伝播する不幸

伝播する不幸(前編)

「――よいしょっ」


病室のベットの上に座っていた優斗は、おもむろに足を床に垂らした。



「よっ……!」


力を込めて左足に体重を掛け、優斗はゆっくりと立ち上がる。


筋力が少し戻った優斗の左足は何とかその体重を受け止めていて、優斗はしっかりと立っていた。


そして、これもまたゆっくりと、優斗の右足が――動いた!



――そう、優斗は歩いている!



これが本格的なリハビリのために転院して、約1ヶ月の成果である。



だがとは、とても言い切れないぎこちなさが残る動きではある。


右足はマトモには上がらず、率直に言えばと言った方が正しい。


その動きは、まるでブリキの玩具のロボットが、ゼンマイで動いている様である。



たとえ恰好が何にしても、車椅子にも、人の手にも、力を借りずに歩けるというのは素晴らしい事である。



特に車椅子は端から見れば、自分の力を少ししか使わずに動いているので、楽に見えるかもしれないが――乗っている者からすれば、あれは実に邪魔なシロモノである。


扉を通ろうとすればその幅が邪魔するし、後ろを向くためにターンしようとすれば結構、力とテクニックが必要だったりするのだ。


優斗は病室のベッドに置いておいた杖を手に取り、ゆっくりと1歩、1歩、と杖を突きながら歩き、病棟の廊下に出た。


とぼとぼと廊下を歩いた優斗は『デイルーム』と書かれた広いオープンスペースにある椅子に腰掛けた。



デイルームとは病棟に設けられた談話室の事である。


この病院の場合、入院患者をここに集めて、一緒に食事を摂るという、食堂の様な役割を果たしていたりする。


優斗も、毎回の食事はここで食べている。



「――ふっ」


病室からここまで、25mにも満たない距離の道程だったが、足はプルプルと震えを見せていて、少し疲労感も感じる。


(情けない――な)


優斗は苦笑いを見せて、壁に掛かった時計を見た。



優斗が時間を気にしているのは、リハビリのスケジュールのためである。



優斗は作業、理学、言語のリハビリを1日1時間ずつこなしている。


そのスケジュールは、毎朝担当の療法士がわざわざ病室にやってきて、時間を伝えてくれるというシステムだ。



今日の優斗は、午前に作業、午後イチに理学を終え、残すは言語だけだった。


(最後はナツ――か)


スケジュールの予定は午後3時、時計が示しているのは2時50分なので、もうすぐである。



通常なら、担当者が病室に迎えに来るのだが、優斗は何となく部屋から出てきてしまった。


優斗は暇を潰そうと、おもむろに椅子の側に置かれているテーブルの上を見た。


そこには、いつでも誰が読んでも良いように、新聞が置かれている。


優斗は何となく、その新聞を手に取った。


テーブルに新聞を拡げ、ペラペラとめくって記事を読む。


作業療法でも新聞をめくったり、記事を読む事で、脳を刺激する効果を見込んだリハビリをしていたが、これは単なる暇潰し。


優斗は、深い意味も無く記事を眺めていた――


「……ん?」


――そんな優斗の目に、スポーツ欄のある記事が止まった。



『日経賞 GⅡ』



(……そういえば、今日は土曜日だったな)



こうして、ひたすらリハビリをする生活をしていると、曜日の感覚はほとんど無くなる。


晴部市立病院にいた頃は、土日祝日は緊急性がある治療行為以外は休みになり、ただベッドの上で寝ているだけになっていたので、ある程度は感じられたのだが。


優斗が何気なく出走表を見渡すと――


(あっ――!?)



『4枠7番 クロダテンユウ』



――クロテンの名前を見つけた。



(あの後、どこか使ったのかな?)



優斗は、あの日から競馬――いや、テレビなどをあまり観ていない。



病室にテレビは置かれているのだが、視聴費用がかなりバカにならない料金設定なので、一度も観てはいない。


観るのはせいぜい、ここに置かれたテレビで、食事を摂る時に観るぐらいのものだ。



(一般紙のスポーツ欄に、成績表は載ってるわけないわな……)


優斗は少し探してしまった、自分のそんな発想に呆れて、またも苦笑いを漏らした。





場面は変わって、中山競馬場のパドック。



7番のゼッケンを纏ったクロテンは悠々とパドックを周回していた。


その手綱を引く翔平は、何故かいつもとは違う、緊張した面持ちで一緒に周回していた。



その理由は、クロテンの評価にある。



伝統のGⅡを制した勢いと、この中山での安定した成績――そして、翼が跨った追い切りでの鋭敏さなど、色々な要素が重なり、3.2倍という比較的高いオッズとはいえ、クロテンはデビュー以来初めての1番人気に推されていた。


(――たとえGⅠでも、菊花賞の時は全然緊張なんて感じなかったのに……1番人気っていうのは、こうも違うものなんだなぁ……)


翔平は、何度もゴクリと唾を飲み込みながら、パドックを周回していた。



ここにやって来た観客に限らず、全国各地の場外売り場や、電話やインターネットに依る投票も含めて、計算されるオッズという"評価"。


それは今日まで、クロテンを扱ってきた自分に対する評価の代替の様な気がして、翔平は吐き気を催すほどの緊張感に襲われていた。



――対して海野は、いつもの震える様な緊張感を見せず、余裕すら感じる態度だった。



「――栗野くりのさん、好位にさえ付けてもらえれば、おのずと結果は付いてくると思っていますので、よろしくお願いします」


騎乗命令を待つ待機所で、今回クロテンの手綱を執る栗野正臣まさおみ騎手に、海野は作戦指示を伝えた。


「今日は随分、自信満々だねぇ……いつもの由幸くんとは大違いだ」


栗野は、この道30年以上――1000を超える数の勝利歴を持つ、が頭に付くベテランジョッキーである。



海野が栗野に騎乗を依頼する事は比較的多い――それは、ちょっとした縁があるからである。



海野が厩務員として師事を仰いでいた高橋照正調教師の厩舎、その高橋厩舎で主戦ジョッキーを務めていたのが栗野だった。


海野は担当馬の騎乗などで栗野との親交を深めていて、自分が開業した後は、よく管理馬の騎乗を依頼している。


ちなみにクロテンに騎乗するのは今日が2度目で、クロテンが新潟で2勝目を揚げた時のパートナーでもある。



「今日のクロダテンユウは、凄く良い状態ですからね……今日は開業以来、一番の自信を抱いて臨んでますから」


海野は妙に清々しい表情で、栗野の見解に応えた。



翼の登場により、少し光明が見え始めたクロテンの調整法。



その光明から自分独自の答えを見つけようとした海野は、クロテンのレース振りをイチから洗い直し、導きだした答えは『クロテンの勝利時はベテランが手綱を取った時』という事実だった。


前走の関は、もちろん若手ではない年齢だし、勝利時の手綱を握っていたのは、全て20年以上のキャリアを持つ、ベテランジョッキーというデータ――調教時とは真逆の発見だった。


(『クロテンは、調教はつまらない練習、レースを本気で走れる場としてみたいだ』と、関君は言っていた。


そして、今回の2つの発見――つまり、彼は調教とレースの違いを理解しているぐらい、異様に賢いという事。


だから、調教ではノビノビと走らせるが、レースでは"シメる時はシメる!"――というON、OFFの切り替えが大事なのかもしれない)


――と、考えた海野は『調教は経験が少ない翼、レースは経験豊富なベテランを基軸に依頼する』というメソッドを構築してみたのである。


「"ノミの心臓の由幸"が、それだけの自信を持っているって事は、ジジイの僕も楽させてもらえそうだね」


栗野はそう言って笑みを見せ、『止ま~れ!』の号令と共に、待機所から出て行った。





「あっ!」


デイルームに優斗がいる事を目視した奈津美は、手を振りながら笑顔でスペースに入って来た。



奈津美に気がついた優斗は、そのフランクな態度に少し苦笑いを見せて、新聞を畳んだ。


「ユウく~ん、おまたせ……部屋から出てきてたんだね」


「ええ……、今日もよろしくお願いします」


「……へっ?」


優斗のよそよそしい返事に驚き、奈津美はキョトンと、面を喰らった。


「ちょっと、ユウ……」


「うっ、ううんっ!、さあ、行きましょうか――よいしょっ!」


「あっ!、大丈夫?」


――と言って、優斗を支えようと近付いた奈津美に、優斗は小さな声で――


「――リハビリ始まったら、話す」


――と、囁いた。


「……?」


奈津美はまたもキョトンとして、とりあえず優斗に向けて首を縦に振った。


「じゃあ――行きましょうか、小野さん」






例の個室に入った二人は、いつもの様に机を挟んで、向かい合わせに腰を下ろした。



「ユウくん……どうしたの?」


座って直ぐ、優斗の急な態度の変貌について、奈津美は疑問をぶつけてきた。


「――ナツ、やっぱりマズイだろ?、いい歳した男女が、子供の頃と同じあだ名で呼び合うのはさ」


「……?、どうして?」


「いや、その……」


優斗は説明に困った顔で、足と同じく少しだけ動くようになった右手で、鼻の頭を掻いた。


「――昨日、お前、休みだっただろ?、――で、若い女の人が……」


「うん、メグちゃんに、ユウくんの担当、お願いしたね」



メグちゃん――というのは昨日、優斗の言語療法を担当した療法士、中井愛実なかいめぐみの事で、初日の時に奈津美が言っていた、"若い娘"でもある、齢21歳の新人療法士である。



ちなみに、この病院に所属している4人の言語療法士は何故か、全て女性である。



「――その娘に、『臼井さんって、小野さんの元カレなんですかぁ?』って、訊かれて……」


「――っ?!、えっ!、え~~~~~!!!!!」


優斗はこれ以上の返答に困って目を逸らし、奈津美は真っ赤に赤面して、激しく動揺した。


「なっ――なななななっ!、あっ!、あの娘わぁぁぁ!」


奈津美は赤面したまま、に替わってしまうほどに憤慨している。



「やっぱり、人前であんなふうに呼び合ってりゃ、そりゃあ誤解招くよ。


まあ、俺も何となく呼んじゃうんだけどさ」


「私は単に、『幼馴染なんだ~』って、言っただけなのに!」


奈津美は腕を組んで、机を指で叩いている――


「私とユウくんは、中学までの接点だよ!?


私たちの頃はそんなマセた人なんて、ほんの一握りだったし……あの娘は恋愛モノの読み過ぎよ!」


「あの娘だけじゃないよ。


他の患者さんにまで――『あの療法士と昔、デキてたんだって?』って、言われた事もあるしな」


「~~~~~!!!」


奈津美は更に赤面の度合いを増して、湯気でも噴出しそうに顔色を変えた。


「――だからお互い、これからは気をつけて……」


「――イヤ」


「へっ?」


「もうムダだよ、変に対応を変えたら、返っておかしいし……ユウくんが退院するまで、ガマンしてやり過ごそう」


「まあ、確かにそうだが……」


「メグちゃんには、私がキツ~く言い聞かせるから!、ごめんね、ホント」


奈津美は呆れた表情で頭を下げ、少し取り乱した自分の態度を正して、何かを思いついた奈津美は、うっすらと笑みを浮かべた。


「ユウくんも――


『こうして、ほぼ毎日、療法デートしてるから、今の彼氏だよ?』


――って、上手~く切り返してくれれば良かったのに」


「お前は……こんな状態のヤツを、に使う気か?


それに――今のこの口で、そんなウィットに富んだ返し、出来ると思うのか?」


二人は、そんな漫才の様なやりとりをして笑い合った。



あの思わぬ再会を果たしたあの日から、今日まで約1ヶ月――この二人のリハビリは、こんな調子である。



子供の頃の懐かしい話に始まり、同世代だから解る過去の流行、芸能やスポーツの時事――16年のブランクの割に、二人は実に軽妙な会話をしている。



「そういえば……さっき、新聞のスポーツ欄、観てたよね?


何を観てたの?、野球?、サッカー?」



――それは、話を途切れさせない様に、色んな話題にアンテナを立てている、奈津美の献身的な努力が下地にあるのかもしれない。


それが優斗が、奈津美に感じた『プロ意識』である。



「よく気付いてたな、しかも欄の種類まで」


「『勝ち越し弾!』っていうのが見えたからね、サッカーや野球の記事かなって」


「なんで、そんな細かい事に気が付くんだ?」


「職業病……かな?


患者さんがどういう動きをしているかを、ちゃんと見てなきゃならないから……それで、色んな事に気付く様になったのかも」


「じゃあ……今も?」


「うん、今もユウくんの口元の動きを注視してるよ」


奈津美は一指し指を立てて、優斗の唇をスッと指差した。


「な~んか、お前が彼氏いない理由、解った気がする」


「どういう意味よ!?」


「はは……で、『何の記事観てたか?』ってか?」


奈津美は2回ほど頷いて、身を乗り出して優斗の返答を待つ。


「知ったら――ちょっとぜ?」


「勿体ぶらないでよ~!」


「……競馬だよ」


「競馬……?!」


優斗の答えがよほど想像と違ったのか、奈津美は大きく目を見張った。



「ほら~!、やっぱりだろ?」


優斗は眉間にシワを寄せて、不快な態度を示した。


「違うよ!、全然違う!、意外だっただけだよぉ~!、ユウくんのイメージとも違ったし」


奈津美は弁明しながら、急にモジモジし始めた。


「それに……私も競馬、大好きだから、ビックリしちゃって」


「えっ!、ナツが?!」


「うん、新人の頃に話題づくりのために晴部の場外に行ってみたの……そしたら、ビギナーズラックで万馬券、当っちゃって!、それからはPATまで申し込んでドハマリだよ~!」


「へっ、へぇ~……」


優斗は熱弁を振るい始めた、奈津美の勢いに気圧されて、顔をピクピクさせた。


「あっ……今のでしょ?。


やっぱコレが原因なのかなぁ?、モテないのは……」


(――自覚、あるのか……)


……と、優斗も思いはしたが、それは心の隅に留めておく事にした。


「補足しておくと、ちゃんと"分相応"な金額でしか遊んでないよ」


奈津美は楽しそうに、懐から財布を取り出すジェスチャーを見せた。


「ユウくんは?、競馬の武勇伝、聞いてみたいなぁ~」


奈津美はまたも身を乗り出して、優斗の返答を待った。


「俺は武勇伝なんて無いよ、買っても100円単位ばっかだし、当る事の方がマグレさ」


優斗は左手を横に振り、苦笑いを見せた後――


「それに、俺はいわゆる"ロマン派"だからさ」



『ロマン派』というのは競馬の楽しみ方の一つの俗称である。


馬券の収支には目もくれず、血統が繋ぐドラマや低迷していた馬の復活劇などの、スポーツとしての要素に重きを置いた楽しみ方の事を指す。



「へぇ~、ロマン派かぁ~……何を応援してたの?、馬?、血統?、それとも騎手?」


「クロダ牧場――って、知ってるか?」


「うん、確か……一昨年に潰れちゃったんだっけ?」


「そこで産まれた、クロダテンユウを応援してた――ファンレターまで厩舎に送って」


「ファ、ファンレター?!」


「ナツ……今、な?」


「あっ、これはさっきのお返し……知ってるよ、ロマン派にそういう人がいる事は」



優斗は、ファンレターを送るようになった経緯を、奈津美に教えて聞かせた。



「――そっか、それは応援したくなっちゃうかもね」


奈津美は腕組みをして、優斗から聞いた経緯を噛み締めた。


そして、奈津美はいつものように壁掛け時計に目をやる。


「今は、3時35分か……そういえば、今日の日経賞に出てたよね、クロダテンユウ」


「ああ、それで新聞、見てたんだよ」


「だったら、デイルームのテレビで一緒に観ようか?、3時45分スタートだから、終わるにはちょっとだけ早いけど」


「――良いのか?」


「観た後、感想でも話し合えば、丁度良いよ、きっと」


二人はゆっくりと立ち上がり、言語療法室を出た。





優斗のペースに合わせて、二人は先ほどのデイルームに向った。



『今日の中山メインは、日経賞――』



二人が近づくと、丁度デイルームの大きなテレビから、競馬中継の音声が聞こえてきた。


「お!、ナイスタイミング!、誰か観てるみたい!」


奈津美は優斗の方を見て、笑顔で語りかけた。


「結構、観てる患者さん、多いんだよ~?、GⅠの時は、さながらパブリックビューイング!」



『――スタートしました!』



テレビの音声にゲートが開く音が混ざり、アナウンサーがスタートを告げた。


「始まった……間に合うかな?」


「大丈夫、大丈夫……ユウくん、ゆっくりね」



二人が、デイルームに入り、テレビの画面を観た……その時っ!



『残り1000mを通過――あ~っと?!、クロダテンユウがズルズル後退!』



……画面に映し出されたのは、馬群の中から離れる様に外に向って走り、一気にスピードを落としたクロテンの華麗な馬体の姿だった。



「……!?」


「……えっ?!」



『――1番人気のクロダテンユウは、競争を中止しております!、これは大変な事になりました!』



……二人は、テレビ画面で起こった出来事をハッキリとは理解出来ず――只、ただ、呆然と立ち尽くす……



その後に続いたレースの様子は、二人の目にも、耳にも入らなかった。



――ガラン!



優斗は力が抜けて、自分を支えている杖を落としてしまった。


「!?、ユウくん!」


奈津美は慌てて、優斗の身体を支える。


「大丈夫――大丈夫だよ、ナツ、ありがとう」


優斗は壁伝いに備え付けらている手すりにつかまり、杖を拾った。


「はっ、はは……!」


突然、優斗は乾いた笑い声を漏らした。


「俺の――俺のせいだな、きっと。


俺みたいなのが、応援、してたから……!」


「ユウくん……!、そんな事あるわけ……」


奈津美は優斗の気持ちを慰めようと口を開いたが、涙に支配された優斗の顔を見て、その後の言葉を掛ける事は出来なかった。

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