の壁を破壊する。その抵抗も虚しく、腕は右目に収納された。


「────そうですか。はい。分かりました。」


 声がニコラスに戻っている。一人、天井に向かって会話している。しかし、どこか機械的だった。録音された音声を、順番に流しているようで、感情がこもっていない。


「すぐに向かいます。」


 左肩に黒い片翼を展開させ、一瞥いちべつをくれると、割れた窓から豪雨の中に身を投じた。


「アメリアッ!!! ニコラスを追えッ!!!」


 頭上の穴から、蓮華の声が室内に響いた。


「奴は、ニコラスは────」


 ────神を迎えに行った!!!


 それは、腕の痛みをも忘れさせる言葉だった。

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