蕾、芽吹く春
ついに迎えた、土曜日の3歳未勝利戦。
舞台は中山競馬場、ダート1800m。
スタートを控え、翼が乗るゼッケン6番、オーバーレジェンドはゲートの前で輪乗りをしていた。
(ふぅ~――やっぱり、この時間は緊張するなぁ)
翼は神経質に何度も自分の額を擦ったり、頭の上の赤い帽子を触ってみたりして、緊張を解そうと努力していた。
オーバーレジェンドは現在5番人気――競馬新聞でも、調教時の調子の良さが強調された記事が多く、初勝利への期待が持てそうな雰囲気だ。
しかし、この馬は昨年の6月のデビューから前走まで15戦、未勝利戦という言葉が示す通り、1着経験が無い事は当然だが、この馬は3着以上に入った経験すら無い。
今回の5番人気という評価は正直、この馬のここまでの成績を振り返れば少し過度な評価に写る。
競馬で言う人気とは、至極解り易く言えば馬券の売り上げである。
つまり、強さ以外の売れる要素さえあれば、おのずと評価が上がる。
恐らく、今回の高評価は、"文字通り"の翼への人気に因るモノのようだ。
対するライバルたちの筆頭、つまり1番人気に挙げられているのは――11番のユーエスタイタン。
600㎏に迫りそうな雄大な馬体、その馬体を包んでいる割れんばかりに隆起した筋肉、素人目に見ても凄まじいパワーを秘めていそうな事が解かる馬である。
鞍上は、やはりと言っても良い、関昴。
関も輪乗りに加わりながら、ゲートインを待っている。
(翼ちゃんには悪いが――コイツは相当強いよ。
最終的には、ダートの大きいトコロを獲るだろう逸材だからね)
ユーエスタイタンはその尋常ではない馬体から、デビュー前から注目を集めていて、3週間前の新馬戦でデビューしていた。
だが、そのデビュー戦で敗れてしまい、人馬共に今回の未勝利戦でのリベンジに燃えている。
そのデビュー戦の内容も、スタートで大幅な出遅れをやらかし、猛然と追い込んでハナ差の2着まで肉迫したという"負けて尚強し"の典型的な負け方。
『相手も弱くなるし、出直し勝ちが確実――』
――というムードが圧倒的に占めていて、単勝オッズはその圧倒的の目安を超えている1.7倍である。
だが、翼は勝利を諦めてなどいない。
彼女は今日のために、オーバーレジェンドのレースビデオを徹底的に研究し、例の教授ノートも熟読して、このレースに臨んでいる。
(お世話になってる自厩舎の馬で、初勝利を迎えたいもの!)
翼は、可愛いらしい外見の割に、激しい面も持ち合わせていた。
ファンファーレが鳴り、全馬のゲートインが始まる。
『中山競馬場、本日の第2Rは3歳未勝利戦、ダートの1800mであります――』
全馬がゲートインを終え、競馬場は静寂に包まれる――
ガッシャン!
『――スタートしました……先ずは揃いました。
今回はユーエスタイタンも、良いスタートであります』
アナウンサーは新馬戦での騒動を引き合いに出しているのか、少し皮肉めいた言い方で実況している。
『さて、何が行くでしょうか――おっと!、麻生翼とオーバーレジェンドが積極的に行く意思を見せている~!、続いて、押し出されるように1番人気のユーエスタイタンが二番手に付けました!』
(ふぃ~い……今回は上手く出てくれたなぁ、一安心)
関は胸を撫で下ろし、手綱をゆったりと垂らした。
(しっかし、翼ちゃんが逃げるとはね~!、これはちょっと想定外だわ)
翼は自分の股から後ろを覗いて、先頭に立った事を確認して、少しスピードを落とした。
(先ずは逃げれた!、これで良いんですよね?、先生――)
翼は海野に作戦を指示された時の事を思い出していた――
「――逃げ、ですか?」
「そう、思い切って行って欲しいんだ」
厩舎事務所のテーブルの上で自前のノートPCを使って、レジェンドのレースを研究していた翼は、少し驚きながら海野の目を覗いた。
「でも、先生……レジェンドは、初速の遅さが弱点って」
翼は遠慮無く、海野の指示に疑問をぶつけた。
「――良いね、よく見てる……率直に、作戦への疑問をぶつけてくれる所も」
翼はハッ!、となって、思わず口元を抑える。
「良いよ、僕に言う分にはね。
僕は、そのぐらいの熱意を持った人の方がありがたいし」
「すっ、すいません」
「いやいや――で、本題だけど、ベタな策ではあるけど、君の"貰い"を活かさせてもらおうと思ってね」
――"貰い"、というのは、翼の様な新人や、まだ通算勝利数が少なく、経験も少ない若手騎手(※見習い騎手)に与えられている優遇制度――『減量特典』の事を指す隠語である。
『○○特別』や『○○ステークス』などの名前が付いたレース以外では、見習い騎手の騎乗馬は負担重量が軽減されるという優遇が与えられている。
その有利な条件を利して、経験豊富な先輩騎手たちと体等に戦えるルールが設けられているのだ。
翼の場合は――ドが付く新人なので、一番軽くなる3㎏の"貰い"だ。
「今の良い状態で、貰いも付けば……課題の初速の遅さをカバー出来る――かと思ってね」
「はぁ、なるほど……」
「先頭が獲れたら、あとは君に任せるよ」
「ええっ!?、良いんですか?」
「ああ、先手を獲れただけでも、レジェンドには収穫だし――後は野となれ、なんとやら――さ」
「せっ、先生のイメージとは、違う発言ですね……」
「そうかい?、僕は、騎手経験が無い訳だし、そんなヤツが細々と言っても意味無いでしょ?
僕は、キミがそう判断した"戦法"を尊重するよ……僕の役目は、もう少し大局に目を向けた"戦術"の方だからね」
「はっ、はあ……」
「ちょっと難しい言い方だったかな?、これが僕の嫌われるトコロだね」
(――後はワタシ次第、うん!、ベストを尽くそう!)
「テキ!、翼が――レジェンドが逃げてますよ!」
いつもの様に管理馬のレースがマトモに観れない海野は、目線を外して佐山の解説に耳を傾けている。
海野はレースを観てはいないはずだが、口元は少し、ほくそ笑んでいた。
(翼ちゃん、気持ち良く逃げてるなぁ。
少し、距離を詰めた方が――)
その時、関の背中に、電流の様な感覚が走った!
それは、少しだけスピードを上げ、ほんの少しだけ翼の後ろ姿が近くなった時だった。
(――ハッ!?、翼ちゃんの真後ろ……に、近づくのはイロイロとマズイ!)
関の長年培った"勝負師の勘"がそう言っているようだ。
(ずっと、翼ちゃんの後ろに付けてたら――)
関の脳裏に浮かんだ、マズイ事というのは――
4コーナーまで、翼ちゃんの後ろにピッタリと付ける。
↓
レースの後、翼ちゃんが――
「先生……関さんが、ずっとワタシのお尻を、イヤらしい目線で見ていたんです!」
――と、泣きながら訴える。
↓
「あっ、もしもし?、彩子さん、実は――」
――と、ヨッシーが彩子に電話を掛ける。
↓
家庭崩壊……!
(~~~~!!!!!!!)
――関の心の中は、声にならない叫びで満たされた。
(タッ……タイタンの末脚なら充分届く!、この距離をキープだ!)
関は手綱をガッチリと引いて、スピードを緩めた。
(……!?、関が手綱を引いた!)
後続に控える他の騎手たちは関の動向を注視していた。
(――やっぱり、お嬢ちゃんの逃げは無謀か!、よしっ!、このまま関をマークだ!)
翼は、もう一度、股の下から後続の動向をうかがう。
(――あれっ?、誰も追いかけてこない?、そんなに無理な逃げには、なってないと思うのだけど……)
翼も、少しだけ手綱を引いて、ペースを落とした。
(――よし!、まだゆっくり行こう!)
『――さあ、残り600mのハロン棒を通過!、先頭はまだオーバーレジェンド!』
レースはいよいよ最後のコーナーに差し掛かった。
(さすがに、もう詰めなきゃダメだ!)
関はタイタンの手綱をしごいた!
『1番人気!、ユーエスタイタンと関昴が動いた~!、どんどん差が縮まっていくぞ~!』
(関さんが動いた?!、よ~しっ!、キミもスパートだよ!)
起きた歓声に呼応する様に、翼もゴーサインをレジェンドに送った。
(出来るだけ……出来るだけ、差を維持して直線へ行こう!、キミは最後まで頑張れるんだから!)
それが翼が研究の末に感じた、レジェンドの印象だった。
初速は鈍いが、スピードの持続力が高い――それが、レジェンドの持ち味だと。
タイタンはレジェンドの後ろに迫る勢いで猛追している――だが!
(くっ……!、真後ろに付けて、"疑惑"が掛かったらマズイ!、外だ!、外に回るぞ!)
関はアウトコースを通るように指示を出した。
『最後の直線に入った!、先頭はオーバーレジェンド!、2番手にユーエスタイタン!』
(――行け!、差すぞ!、タイタン!)
関は左ムチをタイタンの尻に打った!
タイタンは全身を使って、レジェンドを追いかけている!
その差は2馬身――いや!、一気に1馬身にまで縮まった!
(まだっ!、まだ頑張って!、レジェンド!)
翼は懸命に手綱をしごき、ムチを入れる!
レジェンドも、それに鋭利に反応してスピードを維持し続けている!
(あれっ!?、差の縮まりが――鈍い?!)
関は思わぬレジェンドの抵抗に目を見張った。
『坂を上って、まだ先頭はオーバーレジェンド!、ユーエスタイタンが迫る!、オーバーレジェンド!、ユーエスタイタン!』
(くっ~!、これは……っ!、コレは――っ!、ヨッシーの脅しにやられたなぁ~!)
『――オーバーレジェンド!、凌ぎきってゴールイン!』
――わっ!、と、驚いた歓声が上がった。
『勝ったのはオーバーレジェンド!、ユーエスタイタンはまたも2着!、3番手は混戦!』
実況アナは、結果を簡素に伝えた後、徐に――
『――そしてっ!、新人の麻生翼騎手初勝利!、笑顔が弾けております!』
――アナウンスの通り、零れそうな笑顔でレジェンドの首に抱きついている翼の様子も伝えた。
「レジェンド~!、よく頑張ってくれたよぉ~!、おめでとう!」
翼は手綱を引きながら、レジェンドの首筋を擦って健闘を労った。
「――おめでとうは、翼ちゃんも、だろ?」
関もタイタンのスピードを落とし、馬体を合わせて握手を求めてきた。
「これが"本当のスタート"だよ?、翼ちゃん」
関の今までに無い鋭い目線に気圧され、翼はビクッと背筋が震えた。
「次は負けないよ~♪」
――と、すぐにいつもの関に戻り、飄々と彼は去っていったのだが、翼は――
(――これが"勝負師の一人"として、認められるって事なんだ!)
――と、この世界の厳しさの一端を垣間見た気がした。
春は、新しい新芽が芽吹く季節――こうして、競馬界にも新たな蕾が芽吹き始めた。
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