伝播する不幸(後編)
――時は少し、前話のラストから遡って日経賞のスタート前。
パドックでの周回を終え、栗野にクロテンの身を任せた翔平は、検量室近くの担当厩務員たちの待機所にあるモニターで、レース映像の中継を観ていた。
1番人気の緊張から解放された翔平は、半ば放心状態で画面を眺めている。
「――センパイ!」
そんな翔平の肩を、叩いてきたのは翼だった。
可愛らしい、白地にピンクのラインが入ったジャージに身を包んだ翼は、ボ~……っと呆けている、翔平の顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか?、なんだが覇気が無いですねぇ」
「お前こそ――なんでココに?、もう乗るレース無いからって、自由過ぎるだろ?」
翼は、第8レースで今日の騎乗予定を終え、着替えまで済ませていた。
「どうせ、今日は"ココに泊まる"んですし――後はもう、レースを観るぐらいしか、する事無いですもん」
翌日、当該競馬場で騎乗がある騎手は、その競馬場内にある『調整ルーム』という施設に、前日の内に入室する事が義務づけられている。
そのルールから、騎手は開催前日の金曜日の夜から、日曜日の最終レースの終了まで、公正を規するために一種の隔離が行なわれ、週末の2泊3日は競馬場で寝泊りするのである。
「調整ルームには、トレーニング機材とかもあるんだし、部屋で疲れを取ったりとか、やることあるだろ?」
「だって、これからテンくんのレースですよ!?、ずっと稽古で乗ってた者としては、すっごく!、気になります!
それに、どうせなら、センパイと一緒に観たいなぁ~~、って思ったから、こっちに来たんですよぉ」
翼は、翔平の冷たい態度に、少し頬を膨らませ、翔平の手をギュっと握った。
翼のファンが、もし、この光景を見たら……発狂しそうな絵図が展開されている。
翼は、翔平に対して、こういうスキンシップをする事を好む。
それは、海野厩舎に所属してから――いや、競馬学校時代から続いている。
1学年のブランクと、厩務員課程と騎手課程の違いこそあれど、翼は翔平を兄の様に慕っていた。
それは、端から見れば、明らかに好意を抱いている様な態度で、翼もそれを隠そうとはしない。
だが、肝心の翔平は、翼に対して、まったくそういう気持ちは皆無――それどころか、モチベーションの糧だったクロテンの人気を、軽~く凌駕した翼の人気にライバル心すら抱いていた。…
それが、翔平の翼に対する、冷たい態度の真相である。
「じゃあ、好きにしろよ」
「やったぁ!、それじゃ失礼して――」
翼は喜びを隠さずに、翔平の横に腰掛けた。
「――翼、お前悔しいんじゃないのか?、稽古で良い走りしていても、結局本番で乗れないんじゃ」
天真爛漫な翼の態度に、何か無理をしている様な気がした翔平は躊躇わずに尋ねた。
「全然ですよ!、悔しいのは――私の未熟さの方ですよ。
稽古の効果が出てくれてれば、それで充分です」
「欲――無いな、お前」
「欲を持つ、余裕が無いんですよ……毎日勉強で!」
翼は『う~ん!』と伸びをして、天井を見上げた。
「まあ、俺もまだそうだがな」
翔平は自戒も込めて、そうつぶやいた。
一方、海野と佐山、そして、オーナーの石原は、馬主席でレースのスタートを待っていた。
「今日はゴキゲンらしいね、由幸くん」
石原は、そう言いながら競馬新聞を広げた。
「ええ、この仕事に関わってから、一番納得が行く仕上げが出来たので」
「確かに、私が見ても、今日のテンユウは、毛ヅヤや筋肉の付き方の良さは、AJCCの時とは段違いだったね」
石原は、クロテンのデキの良さの感想を述べて、新聞をめくる。
「日経賞を選択したのも良かったね。
実際、テンユウは中山では好成績だし、相手関係でも少しだけ手薄になってくれた」
海野が、クロテンの次の大目標に挙げた、京都競馬場の芝3200mで施行される春の天皇賞――"8大競争"の一つで、"王道"とも称される、古馬最高の栄誉を賭けた戦いである。
本来なら、絶対的優勝候補として、アカツキの名が挙がりそうなモノだが、彼は今――海の向こうにいる。
そのドバイWCから春天まで、約一ヶ月のタイムラグがあるので、連戦も不可能ではない日程(※ちなみにWCが行なわれるのは、日本時間で明日の未明)に見えるだろうが、海外遠征には検疫というルールが絡んでくるため、レースまでの調整などを考慮すると、現実的には無理に等しい。
それを受けて、さすがのアカツキ陣営も春天との両立はアッサリと諦め、帰国後は放牧する事を公言していた。
その発表を知って、色目気だったのは海野を含む有力古馬を抱えた陣営だ。
今の王道路線のレベルは、アカツキを除いてしまうと正直――どんぐりの何とやら、と言っても良い、実力伯仲――群雄割拠のメンバー構成である。
そんな空気の王道路線は今――
『
――と、各陣営が合言葉にするほど、別の意味で盛り上がっていた。
その前哨戦として位置づけられている、GⅡレースは3つある。
一つは、先週行なわれた『阪神大賞典』
3000mという施行距離などの面で、本番との類似点が多いため――かつては路線の有力馬が集結しやすい傾向があったが、近年はドバイへの遠征が増えた事や、長距離戦を嫌う現代競馬の風潮などで、出走頭数や純粋な馬の"質"の面は低下傾向にあったが、今年はこの盛り上がりで昔の活気を取り戻していた。
主な出走メンバーは――まず、一昨年のダービー馬、ロックブレイクと、同じく一昨年の菊花賞馬、オージルーカスの5歳勢。
一歳下のアカツキの登場で、世代自体が軽視されてしまっているが、ロックブレイクは昨秋の秋天(※秋の天皇賞)で2着、オージルーカスは去年の春天で2着と、しっかりと気を吐いている実力馬ばかりである。
対する構図になる、クロテンと同期の4歳勢の代表格は、アカツキを相手にダービー2着、菊花賞ではクロテンと熾烈な2着争いを演じたモルトボーノ。
彼もクロテンと同じく、あの死闘の後は一息入れて2月の京都記念で復帰し、見事勝利していた。
その他にも実績馬、上昇馬が乱立――今の王道路線を象徴するような顔触れが揃った。
その注目の中――勝ったのはモルトボーノ。
重賞2連勝を決めて、一気に春天の主役に躍り出た。
日程的には、次に当る今日の日経賞の顔触れについて語るべきだが、どうせ今から始まる訳なので後に回し、もう一つの前哨戦、大阪杯について先に語ろう。
大阪杯は来週行なわれるレースで、2000mという施行距離の短さから春天との結び付きは本来弱いが、先ほど述べた長距離戦を嫌う風潮から、春天を目標に置いても、こちらからの始動を選択する陣営は珍しくない。
顔触れの質の面では、その風潮による『春天では長いので、1600mの安田記念へ』という中距離路線の有力馬や、ヴィクトリアマイルという牝馬路線の最高峰の一角が約1ヶ月後に整備された事で、トップクラスの牝馬の参戦も多くなり、年々向上している。
春天への参戦を表明している出走予定馬は、昨秋のジャパンカップを制した5歳馬のナイトセイバー、去年は同じ臨戦で、大阪杯と春天を連勝した6歳馬のコクボフラッシュ、安田記念への転戦にも含みを持たせてはいるが、AJCCでクロテンを猛追したジャイアントルーラーもこちらに参戦予定である。
――さて、いよいよ日経賞に話を移そう。
日経賞は関東圏で行なわれる唯一の前哨戦で、距離は有馬記念と同じ2500mである。
長過ぎず、結び付きが弱くなるほど短くもない距離設定――何より、年末のグランプリと同じ舞台。
"王道"へのスタートラインとして、絶妙な条件設定なのだが、集まる馬の質としては……決して、高くないのが日経賞の特徴であり実情である。
大目標たる春天自体が、関西圏での開催である事と――"西高東低"と揶揄されて久しい、競馬界の勢力図が相まって、日経賞からの始動を選択しない有力馬陣営が多いのが実情だ。
それは、盛り上がっている今年でも例外ではなかった。
クロテンが一番人気に推された事は既に文中で述べたが、威張れる実績がGⅡ一つ――というクロテンに支持が集まるという事から、少しは想像が着くだろう。
クロテンのライバル1番手と目されているのは6歳馬のホリノブラボー。
去年は函館記念と札幌記念を連勝し、サマー2000シリーズを制覇。
その勢いで秋のGⅠ戦線に殴り込みをかけたものの、秋天とJCでは大敗――しかし、有馬では3着に食い込んだ事で、その成績から小回り巧者として注目を集めている。
次に挙げたいのは、メンバー唯一のGⅠ馬、7歳の古豪ブルーライオット。
一昨年の春天を制しているが、それ以降は不振が続き、昨秋は比較的に長距離レースが多いオーストラリア遠征にも活路を求めた。
海外GⅠ制覇とはならなかったが、最高峰とされているメルボルンカップで2着に入るなど活躍し、今回は"プチ"凱旋レースでもある。
もう一頭、挙げておきたいのが、4歳馬のライジングサン。
去年のクラシックには未出走、実績的にはこれまで目立ったモノは無く、2週前にオープンクラス入りしたばかりのいわゆる"上がり馬"なのだが……注目すべきは、その血統である。
ライジングサンの母は、アカツキの母であるシャインポラリスの異父姉にあたるクレナイシンガー――つまり、ライジングサンは、アカツキの従兄弟にあたる良血馬である。
そこから『アカツキが留守を任せた逸材!』という評判がプラスされ、非常に注目を集めている。
締め切り5分前の単勝オッズでは――
クロテンが3.9倍。
『小回り巧者』ホリノブラボーが4.1倍。
『プチ凱旋』ブルーライオットが4.2倍
『アカツキの従兄弟』ライジングサンが4.5倍。
――という、僅差で推移していた。
「――本当に、結果を読み辛い顔触れだね。
馬券を買われる方に、申し訳ないぐらいだ」
新聞と掲示板を見比べた石原は苦笑を漏らした。
「"確実に勝てる"――とまでは言えませんが、大敗は無いと思います」
「弱気でレースも見れない、由幸くんのセリフとは思えないなぁ……期待させてもらおうか」
自信タップリの海野の顔つきに、石原も釣られた様に笑みを浮かべた。
『――"絶対王者"を、海の向こうへと送り出し……混戦模様の"王道"。
東のここから、1歩抜け出すのは果たしてどの馬か――スタートしました!!』
ゲートが開き、日経賞のレースが始まった。
『各馬、素晴らしいスタートです!、さて先ずは……レーザービームが出てまいりました』
上位人気には推されていないが、AJCCの時にクロテンに玩ばれたレーザービームも、ここに名を列ねていた。
レーザービームは、その名前の様に、光線が放たれた様な初速の速さで、ひたすら先頭に立とうとする個性派として、コアなファンが付いている名物馬である。
『その後ろにはライジングサン――一番人気のクロダテンユウは、外目の3番手に付けました!』
「よし……っ!」
珍しく、レースの模様をちゃんと観ていた海野は、小さくガッツポーズを作った。
『――麻生翼が、手塩にかけた"テンくん"は、順調に追走しております!』
全馬の隊列を紹介した後、アナウンサーがそんな余計な情報も織り交ぜた事で、観客はドッと沸き、馬群はスタンド前を通り過ぎた。
「もう……!、レースの実況に集中して欲しいなぁ」
いきなり、自分の名前が出た翼は、赤面して少しうつむいた。
クロテンの状態について、競馬マスコミのインタビューを何度も受けていた翼の存在は、騎乗している栗野以上に認知されている。
実績的には劣る部分が多いクロテンが一番人気に推されたのは、将来性もあるだろうが――『クロダ軍団、最後の大物』というオールドファンの力と、翼に魅かれた"にわか"ファンの力かもしれない。
(由幸くんのオーダー通り、良い位置だし、良いペースで具合も良い――)
クロテンの鞍上にいる栗野は、長手綱でゆっくりとクロテンを御している。
(――しかし、その分、レーザービームも良い離し方で逃げているなぁ……少し、早く仕掛けた方が良いかな?)
レーザービームにも騎乗して勝利した経験がある栗野は、快調に逃げているその名物馬の動きを警戒していた。
(よし――残り1000m過ぎてから、徐々にギアを上げようか)
栗野はそう腹を決めて、レーザービームを注視しながらの追走を決め込んだ。
『――少しゆ~っくりとしたペースでしょうか?、レーザービームが快調に逃げている!、さあっ!、残り1000mを通過――』
(――よしっ!、そろそろ行こうか!」
栗野がクロテンに少し、ペースを上げる様に指示し、クロテンも瞬時に意図を解って、右前脚に力を込めて、芝の馬場に踏み込んだ!
緊張した翔平――
ちゃんとレースを観ている海野――
そして……初めて、一番人気を背負ったクロテン自身――
ほとんどが、どれも珍しい光景だった。
……それらが何かの合図だった様に、クロテンに迫る魔手は牙を剥いた――!
――ミシッ!
……ガクン!
(!、――?!)
これは――クロテンの心の声である。
栗野の指示を鋭敏に感じとり、右前脚を踏み込んだ瞬間、自分の足下から奇妙な音が聞こえた。
そして、突如としてバランスを崩し、凄まじい激痛が右脚から身体を駆け抜けるっ!
クロテンはその激痛に顔をしかめ、自分に起きた出来事を理解出来ず――ただ脅えて、馬が感情を表す器官とされている耳を伏せた。
鞍上の栗野も、間髪入れずに異変に気付いた。
"加速"を指示したはずのクロテンが逆に"減速"――さらに、明らかに不自然な形でバランスを崩したっ!、そして、クロテンが見せた耳の反応――!
これは、もう――
(――!!!!、
騎手の間には、自動車の"ソレ"に例えて、レース中の事故をこう呼ぶ隠語がある。
「――パンクだっっ!!!!!、避けろぉぉっ!!!!!」
栗野は、大声を張り上げて、周辺に異常を知らせた!
幸い、周りにはインコースの真横にライジングサンが付けているぐらいで、次の馬群とも少し離れていた事から、栗野の気転もあり、馬群の渋滞にコースアウトを防がれての事故も無く、クロテンは減速しながら、外へ外へと、レースの流れからフェードアウトした。
『!、あ~っと?!、クロダテンユウがズルズル後退!、1番人気のクロダテンユウは競争を中止しております!、これは大変な事になりました!』
――海野も、石原も、翔平と翼も……何が起きたのかを理解するまでに数秒を要した。
その数秒後、海野たちは険しい表情で動き出し、翔平はあんぐりと口を開け、翼は口を覆ったまま立ちすくんだ……
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