第26話〜災厄

 日本の某繁華街。夜更けにも関わらず、昼間に匹敵する明るさを放つこの街のアーケード街に、数十人の人々は立ち往生していた。外は豪雨と突風と雷鳴が轟いている。全身を濡らしたスーツ姿の男性が、カバンを抱えながら走ってアーケード街へ逃げてくる。


「こりゃ台風か?」


「天気予報じゃ、ここまで酷くなかったぞ?」


「夜遊びしないで帰ればよかった」


「電車、止まったってよ」


 人々が、口々に言う。アーケード街の入り口から見た街道は、行き場を失った雨水が波を立てている。


 落雷の閃光に、その場の全員が身を震わせる。近くに落ちた雷の轟音は、全員の思考を一時的に奪うのには充分すぎた。


 閃光に、一瞬照らされた街道の奥に、自転車を手押しする高校生の姿が見えたが、その場の誰も、彼を気に留めようとはしなかった。


 ☆☆☆


 ────最悪だ。塾が終わったら迎えに来るって言っていたのに。


 水の染み込んだブレザーは、鉛のように重い。まるで、今の僕の頭の中のようだ。


 父さんも母さんも、誰も僕を分かってくれない。


 僕は、勉強が何の役に立つか理解できない。テストなんて、大人のための判断材料だろ。それがまるで僕の全てのように扱いやがって。


 大人は信用できない。みんな、平気で嘘をつく。


 “テストの点が低くても、頑張ったならそれでいいのよ”


 ────去年、そう言っていただろ、母さん


 “受験が近いのに、こんな結果じゃ近所を歩けないわ”


 ────僕は、頑張ったんだぞ? 大事なのは結果じゃなくて過程じゃなかったか?


 少年の心に沸々と湧き上がる怒りの感情は、言葉となって口から吐き出された。


「勉強なんて、知識なんて、何の意味もない」


 突風が、少年の身体を自転車ごと横転させた。水たまりに倒れたことで、激しい水飛沫が舞った。


 声が聞こえた。低く、威圧感のある声。だが、聴くたびに心の奥を震わせる不思議な心地よさを含んだ声。とても印象的だった。


 ────なるほど。お前は、知識の本来の使い方を知らないようだな。


 声は、耳を塞いでも聞こえてくる。頭に直接届いているとでも言うのだろうか。そんな非科学的な事なんてあり得ない。


 ────あり得ない? 神である俺なら、この程度の芸当……出来て当然だ


 声の主は自らを神と名乗った。


「神? そんな、馬鹿な……」


 上半身だけを起こし、周囲を見渡すが、明るく輝く飲食店や遊技場の看板と、それに照らされた激しく降り注ぐ雨粒だけが視界に映る。


 ────信じられないか? まぁ、お前のような奴もいるだろうな


 神は、少年の心を見透かしたように、


 ────大人たちへ不満があるようだな……不満はあるが、逆らえないもどかしさ。哀れ……実に哀れだ。力なき者は、現状を打破できない。まさにそれを体現している。


 そう言った。少年は、倒れた自転車のサドルを殴ると声を絞り出した。


「神なら、僕を救ってくれ……なれるなら、神にでもなってみたいさ」


 ────全知全能の力を手に、大人達に一矢報いたいのか。浅はかな考えだな。一つ教えてやろう。神は、全知全能ではない。それぞれに専門分野を持たされた、偏った知識を振る舞う哀れな存在だ。決して、お前の想像する救済者などではない。


「じゃあ、何のために存在しているんだよ!?」


 ────それは、取るに足りない与太話だ……


 少年の頭上に、赤黒い液体が降り注いだ。粘度の高い液体は、複数の塊となって、少年に垂れていく。雨が当たろうと、流れ落ちないそれに包まれた少年が目にしたのは、神へ祈祷する世界中の人間の姿だった。


 皆、神に助けを求めている。その姿と声が、全て同時に頭に流れ込んでくる。目を開けていても、現実の景色なんて入ってこない。


 不治の病に身を侵された老人。


 瀕死の重傷を負った男。


 讃美歌を歌う修道女。


 ゲームのランキングトップを狙う子供。


 電車の中で腹痛と闘う青年。


 志望校への合格を祈願する受験生。


 誰だって、救いを求めている。


 ────くだらない願いだろう。こんな戯言が、常に俺には届いている。神という”役割”を与えられたばかりに、自分の意思では切れないのだ。もう、神になんてなりたいと思わないだろう?


 少年から返事はない。人間の脳では、この過剰な情報を処理することが出来ないのだ。目を開いているものの、口から泡を吹いた少年が、水溜りの上で痙攣するばかりである。


 それでも、赤黒い液体は少年に上空から降り注ぎ続けている。


 ────会話の礼に教えてやろう。蓄えた知識……情報コードの使い方を。


 ☆☆☆


 依然、雷雨は勢いを増していた。空中で衝突を繰り返すニコラスとアメリアは、黒と白の翼を必死に羽ばたかせ、亀裂から漏れる異様な液体の落下地点へと急ぐ。


 空中から見えたそこは、繁華街の中心。アメリアの目に映る生命力の密度がそう告げていた。その土地の一部に、異常な生命力が存在している。亀裂の中身がそこにあるのは明白だった。


 地上に降りた二人を出迎えたのは、一人のブレザー姿の少年。彼の身体は、赤黒い液体に包まれ、それらが身体の一部のように意思を持ってうねりを見せていた。


「あ、溢れている……」


 口を開いたのは、ニコラスだった。翼を仕舞うのも忘れ、目の前の少年を凝視したまま震えている。震えを抑えようと右手で左手の二の腕を掴み、自身を抱きしめるものの、止まらない。


 本能が、”逃げろ”と、叫んでいる。


 アメリアも、同じ感情を抱いていた。この場所に来るのではなかったと、自身を責め立て、他の思考を妨害する。


「……ルシファーに、ガブリエルか? いや、ウリエル? おかしいな。天使の残り香が複数あるなんて」


 少年がこちらに気が付いた。いや、気が付かない方がおかしい。天から飛来した二つの影は、悪天候の中でも一際目立つ存在。周囲の一般人ですら二人に視線を向けているのだから。


「まぁいいか」


 パチンッ! と少年は指を鳴らした。それを合図に、落雷がアーケード付近の飲食店を貫き爆発を起こした。周囲の一般人の悲鳴が響き渡り、視線がそちらに集中する。


「素晴らしいだろう? 情報コードを完璧に理解すれば、現象すら意のままなのだ。もちろん、仕事分の熱力学エネルギーは、必要だがな」


 少年は、まるで自分自身に話しかけるように、火柱を建てる飲食店を遠巻きに眺めながら、そう言った。少年の周囲の液体の一部が、青白い電流に包まれ空中に霧散した。


「やはり、ここ現世では消耗が激しいな」


 右手で目の前を軽く払うと、突風がニコラスとアメリアを襲った。姿勢を崩すほどの風圧が二人を人気ひとけの少ない路地へと追い込んだ。


「さて、お前達は何用かな?」


 コンクリートに叩きつけられた二人が立ち上がった先を、少年が封鎖する形で立っている。周囲の液体は、電流を発生させ続けていた。


「か、神よ……私は────」


 ニコラスは、狼狽しながら身体を必死に動かして意思疎通を図った。


「私は、ニコラス・クラウン……貴方様を、お待ちしておりました」


 なんとか口にできたのは、これだけだった。ニコラスの身体は、少年の周囲を漂う液体に薙ぎ払われ、雑居ビルの壁に叩きつけられたのだから。


 骨の砕ける音がした。耳にしたら忘れられない不快な音だ。それすら、雨音がかき消していく。少年の表情は、明らかに苛立ちを見せていた。


「何が、待っていた、だ……貴様は、俺の思想に共感すらしていない。貴様が何を働いたと言うんだ!? 俺を助けた訳でもない! 俺を解放しようと動いたのは、ただ一人だけ……ただ待つだけなど、誰にでもできるだろう!?」


 少年の怒号が響き渡る。自身を理解すらしていない者に、軽々しく、待っていたなどと、彼は言われたくないのだ。


「ルシファー、傲慢な貴様のことだ……俺を利用したいのだろう?」


「わた、しは、ハヤ……トと共に……」


 絞り出した声は、小さすぎて神には届かない。


 怒りの矛先は、アメリアにも向かう。


「天使、お前もか? お前が誰なのか知らないが、お前も、俺を待っていたのか?」


 その問いに、「待ってなどいない! できれば、永遠に封じられていれば良かったのに!?」と、アメリアは叫び出したかった。しかし声が出ない。喉元まで上がってきた言葉が、その先に向かうことはなかった。


 ただただ、狼狽するアメリア。ジリジリと詰め寄られる彼女は、一歩ずつ後退する。


 彼女の背中に、誰かがぶつかった。


 その人物は、落ち着いた口調で少年へ話しかけ始めた。


 ☆☆☆


「────貴方様のお迎えですよ」


 アメリアの背後から声がした。振り返ると、口から血を流したハヤトの姿があった。その場に、蓮華の姿は見えなかった。


「笛吹男が何の用だ……? いや、その生命力は、ハヤトか!?」


 少年の声が上ずった。まるで、目の前のニコラスとアメリアが見えないのかというほど、彼の視線は、二人の背後のハヤトに注がれていた。少年は、二人の頭上を飛び越え、ハヤトの肩を何度も叩く。


「我が同志よ! よくぞ空間の捩れを正し、俺を解放してくれた! だがその姿はどうした? 弟の肉体を得たはずだろう?」


「……最後に春人が暴れたせいで、こんなことに」


 魂の破壊と消失。その結果、バックアップを使わざるを得ず、現在の笛吹男の姿なのだと説明すると、少年は、はっきりと肩を落とした。


「では、言霊も消えたか」


「申し訳ありません」


「いや、薄々分かっていた……お前ハヤトとの交信が途絶えた瞬間から嫌な予感はしていた。俺とお前が意思疎通出来たのは、言霊のお陰なんだからな」


 少年の肉体と連動して、周囲の液体も落胆するのがアメリアの目に映った。


 崇高なる神が、落ち込んでいる。文章だけ見れば滑稽だ。だが、ハヤト以外のこの場の誰もが、口を挟めなかった。


「十年間、空間が自然に開くのを待っていました。もちろん、ただ待っていたわけではありません。貴方様の動力源・・・をこちらのニコラス……ルシファーに集めさせました」


 ハヤトは、虫の息のニコラスに視線を移すものの、すぐに少年へと視線を戻した。


「ほう……なら、申し訳ないことをしたな、ルシファー。堕天使長を配下に置くとは、流石は同志。かつての仲間の鵺や雪女はどうした?」


「彼女達は……離反しました」


「空間の神の遺児もか?」


「言霊の消滅と共に制御を失っております」


「そうか……」


 少年の目が、ハヤトからアメリアに戻った。


「それで、この天使は誰だ?」


「あぁ、彼女は────」


 ☆☆☆


 少年の目が、俺を捉えた。身体が動かない。何も不思議な力ではない。神の眼力に気押されただけだ。


 全身が石にでもなったみたいだ。筋肉が、緊張して痛みすら感じる。


 右肩を、誰かが掴んだ。その手は、必死に俺を揺さぶっていた。


「逃げるんだ……君には、燐瞳を守る義務がある……ここで死んじゃダメだ」


 声の主は、弓栄春人だった。声が震えている。


「あぁ、彼女は、ニコラスと因縁のある少女です。珍しい天使の寵愛を持っているので、彼は苦戦しているようですよ」


「通りでなぁ。魂の前で天使が妨害しているのはそのためか」


 少年は納得の表情を見せる。しかし、それでこの話題は終わったのだ。ニコラスとアメリアが敵対しているというのは、彼にとってもアメリアが敵だと言っているようなものだ。それなのに、まるで興味がなくなったように別の話題をハヤトへ振り始めた。


 少年にとって、どうでも良い話題だとでも言うのか。


「アメリア、今のうちに飛んで逃げろ……彼らが何を考えているかは分からない。でも、この隙を逃したら、もう逃げられない」


 耳元で春人の囁き声がした。


 俺だって逃げたいよ。でも身体が動かない。動いたら殺されると、脳が叫んでいる。心の中で、「動けない」と春人に返事をした。


「蓮華が到着するまで時間がかかる。それに────」


 ────蓮華が来ても、状況は好転しない


 春人の重く苦しい声に、俺は胸が締め付けられた。


「大丈夫だ……彼が君を脅威と思っていない内に、この場を去るんだ……手負いの状態では、どうにもならない。閻魔薙なら────いや、なんでもない。君のタイミングで良い。だから、生きてくれ・・・・・


「あぁ、分かった」


 小さな声で春人にうなづいた。その反応を、ハヤトは見逃さなかった。


 ☆☆☆


「────言霊の代わりは?」


「十年前の実験を元に、人間の集合意識を利用して任意情報コードを実行します」


 魔笛を取り出し、少年へ見せると、納得の表情を浮かべた。


「集合意識か……皮肉だな。集合意識から解放されるために、それを利用するなんてな」


 少年が空中に浮かび上がった。放射状に広がる赤黒い液体は、周囲の壁を掴んで建物の上へ登っていく。液体の一部は、ハヤトの手を飲み込み、一緒に連れて行く。


 やはり、少年にはハヤトしか見えていないのかもしれなかった。


 雑居ビルの屋上へと移った二人は、向かい風の方角を眺めた。何かが近づいてきている。それも、尋常ではない速度で。それを感知していた。


「何か来るな……魂が二つあるぞ。一つは、覚えがある。酒呑童子・・・・だ」


「あまり力を使われては、貴方様の魂は持ちません。今の器では、神の情報を納めきれておりません」


「なぁに心配ない……俺には内燃機関・・・・がある。燃料さえ補給できれば、問題ない」


 この言葉に、ハヤトの表情は難色を示した。しかし、「それもそうですね」と、すぐに普段の顔つきへと戻る。


「馬鹿正直に、一直線に進んでくるとはな」


 赤黒い液体の一部が、消滅した。同時に、空を青紫色の光が包み込んだ。時間にしてみれば数秒。その間、周囲は昼間に匹敵する明るさに包まれたのだ。光の正体は、巨大な稲妻。メガフラッシュと呼ばれる巨大雷。


 光に遅れて、空間を割くような轟音が響き渡った。音が止んだ時、苦悶の表情を浮かべた少年は、「少し、張り切りすぎたかな」と静かに呟いた。 

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