悲願と悲劇

老躯二人

時節は9月である――暑い暑いと、愚痴を溢す日も少なくなってきた。



競馬界は、夏のローカル開催も終わり、秋のG1レースを控え、トライアルレースが盛り上がる頃である。


相変らず、そんな盛り上がりとは無縁の翔平たちも、北海道遠征は終わり、海野厩舎北海道班の面々も美浦へと戻った。



、とは言ったが――それは、と、付け加えた方が良いかもしれない。


ソレは、秋も深まり、冬が近付いた頃――海野厩舎も、盛り上がりを見せる予感がして来たからだ。



まず――その予感を抱かせたのは、期待の新星であったゴールドウルヴである。



彼は、北海道シリーズの最終週、デビュー2戦目として、GⅢの札幌2歳Sに出走した。


結果としては――3着に敗れ、AJCC以来の厩舎史上2度目の重賞制覇は成らなかったが、最後は先頭とはクビ差というタイム差無しの大激戦っ!


しかも、ウルヴは直線の短い札幌では無謀とも言える、最後方からの追い込み戦法であった事を鑑みれば、それでこの差というのは非常に価値が高い。


(運良く、順調に秋にもう1勝出来れば……年末には、厩舎史上2度目のGⅠ挑戦も視野に入れたい)


――と、弱気が専売特許の海野に言わせる程、ウルヴは期待されている。



もう一つ、海野厩舎には吉報があるのだが――その話はもう少し後にしたい。



――で、海野厩舎の近況はここまでにして、場面は替わって、ここは北海道、成実市にある石原邸である。



夏の日差しをタップリと浴び、旺盛に育った庭の雑草を、石原はせっせと毟っていた。


「ふぅ……」


幾分か涼しい日が増えたとはいえ、作業をすればビッショリと汗をかく陽気である。


若い頃から厩務に携わり、体力には自信がある石原でも、年齢も災いしてか、少々キツイ。


だが、ここに一人で住んでいる以上、家の管理は自分にしか出来ない仕事だ。


石原が自分を奮い立たせようと、大きく息を吐いて屈んだ、その時――



――ピンポ~ンッ!



――と、来客を知らせるインターホンが鳴った。


(――っ?、誰かな?)


今日は、来客の予定も、何かの配達も、出前を取った記憶も無い。


「は~い」


石原は家の中に戻るのではなく、庭からぐるっとショートカットして、玄関へと向かった。


「どちら様――?」


――と、声を掛けようと近付くと、そこに居たのは――



「よぉ~、石原さん」


「えっ?、松沢さん?」



突然の来訪者は――なんと、松沢だった。



「どう――されたんです?」


思いもかけない松沢の訪問に、石原は驚きを隠せないまま、来訪理由を尋ねた。



それもそのはずである。


松沢と、馬の事柄を抜きに会うのは初めてだからだ。



もちろん、石原の家にやって来たのも初めて――住んでいる場所の事も、話した事があるのはせいぜい、成実に居るコトぐらいである。



「いんやぁ~、急に石原さんと会いたくなっでよぉ、分場の人に場所を訊いたんだわ」


松沢は、石原の考えを見透かしていた様にそう言い、申し訳なさそうに頭を掻いた。



「そうでしたか――あっ!、どうぞお入りください。


ちょっと、庭弄りをしていたので、汚れた格好でお恥ずかしいが」


石原は、自分の膝に着いた泥を払いながら、松沢を玄関に促す。


「入ってすぐのトコロがリビングですから、そちらでちょっと待っていてください、着替えて来ますので」


「な~に、気にしないでくだせぇ。


おらぁなんて、トレセンで会う時もひでぇカッコしてんだから」


そう言って松沢は手を横に振り、また頭を掻いた後――


「――んじゃあ、お邪魔しますよぉ」


――と、一声かけて、石原邸の中へと入った。






「――お待たせしました」


――と、石原が着替えを終えてリビングに入ると、松沢は立ったまま、リビングに飾られた白黒の口取り写真を眺めていた。



「懐かしい、写真だねぇ~」


松沢は顔を綻ばせながら、写真を見つめる。


「あぁ~おったわ、おらぁが!


いやぁ~!、若けぇ頃ので、今見たらこっずかしいなぁ」


松沢の目に留まったのは、まだ白黒の、かなり古い写真で――そこに写った松沢の顔も、今と違って、顔にシワ一つ無い、実に若々しい風体である。


「こやって、いっぺぇ写真さ、飾ってんだねぇ」


「ええ、もう、懐かしむ事ぐらいしか、出来ない歳ですからねぇ」


石原は、気恥ずかしそうに、鼻の頭を掻いた。


「――そんだ、石原さん、用件はコレなんだわ」


――と、松沢は何かを思い出し、ソファーの上に置いていた持参して来た紙袋をガサゴソとまさぐる。


「――ほれ、コレだ」


「えっ?、……瓶?」



松沢が、石原に差し出したのは何かの瓶――瓶には、明らかに何かの液体が入っているのが解り、しっかりとラベルが貼られている。



「これは――ワイン?、ラベルに書かれているのは、フランス語、かな?」


「ご名答!、さっすが、おらとは学が違うでなぁ。


フランス土産だ、石原さん」


「フランスって事は――ああ、フォワ賞に行ってらしたんでしたね」



石原が言った"フォワ賞"というのは、フランスのロンシャン競馬場で、先週行われたGⅡレースの事である。



「――アカツキは、圧勝だったらしいですね。


映像の方は、残念ながらまだ観ていませんが」



フォワ賞は、4歳以上限定のレースで、アカツキが秋の目標に掲げている世界最高峰のレースとして知られるGⅠ――"凱旋門賞"の前哨戦という位置付けのレースである。


その凱旋門賞には、数多の日本馬が挑戦しているが――未だに勝利を揚げた前例が無く、今や勝利する事が、日本競馬界の悲願とまで言われるレースを制する事に、アカツキは挑戦しようとしていた。



「外国の芝がどうかと心配してたが、良い競馬ばしてくれたよ」


松沢はホッとした様な笑顔を見せて、先程の#瓶__ボトル__#を石原に手渡した。


「石原さん、洋酒、お好きだったべ?、競馬場ロンシャンの近くの店で見つけてよぉ」


「そうですか、わざわざすいま――ん?」


石原は渡された瓶のラベルを見て、思わず目を見張った。


「これは――かなり古いモノだね、相当値が張るはずだ。


松沢さん――これはおいそれとは頂けませんよ、お土産にする様なシロモノでは……」


「いんやぁ、気にしねぇでくれよぉ、一緒に呑みてぇから、持って来たんだからさ。


それに――その酒の醸造年、見てみてくんな」


「えっ?」


石原は、松沢の意外な指示を聞いて、徐にラベルをよく見た。



そのワインのラベルに記された醸造年は、今から32年前の年である。



「――っ!?」



石原は、その年が秘める意味に気付いた。



「まさか――の時の?」


松沢は、ニヤリと笑って見せて――


「おらみてぇなモンが、変にカッコ付けちまったが――んだ、おらとアンタが初めて、フランス――いんや、外国さ、行った年のだ」


松沢の意外な洒落が効いたフランス土産に、石原は顔を綻ばせ、そしてすぐ悲しい表情に変わった。



「あの時は――夢と絶望を、同時に味わったからね……忘れる事が出来ない年だよ」



石原は、とある口取り写真に目を向け、松沢もそれに従うようにその口取り写真に目をやる。



それは先程、松沢が若き日の自分の姿を見つけた写真と同じ、白黒の口取り写真。


その写真が飾られた額には、32年前の日付と"フォワ賞"というレース名、そして――



『優勝馬 クロダヤマト号』



――という、馬名が記されていた。

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