和睦の使者〜空の座礁編

RIDDLE

序章〜抜け落ちた力

第0話〜薙の復活

 ここは、人間の暮らす世界と断絶された世界。人々が現世での役目を終えた際、輪廻転生の手続きを進める上で”罪”を祓われる場所。


 閻魔界は、そびえ立つ霊峰に造られた円状の街にあった。周囲を高い壁に覆われたこの街から外を見たとしたら、見渡す限りの雲海が金色に輝いて見えるだろう。


 雲に色を与えているのは陽光。金色に輝いたそれは、一筋の光として、円の中心に建つ仏塔の一室に差し込んだ。その部屋は、住人たちの物置なのか、両側に備え付けられた棚々に”杖”や”羽衣”、”冠”が所狭しと飾られている。


 陽光が冠を照らした。深緑の下地に赤、青、金の布で装飾が施されたものだ。冠の隣に畳まれた道服が見える。冠と同じ色と紋様が刻まれている。


 遠くで鐘がなった。何度も叩かれ音の感覚を狭めていく。街全体に響き渡るその音が、危険を表しているものだと、ここに住む誰もが察した。見えざる脅威が近付いているのだと。


 太陽を背に何かが近付いてくる。青白く輝く握り拳大の光球。周囲に電撃を思わせる高音を発し、この世界の言葉ではない文字が紐のように十字に周回している謎の球体は、陽光を伝って仏塔へと突き進んでいる。街との距離があるため分かりづらいが、その移動速度は異常なものだった。おそらく、人間はこの事象に気が付く事は出来ないだろう。


 光球が冠に衝突するのに時間はかからなかった。衝突と同時に光が弾け、球体から青白い文字の紐が何本も出現した。その紐が散った光を人型に再構築し始める。同時に、冠と道服が人型へと取り込まれ、最終的に少年の姿へと変わったのだった。


 ☆☆☆


 仏塔の外に建てられた宮殿の中では、警備服を着た鬼が慌ただしく動いていた。先ほどの鐘の音を聞き、それぞれが列を成す。閻魔界の非常事態だ。指揮官の到着を皆が待っていた。


 列まで走る一匹の鬼が、廊下の角で黄色い道服の少年とぶつかった。鬼の身長は少年の二倍はあるように見える。しかし、衝突し姿勢を崩したのは鬼の方で、少年は何事もなかったかのように歩みを進めた。


 尻餅を尽かされた鬼は少年を引き留めた。


時希とき様! 閻魔時希様!」


 少年は、閻魔だった。この閻魔界を治めるのは、一人の王と、”五芒星”と呼ばれる直属の幹部五人。閻魔時希は、その五人の内の一人。警備の鬼ごときが会話できる相手ではなかった。


 だが、現在の状況でそんな事は気にしていられない。それほどの事態なのだ。


「騒がしい……鬼が私に何の様です?」


「何者かが、とばりを抜けて侵入したのです!」


 “とばり”とは、閻魔界を囲う目には見えない次元の壁の事である。この壁があることで、閻魔や鬼は現世の人間達や神々からの干渉を受けることがない。


 しかし、現世から閻魔界へは、一方通行ではあるが通過可能な穴が存在する。現世で肉体の死を迎えた人間は、穴を通りこの霊峰のふもとを訪れるのだ。最も、閻魔界に到着する前に”川”を渡らねばならないが。


「どうせ、”穴”を通ってきたというオチでしょう? 馬鹿馬鹿しい」


「いいえ! 現世へ繋がる穴は常に監視しているのです! アレは、穴とは別の場所……”沈まぬ太陽”の方角から現れたのです!」


「それはありえない! 例え神でも、次元の壁は神と閻魔の双方で了承を得なければ超えられない決まり! それに……」


 “沈まぬ太陽”とは、閻魔界を照らす西の妖星のこと。そこに到達することは叶わない不可侵領域として閻魔の中では常識だった場所。過去、沈まぬ太陽へ到達しようとした者は、その存在が消えてしまったと聞く。


 閻魔は、その職務を失わない限り、死ぬことがないとされる。


 そんな閻魔達が消えてしまう領域から、誰が来ると言うのだ。


「だからこそ、緊急事態なのです」


 鬼は、一礼すると、隊列へと走り出した。時希は、一瞬何かを考える素振りを見せ、「まさかな」と呟き再び歩き出した。


 ☆☆☆


「ここは……」


 物置には、森を想像させる深緑の髪色をした少年が一人で立っていた。頭には棚の冠を携え、その身に道服を纏った少年は、周囲を見渡してそう言った。


 一歩、物置から足を踏み出す。少年の目に飛び込んできた光景に、彼は口を抑えてしまった。今、彼のいる場所は閻魔界の仏塔で間違いない。彼の記憶と合致していた。しかし、この周囲の景色は見覚えがない。


 仏塔の周囲には、閻魔達の仕事場である宮殿と、天国、地獄へ通じる階段があっただけで、他には”何もなかった”はずだ。


 にも関わらず、今は至る所に西洋風の建築物が所狭しと建てられている。かつては集会場として使われた広場にも、見覚えのない塔が建てられている。何より、周囲を囲む高い壁は一体何なのか。


「一体、何があったんだ? 僕は何をしていたんだ?」


 自身の記憶を辿るも、裁判のために宮殿に足を運んだ所までしか思い出せない。それまではいつも通り、業務に励んでいた。仲間や友人との何も変わらぬ日常があったはずだ。


 僕の名前はなぎ。閻魔の王を支える五人の閻魔の一人。何があったのかを、仲間と王に確認しなければならない。


 僕は、不穏な空気を感じながら塔を下ろうと階段に差し掛かったが、階段で警部服を着た鬼と遭遇した。額から伸びる二本の歪んだ角。赤黒くシワの入った肌。地獄を警備していた鬼だろう。


 おかしい……記憶では、鬼が警備服を着ていた事はなかった。この様な服装は、閻魔界に存在しない。せいぜい腰に布を巻いた程度だったはずだ。


 鬼の表情が歪んだ。額に汗が滲んでいる。不思議に思い、薙が声を掛けようと口を開くと、鬼の持つ槍が眼前に迫った。


「!?」


 咄嗟に階段の手すりを掴み、身体を捻って槍を避ける。剣先が道服をかすめ、青い生地が空中に漂う。階段に足をつけると後ろへ下がりながら鬼へと説得を試みる。しかし鬼は聞く耳を持たない。


「閻魔薙だ! 侵入者は、閻魔薙だ!」


 塔内に響き渡る声で鬼は叫んだ。薙は、槍をかわしつつ、再び物置前まで戻されてしまう。


「侵入者? 僕が侵入者って、どういう事ですか!」


「お前は罪人の逃走幇助ほうじょの罪で裁かれ消えた! なぜここにいる!」


 槍が薙の頬をかすめ切り裂いた。薙は道服の袖に手を入れた。


 閻魔達は、罪人を裁くための道具を持っている。武器として使用できる物は少ないが、この場を凌げさえすれば良いと考えたわけだ。だが、袖の中から出てきたのは一冊の手帳のみ。かつて持っていた”裁きの道具”のほとんどが消えていた。


 道具がないことに動揺してしまう。鬼の攻撃は止む気配がない上に、階段の方から大勢の駆け上がる足音が聞こえてくる。


 槍を紙一重で避けたところで、薙は両手をパンッと合わせた。


 これは賭けだ。今の場所が僕の知る閻魔界である事を祈る。


 鬼の槍が薙の立っていた場所を突き抜けた時には、彼の姿は忽然と消えていた。


 ☆☆☆


 閻魔界へ通じる道の麓付近には大河が流れている。橋もなく、渡る手段は岸の渡し舟だけだ。そんな河岸に建てられた一軒の小屋。その中で老婆と少女が着物を畳んでいた。


 少女の名はこよみ。死人の衣を剥ぐ老婆の元で、渡し舟の手伝いをする見習い人。着物を畳み終え、箪笥たんすに仕舞う最中、砂利を大きく踏み締める音を聞いた。


「お婆ちゃん? ちょっと見てくるね」


 そう言って、立てかけてあった背丈程の大鎌を持つと、ゆっくりと小屋の扉を開けて外を見る。まず目に入ってきたのは大河。右から左へと流れる水と、向う岸で歩いている鬼達が小さく見える。


 目線を下に動かすと、小屋の前の砂利が裏手まで凹んでおり、誰かが歩いた後の様に見えた。暦も鎌を構えながら跡を追う。


 そこには、座り込み呼吸を整えている少年がいた。深緑の髪に閻魔達と同じ道服を着た少年。暦は彼に見覚えがあった。


「薙様?」


 その呼びかけに彼は反応を示す。


 ☆☆☆


 僕は河岸に姿を現すと向こう岸から見えない死角に移動し座り込んだ。


 危なかった。座標が変わっていなくて良かった。もし少しでもズレていたら、僕はあの大河に巻き込まれて溺れていただろう。


 両手を見つめながら安堵する。”空間移動”は今まで通り使えるみたいだ。


 遠い昔になるが、空間を司る神に空間を自在に移動する術を教わっていた。両手を合わせる動作が必要ではあるが、指定した座標まで一瞬で移動できるこの技がなければ逃げられなかっただろう。


「それにしても」


 袖から手帳を取り出す。この手帳は”鬼籍”と呼ばれる死者の記録帳だ。罪人を前にするとその名が記される。もちろん死者の名を閲覧する事も可能な代物。裁きの業務を行う上で必要な道具ではあるが、なぜこれだけしか手元にないのか。


 先ほどまでいた物置に置いてきてしまったのだろうか。いや、それはない。あの部屋は、殉職した閻魔の備品を保管している場所。軽く見たが僕の私物は置いてなかった。


 そもそも、なぜあの部屋に僕はいたんだ?


「薙様?」


 急に声をかけられ、身構えた。そこには鎌を持つ桃色の髪色をした少女がいた。紫の生地に朝顔柄の着物が似合っている。


「誰だ?」


 いつでも空間移動できるよう、両手を体の前で構えながら少女に語りかける。僕は彼女を知らない。一体誰なのか。そもそもここに信用できる人物はいるのだろうか。疑問が薙を掴んで離さない。


「お、覚えてらっしゃらないのですか!? 私です! 死神見習いのこよみですよ!」


 動揺した少女は、わちゃわちゃと身体を動かしながら自己紹介を始める。彼女の話では、死神見習いの研修の一環で、僕の下で働いていたという。本人は僕を師匠と崇め、色々と面倒を見てもらっていたと。


 その後、僕が消息不明となってからは、職を転々とし、現在、大河の渡し舟の手伝いをしているらしい。死神は上席が空くまで見習いのままなのだとか。


「証拠はありますか?」


 僕は覚えていない。申し訳ないが、彼女を信用するための根拠が欲しい。


「では、薙様から教わった術をお見せします!」


 そう言って彼女は両手を合わせた。すると、今まで彼女がいた空間が歪み、気が付けば彼女は僕の後ろに立っていた。これはまさしく空間移動の術。閻魔界では神を除き僕だけが使える術。


「それを……僕が?」


 暦は軽く頷いた。


「私は”虚空”と呼んでいますが、教えてくれたのは薙様ですよ」


「空間を司る神に教わったのでは?」


「彼の方は、そう簡単に術を教えませんよ」


 彼女の言う通りだ。僕も教わるまでに長い時間を要した。それは覚えている。なら、彼女に僕が教えたとなると、それほどまでに信頼していた部下だったという事なのか?


「薙様は私と、口にするのもはばかられる様々な行為を……」


「ま、待って!? えっ!? 仕事仲間ですよね?」


 僕のその発言に彼女は悲しそうな表情をする。


「私は……もっと深い仲だと思ってたのに」


 その目には涙。大鎌を持つ手がプルプルと震えている。


 正直、まだ完全に信用は出来無い。だが、少なくとも彼女は僕に敵意を見せていない。ここは正直に打ち明け、何かヒントを掴むのが先決か。


「実は……」


 僕は記憶が一部欠損している事と、覚えている範囲での話を彼女に伝えた。全てを聞き終わり、一呼吸置くと、彼女はゆっくりと語り始める。


 彼女曰く、少なくとも現世の時間で、数百年前までの記憶しかないとの事だった。その事実に僕は開いた口が塞がら無い。


 暦は、「これからどうするのですか?」と申し訳なさそうに質問する。最も、暦は何も悪くないわけだが、僕のあまりの動揺ぶりが気になったのだろう。


「……僕はなぜか追われる身だ。それでも、何が起きたのかをこの目で知りたい」


 記憶を取り戻すために閻魔界の王に謁見する。


「無理です! 今の閻魔王はかつての威厳を失っています!」


「なんだって!?」


 彼女は、僕に現在の閻魔界を説明する。閻魔王と頂点として五芒星が王を支える政権は崩壊していた。閻魔王は、王の座に身を置いてはいるものの、実権を握っているのは若き金色の閻魔”時希”。


 他の閻魔四人。

 ”琰器えんき”、”然樹ぜんき”、”闇鬼あんき”、”水月みづき”は時希の言いなりとなっているとまで言った。


「そんな!? 閻魔王が力に屈するなんて、聞いたことがない!」


「時希様は、もしかしたら薙様と同じく、”特殊な力”を持っているのかもしれません……そうでなければ、説明がつきません」


「時希は一体何を……?」


 僕は彼女の両肩に両手で掴みかかった。僕の知る閻魔王は、働く閻魔や鬼達に優しすぎるきらいがあるものの、業務には手を抜かず厳しい一面も併せ持った理想の上司だった。だから僕は王を支えるべく五芒星へ参加したのだ。


「その……薙様が行方不明になる前に、”災厄の神”が宮殿を訪れたのは覚えていますか?」


「いや、申し訳ない……」


「災厄の神は、最高神”天帝”の宝を盗んだ罪を裁かれるために宮殿を訪れました」


 彼女はゆっくりと僕の目を見ながら話す。


「その裁判の担当官は、薙様でした」


「!?」


 冷や水をかけられたようだ。脳天から足先にかけて悪寒が突き抜ける。


「しかしあろうことか、薙様は災厄の神を地上へ逃してしまう」


 僕が追われている理由はこれか。逃走幇助……あの鬼が言っていたのは間違いじゃなかったのか?


「本件以降、薙様の消息は断たれました。抜けた五芒星には、新たに時希様が加入されましたが、そのあたりからおかしなことに……」


 五芒星のメンバー再編により、薙の穴を時希が埋め、時希の独断で当時の薙の同期”こうき”を外して然樹を加入させたらしい。


「待ってくれ! 然樹は僕の後輩だ! 後任なら彼で良かっただろう! なぜ時希なんて閻魔が!?」


 僕は、時希という閻魔を知らない。後任なら、僕が指導した然樹で充分なはずだ。五芒星の残り三人と聖は何も言わなかったのか?


 見覚えのない塔の数々。制服を着た鬼の警備隊。これら全てが時希の仕業。彼の目的も今のところ不明となるとますます分からなくなる。


「聖様も行方不明なんです。時希様は何か閻魔王や五芒星の弱みを握っているのかもしれません」


「なら尚更、王との謁見を!」


「ダメです! このままでは捕まるのがオチです! その前に……」


 現在、薙は鬼の警備隊に追われる身。裁きの道具なしかつ単身での閻魔界侵入は自殺行為と彼女は踏んだのだ。


「薙様! 記憶と力を取り戻すまで、再び私と組んでいただけませんか?」


 暦が薙の肩を握り返した。その目は怯えで震えているものの、何か覚悟を纏っているように薙には映った。


「薙様が地上へ逃したとされる災厄の神を捕縛し、宮殿に差し出すのです」


 暦は、大罪人の神を薙が捕まえ、信用を得なければ話の場を作るのは難しいと考えた。


「薙様、私と共に地上へ降りましょう!」


「……本気で言っているのですか?」


「私は、薙様の行方不明と神の脱走が無関係とは思えません。薙様の道具がないのも、おそらく神と地上に降りた際に何かあったんじゃありませんか?」


 彼女にそう言われても、こちらは記憶がないのだ。何が正しいのかなんて判断のしようがない。だからこそ、彼女の意見を聞き続ける事しか出来無い。


「地上でどうやって神を探すんです? 浄瑠璃鏡すらないと言うのに」


「これです」


 彼女は着物の中から手のひらサイズの盤を取り出した。中心で針が揺れ四方に模様が記されたそれは、羅針盤にしか見えない。


「この羅針盤は望む対象を探し出す道具。私はずっと薙様を探していましたが、今日まで針が揺れた事などありませんでした!」


 つまり、薙は閻魔界以外にいた事を証明するもの。


 薙には葛藤があった。この提案に乗るか降りるかではない。


「もし、僕が記憶を取り戻し、逃走幇助が本当だった場合、その鎌で僕の首を刎ねる覚悟はありますか?」


「えっ……?」


「僕がもし大罪人の仲間だった時、介錯する役目を与えます。だから、そうなった時は迷わず切ってください」


 僕は今、自身の罪を裏付ける仕事に就こうとしている。これは真実を探す物語。罪を見定め、裁きを行う物語。それが始まろうとしていた。


 ☆☆☆


 閻魔の薙と死神の暦は河原の小屋の裏手で話を続けていた。議題は、”現世への降り方”についてだ。


 現世から閻魔界へのルートは確立されている。肉体の死を迎えた人間は、そのルートを介して閻魔界の麓にある大穴から現れ、この河原を通り大河を渡ることで閻魔界に足を踏み入れるのだ。


 この大穴には欠点がある。閻魔界から大穴を通り現世へ渡航する場合、どの場所のどの時間軸に降りるのかを指定する事が極めて難しいのだ。それは現世と閻魔界では”時間の流れ”が異なるからである。


 文字通り、穴を下るのは、一種のタイムトンネルを逆走することになる。道中は時空が歪み、数多の時代風景が一畳程の窓から垣間見れると伝わっている。その中から、災厄の神が降りたとされる時代、場所を特定しピンポイントで入らなければならない。


 万が一、通り過ぎてしまえば一貫の終わり。時空が歪んでいる以上、薙や暦の虚空による空間移動は使ってもどの座標に出るか分からないだろうし、閻魔界へ浮上すれば入口を警備する鬼達に捕縛されてしまう。


 問題点はもう一つある。


 現世は、肉体を持たない魂の存在を許さない。肉体の死を迎えた人間が閻魔界に浮上するのは、魂だけの状態では身が持たないからだ。以前、裁判を担当した際、人間はこう言っていた。


 “まるで身を裂かれ、無い身体を焼き尽くされる程の苦痛を感じた”……と。


「僕たちは、肉体を持っていない……現世に滞在できるのはごく短い時間だけだ」


「その問題は、お婆ちゃんの知恵を借りる必要がありそうですね」


 この小屋の主人は、大河を渡る死者から、現世の名残である”ころも”を剥ぎ取る業務を行なっているらしい。暦曰く、衣は現世で肉体を持っていることの証明書としての働きがあるようだ。


 この衣は剥ぎ取る相手によって、綺麗なものもあればズタズタに裂かれ、場合によっては衣類の大半が消し飛んでいるものと様々だったとか。


「もしかしたら、現世で魂が活動できる限界は、衣が破れるまでなのではないでしょうか」


 彼女は自身の仮説を持ち出した。彼女が言いたいことが何となく分かった。


 剥ぎ取った綺麗な衣を我々が纏い、衣が完全に分解し切る前に新たな衣に着替え、こちらの衣のストックが切れる前に事を済ませるのが彼女の作戦か。


「あくまで仮説の域を出ませんが、これが最善なのでは無いでしょうか?」


 暦は薙に涙目で訴えている。この二人は現世をあまり知らない。今の仮説が正しいのかもしれないし、魂の構成元素が地上では安定せず分解してしまうだけの話なのかもしれない。


 だが、前へ進むには行動するしか無いのだ。


「なら、これを使うがええ」


 突如、小屋の窓が開いた。二人は声のする窓に目を向けるとプルプル震える白髪の老婆が目を細めてこちらを見ている。その手にはシワのない白装束が握られていた。


「お婆ちゃん! 聞いてたの?」


「こんな壁の薄いところで話されちゃ、嫌でも耳に入ってくるべさ」


 ため息をつく老婆は、薙に向き直ると、


「薙様、長くお待ちしておりました……罪人だった私に奪衣だつえのお仕事を下さった優しい貴方様が、大罪を犯したとは到底思えません。どうか、無実を証明するお手伝いをさせてください」


 老婆は深々と頭を下げる。薙は、地獄で償うほどの罪がない者の就職を斡旋していた時期があり、彼女もその中の一人だった。


 老婆は頭をあげると、薙に衣と共に首掛けの円鏡を手渡した。


「これは……浄瑠璃鏡?」


 浄瑠璃鏡は、罪人の内情を映し出す魔鏡。裁判の際、発言に矛盾がないかを調べる目的で閻魔が使用している手鏡の一種だ。ただ、薙の浄瑠璃鏡とは裏の紋様が異なる。薙の鏡は鮮やかな色の曼荼羅が描かれているが、この鏡は黒一色かつ四方に四神が掘られている。


「おそらくは閻魔様のお使いになられている鏡と同じものだと思います。しかし、だいぶ前に河原で拾ったものですし、私には使いこなせませんので……」


 老婆は申し訳なさそうに肩をすくめた。暦が「どこかの閻魔様の紛失物かな?」と僕の横でマジマジと見つめる。


「薙様! ご自身の鏡が戻るまでお借りしましょう!」


「で、でも、勝手に借りるわけには」


「薙様はアヌビス神様から天秤借りたりしてたじゃないですか!」


 この一言で薙は思い出した。罪人の嘘を見抜く”人頭杖”を紛失した際、知人から罪の重さを計る天秤を借りていた事を。と言っても、その天秤すら紛失している訳だが。


「あぁ……うん……それは覚えています」


「状況が状況なので、こちらをお使いください」


 僕は老婆から鏡を受け取ってしまった。ともあれ、借り物だが浄瑠璃鏡が手元にある。現世の聞き込みが楽になるのは助かる。


「欲を言えば、武器の一つくらいも欲しいけど……」


 そう言うと、暦は握る大鎌を上下に振ってみせた。僕はチラリと暦を見た。彼女の持つ身の丈程の大鎌。死神が命を刈り取るのに使うものだろう。神相手に通用するのか分からないが、「これがあるから大丈夫です」と言わんばかりのアピールをする彼女を信頼することにしよう。


「羅針盤で災厄の神を探知しつつ、衣で身を守る作戦で行きましょう!」


「衣は何着持っていくんです?」


「可能な限り、着物に入れていきますよ」


 暦の着物は、閻魔達の道服と同じ生地で出来ているようで、着物内に収納空間が展開されている。閻魔達が道具を仕舞うように暦も衣をそこに収納するそうだ。


 暦は両手を合わせ、虚空を発動させた。小屋に干されていた多くの衣が一瞬にして消える。ついでに大鎌も収納空間に入れたようだった。


「僕より空間移動を使いこなしている……」


 そんな使い方があったのか……と感心してしまった。僕は自分自身以外を空間移動させたことが無いのだ。道服内部の空間に繋ぐといった発想が出てこなかった。


 ☆☆☆


 大河の中央に浮かぶ小舟。操縦する暦と膝立ちで座る薙の二人は、現世に繋がる穴へと向かっていた。川の流れに従っていれば下流の穴付近まで近付ける。山道は警備が固いと考え、舟で向かうことにしたのだ。


「……もうすぐ見えてきます」


 舟を漕ぐ暦が遠くを見ながらそう言った。薙は、数多くの岩が並ぶ岸辺を見渡し、その穴を発見する。


 身の丈の倍以上ある柵で囲われ、中心に堂々と鎮座する大穴。門を守る鬼は二人。やはり警備服を纏っている。普段は門が開いているのだが、今回に限って閉まっている。


「現世から魂が浮上していない……?」


 今まで、閻魔界に通じるルートを魂は列を成して進んでいた。だがその魂が見当たらないのはどういうことなのか。


 いや、今は鬼にどう対処するかを考えねばならない。幸い、この距離なら座標計算も容易だ。段々と調子を取り戻してきた薙は暦に提案を出した。


「暦、この舟は座礁しても大丈夫ですか?」


「えっ!? 座礁!? た、多分、大丈夫です……」


 ならこの方法で行こう。


「縁を掴んで離さないでください!」


 鬼達が我々に気がついたタイミングで、舟ごと彼らの真上に空間移動する。呆気に取られた鬼達は、頭上の僕たちに気がつく前に、舟底に頭を打たれ気絶した。


「次は僕の服を!」


 暦が道服を掴んだと同時に両手を打ち鳴らす。門の先へ空間移動。しかし移動先に足場はなく、僕たちはそのまま底の見えない大穴へと侵入する。門の内側にいた三人の鬼たちは、僕らの出現に驚きつつも、その進行を止めることは叶わなかった。


 大きな暗闇が僕たちを包み込んだ。沈まぬ太陽からの光は、すぐに届かなくなった。目に映る全てが黒で統一された穴の中で、ただただ底を目指す。


「お話では、壁一面に現世が映っているはずじゃ!?」


 道服の裾を掴んでいる暦が逆さの姿勢で大声をあげた。落下速度が早すぎて、そうしないと聞こえないのだ。


「僕もそう聞いています!」


 身動きの取りづらい状況だが、暦に顔を向けて返答することは出来た。


 どれほど落下したのだろう。もう穴の入口は光の点としか認識できないくらい小さくなってしまった。風圧が髪を乱し、暦は空いている左手で自身の髪を抑えた。


 僕は、このまま闇が続くのではないかと不安に駆られた。本当は、穴は現世に通じていないのではないかとさえ思えてならなかった。


 そんな僕の頬を、一筋の光の線がかすめた。その線は穴の奥底から放たれていた。次第に数が増えていく。まるで光の雨。だが痛みはなかった。


「なんですか!? この光は!?」


 暦は大声を出しながら僕の背中に隠れる。


「分かりません! 攻撃ではなさそうです!」


 光が強くなるにつれて、僕と暦の身体に変化が訪れた。身体の表面を青白い電流が走りはじめたのだ。空間が我々を拒絶していると本能で感じた。


 僕たち二人の絶叫が大穴に木霊こだまし、その身は光に包まれた。


 ☆☆☆


 光の雨が止んだ。そこに広がっていたのは歪んだ空間だった。上下左右が存在しない灰色の世界。どこまで先があるのかも分からない。手を伸ばしても何もない。どこまでも広がっているのだろう。時空が歪みに歪んでいる。


 依然、身体の電流は消えない。痺れすら感じてきた。早く、この空間から出なければ大変なことになる。


 “まるで身を裂かれ、無い身体を焼き尽くされる程の苦痛を感じた”


 人間の魂の声が脳裏に浮かんだ。


「暦! 衣を早く着て!」


「は、はいっ!」


 着物から白装束を二着取り出すも、姿勢が安定せず羽織ることが出来ない。どうやら、未だ我々は落下し続けているらしい。


「薙様!? あれを!」


 暦は白装束を持つ左手で遠くを指差した。灰色の世界に、長方形の絵があった。おそらく地上のどこかを切り取って貼り付けたとしか思えないが、絵の中で木々が揺れた。別空間の入口だ。噂は本当だった。


 それは、次第に数を増していく。周囲一体に浮かぶ景色は、まるで、風景画の展示を見ているようだった。


 暦の胸から羅針盤が飛び出した。赤い針は時計回りに回転を続けていた。その針がピタリと一点を指し示す。


 つまりは、災厄の神が降り立った時代の土地。


 薙は針の先に視線を向けた。大雨の中、褐色の大地の上で恨めしそうに空を睨む男が映っている。あの男が、災厄の神……


 だが、その空間に向かいたいにも関わらず、方向転換が出来ない。必死に手を伸ばし、空間に触れようと身体を伸ばす。


 羅針盤の指し示す空間が真横を通り過ぎようとした瞬間、男と目があった。


 激る怒りが瞳を赤に染めているのか、それとも災厄の神が赤眼なのか、烈火を思わせるその眼は、眼力だけで薙を圧倒していた。薙の意識が、その眼だけに集中してしまったのだから。


「薙様! 早く! 通り過ぎてしまいます!!」


 暦の声掛けすら届かない。薙は放心状態なのだ。手を伸ばした姿勢から、一向に動こうとしない。暦は、着物から大鎌を取り出し、その空間へ突き立てた。切先が神の降り立った空間に引っかかった衝撃で、薙を掴んでいた暦の右手が離れた。


「薙様!!!?」


 衝撃で我にかえる薙だったが、彼の目には、大鎌を仕舞い、自分の元へ必死に追いつこうともがく暦の姿が映った。神の降り立った空間へ彼女だけなら渡航出来ただろう。それを投げ捨てて薙を選んだのだ。彼女の手が薙に伸びる。薙も同じく手を伸ばすが……


 薙の足が別の空間に触れた。闇夜に茂る森林が映し出されたその空間は、触れた薙の足を急速に引き込んだ。


 閻魔薙は、暦の目の前で歪んだ空間から姿を消したのだった。


 ☆☆☆


 日本某所。満月の美しい真夜中の山中。森林の間に閃光が走り、勢いよく地面に投げ出される薙。地面を転がり、大木に打ち付けられた薙は、声にならない声をあげた。


 道服は傷ついていないものの、全身を覆う青白色の電流。現世は魂のみの存在を許さない。激しい痛みによって薙の意識は朦朧としていた。


 ここはどこだ? 何時代だ? 暦はどこに行った? この激痛はなんだ?


「……こ、衣を」


 道服の袖に腕を入れ、白装束を取り出す。地面を這い、道服の上から白装束を纏う。衣は死者から剥ぎ取った現世の滞在証明書。その影響なのか、薙の姿は閻魔からただの少年へと変化する。白のTシャツにカーゴパンツの姿になったのは、現世の時代が衣に影響を与えたためだろうか。


 薙から電流が消えた。暦の仮説は当たったようだ。


 薙は災厄の神について考える。


 この過酷な環境で、衣もなしに、どうやって活動するつもりなんだ……神の目的は……一体なん……だ……


 現世に拒絶されなくなったものの、それまでの時間が長すぎたのか、薙の意識はプツリと途切れた。

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