新風

新風

「マスター……いつもの」


そんな軽口を叩いて、海野の横に座ったのは案の定、関だった。



調教スタンドで朝の調教を見守る海野は、目の前のカウンターにマグボトルを置いていた。


中身はもちろん自慢のコーヒー――事務所にもちゃんと淹れる準備がしてあるが、これは自分用の特別仕様だ。



関は持参した紙コップを、マグボトルの横にスッ……と置いた。


「……なに?」


関は無言のままチョイチョイと、紙コップを指差す。



つまり――「1杯恵んで!」という意味らしい。



「口、つけてるけど?」


関はうんうんと2回肯き――


「ヨッシーとの間接キスなら、問題無いよ!」


――と、親指を立てて『Good!』のポーズを見せた。



海野は少し呆れ気味に「はぁ……」と、小さく溜め息を付いて、紙コップに注いでやった。


「♪」


関がご機嫌に紙コップに口をつけると――


「!?、にがっ!」


「朝弱い人用の特別仕様スペシャルブレンドだよ~」


手が空いた海野は双眼鏡を持って、ダートコースに目を移している。


「でも……うまっ!、この苦味が後を引くわ~、やみつきになりそ♪」


「それ、田子たごさんの店のコップだよね……2杯目?」


「いや、中身捨てた。


ヨッシーのを貰うために、コップ欲しかったから」



田子さん、というのは……トレセン内に入っている、売店業者のおばちゃんの名前だ。


つまり、関は紙コップ欲しさに注文し、コーヒーを捨ててコップだけを持って来た――という事である。



「失礼だろうよ、それにお金の使い方、間違ってる……」


「トップジョッキーの成せる業さ♪」



※この作品はフィクションです、そんな事をするのは関昴だけです!


あと、良い子も良い大人も、真似しないでください。



「ヨッシー、店やったら?、売り子を雇って。


儲かるぜ~、これ」



関の言う事は、あながち的を得ている。



最近、特別な用も無いのに海野厩舎に顔を出すジョッキーがやたらと多い。


もちろん、顔を出すのは騎乗依頼目当ての"営業"が主な理由なのは当然だが、初めて訪れたジョッキーは必ずと言って良いほど、コーヒーの話題を振ってきて、事務所に用意しているモノを飲んで帰るのだ。



「良いCMタレントも居るしねぇ~、こ・こ・に♪」


そう、口コミの発端は関である。



ジョッキー仲間からホースマンたち、果ては競馬記者たちにまで――


「教授のトコロのコーヒーは絶品!」


――というウワサをばら撒いているのだ。



「目覚めの一撃!、"教授珈琲"の『モーニングバズーカ』!、どうよ!?、コレ?」


関は紙コップを前に突き出し、ポーズを決めてみせた。



「はいはい、良いんじゃないの~」


海野は生返事を返して、走っている派手な尾花栗毛の馬を、双眼鏡越しに凝視している。



「おっ!?、あれ、クロテンじゃん」


「……よく解かるね、双眼鏡無しで」


「目、良いからね、俺。


それに……クロテンは目立つし」


「僕は無理だなぁ、お恥ずかしいけど」


「ヨッシーは勉強のし過ぎでしょ?、どれどれぇ~クロテンの1週前の具合は――」


関はプロの目に戻り、視力が高い自慢の目で、クロテンの走りを凝視する。



「――ヨッシー」


「ん~?」


「クロテン、おかしいよ!」


「えっ!!??、どっ!、どこ?!」


「クロテンが……マジメに調教させてる!!!、俺の時は全然やる気見せなかったのにぃ!!!!」


「なんだ、驚かせないでよ……」


「翔平も、謙さんも、他に手綱取ったヤツも『クロテンはあんなもんですよ』って言ってたのに!」


関は憤慨したまま海野の顔を見る。


「"一戦叩いた効果"で、済むレベルじゃないよっ!、レースの時よりも集中してるしっ!」


「関君、落ち着いて――」


海野は双眼鏡をカウンターに置き、関の肩に手を乗せた。


「――アレにはね、ちょっとしたヒミツがあるんだ」






「終わりました~」


調教コースから戻ってきた、クロテンとその騎乗者は、疲れきった様子で大きく息を吐いた。


「クロテン、ご苦労さん」


朝の調教を終えたクロテンの手綱を受け取った翔平は、いつもの様に首筋を撫でてやった。


ゆっくりと鞍上から降りた騎乗者は、おもむろにゴーグルを外し、ヘルメットを脱ぐ。



ヘルメットの下にあったのは、器用に束ねられた長い黒髪。


その髪をふわぁっ……となびかせたその騎乗者の顔は、まだ少し、あどけなさが残る可愛らしい女性の顔だ。



そう、クロテンに乗っていたのはなんと女性だった。



彼女の名は、麻生翼あそうつばさ――彼女は、2月に競馬学校を卒業したばかりの新人ジョッキーだ。


彼女がなぜ、クロテンに乗っていたかというと……彼女が、海野厩舎初の所属騎手だからである。



『こんな廃業寸前だった零細厩舎(※失礼)に、新人が所属!?』


――と、思われるかもしれないが、学校の実習に協力する義務があり、その経緯で翼の実習を引き受けたのが海野厩舎だった。


その縁――とも言えるが、新人が実習でお世話になった厩舎に所属するという業界の通例もあり、まだ決して楽な懐具合ではない海野厩舎ではあるが、初の所属騎手の誕生という事になった訳である。



「翼も……お疲れさん」


「はいっ!、ありがとうございます!、センパイ!」


翼はハキハキと返事を返し、装鞍所に置いておいたタオルを手にとって額の汗を拭った。


「う~!、二の腕がプルプルする~!、現役のオープン馬はやっぱり凄い手応えだなぁ」


馬乗りである以上、当然の様に翼は小柄であるが、4~500㎏の馬体を悠々と御するというのは、非力と言われる女性であっても、それは鍛錬の賜物である。


翼は自分の二の腕を軽くマッサージして――


「テンくん、頑張り過ぎだよぉ~」


――と言って、翔平が馬装を解いているクロテンのたてがみを撫でた。



その若い女性らしい可愛い言葉使いが印象的だろうが……その外見も、アイドル歌手や女優だと言われても、誰も驚かないほどの美少女でもある。



クロテンまでその姿に魅了されているのかは解からないが、たてがみを撫でられたクロテンは妙にご機嫌である。


「早く行けよ、センセイに報告しないと」


「あっ、はい!、じゃあ――失礼します!」


翼は翔平の指摘にハッ!、となって、クロテンとのふれあいを少し名残惜しそうに止め、調教スタンドへと駆け出した。


クロテンが残念そうに鼻を鳴らしていると――


「よし、外れたぞ~、身体洗ってやるからな」


――と、翔平がそう言って、手綱を引こうとするが、クロテンは不満気に地団駄を踏んだ。


「……なんだぁ?、『翼の方が良かった』ってか?」


当然、クロテンは話す事は出来ないが、態度は明らかにそう言っている。


「ほぅ……そうかよ」


翔平は眉間にシワを寄せてクロテンを睨んだ。


「ほら!、行くぞ!、!」


翔平は強引に手綱を引っ張り、クロテンを歩かせた。



最近――クロテンのあだ名は2つ増えた



翼が愛情を込めて呼ぶ『テンくん』と、翔平が新たにつけた『スケテン』


前者はもちろん、テンユウのテンから取った愛称だが、後者の意味は――


「背中に美少女を乗せて、デレデレしているクロテン」


――の、略である。







「――ヒントは、鞍上にあるかな?、そう、思ったんだよ!、クロテンの稽古嫌いは」


海野は関に対して自分の見解を述べ始めた。


「まずは……これを見てよ」


海野はマグボトルと並んで置いておいた、タブレット端末を操作して、クロテンの様子を記したページを示した。



そこには毎日の調教メニューやそのタイム、毎日測定させている馬体重と体温や、餌のあげた量と実際に食べた量の差、そしてスタッフの感想報告まで、クロテンがココにいる間の一挙手一投足を記録したデータが示されていた。



「うわっ!、これがウワサの"教授ノート"かぁ……膨大な量だな、コレ」


「あっ、いくら関君でも全部は見せないよ?」


表化された場面をチラッとだけ見せた海野は、隠す様に端末を小脇に抱えた。


「解かってるよ、俺、ニガテだもん、こういうモノは」



関の機械オンチは、業界内でも有名である。


営業に行ったとある厩舎のパソコンをいじって、初期化させてしまったのは有名な逸話だったりする。



「クロテンの稽古を色んな人に乗ってもらって気付いたのは、少し非力に映る若手騎手が乗ると、運動量が増してる事さ」


海野は得意気に端末を手に取り――


「注目すべきは、乗ってくれた人たちの感想――謙さんや関君が揃って言う、"扱い難さ"を挙げる若手はいなかったんだ。


"大きい事を言えない経験の無さ"があるにしても、運動量の加算という数値が出ている以上、僕らしくない、勘にはなっちゃうけれど、何かがある――と、思ったんだ」


「――で、所属する事になった、新人の翼ちゃんを乗せてみた……と?」


「そう!、それが大当たり!


AJCCから少し間隔が空くから、日経賞はプラス体重で出す事になる――って、覚悟してたんだけど、逆に絞れているぐらい!、気合いのノリも良いんだよ~!」


「……女性騎手特有の、"アタリの柔らかさ"ってヤツ――か?、確かにアイツは、調教で鞍上ヤネに、のを嫌がってるそぶりは感じたなぁ、レースにも乗ってからは特にソレが解かった。


だから、ノビノビ走らせてくれる――いや、御せないぐらいの弱さが、アイツには丁度良い……って、事かね?」


関は背もたれに体重を掛けて、残っていたコーヒーをあおった。


「彼女も実習の時から、ペース配分は非常に上手いんだよ。


僕が言ったら、師匠おやバカの部類かもしれないが、なかなかの逸材……かもね」


「へぇ~、ペース配分は重要な事だし、センスが出る部分でもあるしな。


でも、もうとっくに"逸材"だろうよ~?、でさ」



関が含みを入れて言った意味は、恐らく翼の外見の事だろう。



その美麗なルックスのせいか、翼の騎手免許の取得はすぐに競馬界のトップニュースとなり、無関係とも言える芸能ニュースでも取り上げられるほどの話題を呼んだ。


海野厩舎にも取材が殺到(※競馬関係以外からも)するほどで、翼の評判(※恐らく、これも競馬以外の事で)は凄まじく、フェブラリーステークスの翌週だった中山競馬場での初騎乗時には、土曜日の午前中という時間にもかかわらず、満員に迫る観客を集めた。


海野厩舎の郵便ポストは翼へのファンレターでギッシリになり、仕分けをしなければならない翔平も――…


「ココはいつから、芸能プロダクションになったんですかぁ……」


――と、参っていた。


先程の翼に対するそっけない態度も、それが原因である。



「ひょっとして、クロテンも翼ちゃんのファンになっちゃっただけなんじゃないの~?、いいトコロ見せようと。


だとしたら、気持ち解かるなぁ~、俺も翼ちゃんの可愛いお尻が背中に乗ってたら、素直に指示聞いちゃうよ~♪」


関は顔をニヤつかせて、身悶えしてみせた。


「……」


海野は、文には言い現せないほどの冷酷な表情で――


「――関君、警告1枚」


――と、冷ややかに言い放った。



「……へ?」


「僕が、翼さんに対するセクハラ発言を聞いたら警告1枚、累積3枚で厩舎出入り禁止、翼さんに直接聞かせたら即、出入り禁止だから」


「え~っ?!」


「当然だろ?、女性を職場に受け入れるって事は」


「――昴、テキは本気マジだぞ……」


「けっ、謙さん」


調教の乗り役を終えた佐山が、調教スタンドにやって来ていた。



「――オーバーレジェンド、終わりました、やっと絞れてきて良い具合ですよ、後は乗る翼次第ですね」


「ご苦労様です、翼さんも早く勝ちたいだろうし、人馬共に初勝利――出来ると良いですね」



オーバーレジェンドは今週土曜日の3歳未勝利に出走する馬で、騎乗する予定なのは翼である。



翼は話題性もあり、同期の他の新人よりも騎乗馬の数には少しだけ恵まれている。


だが、デビューして3週、ここまで通算12レースに騎乗しているが、勝ち鞍はまだ挙げていない。



「けっ!、謙さん!、ヨッシーがマジって……?」


関は言葉の意味を確かめようと、報告を終えた佐山を引きとめた。


「……先週、調整ルームで、淳平じゅんぺいが――


『逃げ馬に翼ちゃんが乗ってたら、お尻に目が行って、抜かせなかったよ~』


――って、翼をからかったらしいんだ」


「翼ちゃんが2着で、浜野はまのが追い込んで3着だったヤツ?、俺は中京で観てたけど……」


「翼は――…


『もう~、何を言ってるんですかぁ』


――って、軽く受け流してたみたいだけど、あの淳平バカがコーヒー飲みに来た時に、笑い話としてテキに教えちゃって……淳平は、即よ……」


「え~!?、アイツに結構依頼してたのに……」



浜野淳平は、デビュー6年目に入った、売出し中の若手ジョッキーである。


たとえ海野厩舎の様な下位ランク厩舎の依頼でも、飛躍を目指す時期という立場にとって、無くなるのは痛いはずだ。



関は少し、呆れた顔で――


「――ヨッシー、ちょっと過保護過ぎるんじゃないの~?


男社会の競馬界に入るからには、翼ちゃんも覚悟してるだろうし、学校でも周りは男だけだったんだから、もう免疫が――」


――と、海野を諭そうとした。


「そういう問題じゃないよ!、僕がキライなんだ、そういうのを面白がる人が!」


「でも、ほら――」


関は海野をなだめようと言葉を並べようとするが――


「――そっか、関君には、ウチの出禁じゃ効果が薄いもんね。


じゃあ、関君は累積3枚で、彩子あやこさんへこの事をリーク、って事にしよう」


――と、返されて関の顔色が一気に青ざめた。


「ななな!、なんで彩子が出てくるのよ?!」



彩子というのは、関の妻の名前だ。



なぜ、妻の名前に動揺しているかというと、関は意外にも恐妻家で、世間的には知られていないが、この事も業界内では有名だったりする。


彩子はかつて、競馬中継のMCを勤めていた人気女子アナウンサーで、現在もフリーアナウンサーとして活動している。


そのイメージを汚さないために、関は公には恐妻家ぶりを隠しているのである。



「――昴、諦めろ。


俺だって今、累積2枚で給料カット寸前なんだ……ウチで、累積無いのは翔平一人だけだよ」


「スタッフにまで?!、ああなったヨッシーは、キッツイなぁ……」


佐山と関は肩を寄せ合ってうな垂れていると――


「……何か、あったんですか?」


――スタンドへ報告に来た翼が、中年男二人の慰め合いを不思議そうに眺めていた。


「うわっ?!、翼!」


中年男二人は驚いて、後ろに跳び退く。


「関さんまで……どうしたんです?」


「あっ……いっ、いやぁ、そのぉ……」


そんな事を聞かされた以上、翼に対してヘタな事は言えない――関は必死に頭を巡らせた。


「クッ!、クロテンが調子良いみたいだからさ!、ドバイ行ってて、日経賞は乗れないからもったいないなぁ……って、今週の阪神大賞典にしてくれたら乗れるのに、ヨッシーもイジワルだなぁ……ははっ!、ははっ……」


関は海野の方に目線を泳がせ、乾いた笑い声を溢した。


「うわぁ……!、観ててくれたんですかぁ!、全然乗りこなせてなくて、お恥ずかしいです」


「だっ、大丈夫だよ!、大丈夫!、免許取りたてにしちゃあ、よく乗ってるよ」


頭を巡らせていたとはいえ、これは関の素直な評価だ。



軽口ばかりを叩いてはいるが、肝心な所はしっかりと見ている――それが天才、たる由縁だろう。



ここで一つ、補足しておくと、関のドバイ遠征は、もちろんドバイWCでアカツキに騎乗するためである。



フェブラリーステークスでの勝利ジョッキーインタビューで「乗せてもらえるかどうか……」とは言っていたが、それは


遠征構想が出た時点で、関の遠征はほぼ、決まっていたのだ。


「――翼さん」


「あっ!、先生。


クロダテンユウ、終わりました」


「ご苦労様」


「えっとぉ……凄い手綱の手応えでした!、乗っているのがやっとなぐらいでしたね」


「そうか、良い流れで仕上がってるみたいだね。


――ところで翼さん、土曜2R《レース》の未勝利戦で、レジェンドの騎乗をお願いするよ」


「――!?、本当ですか!、ありがとうございます」


翼は深々と頭を下げて、海野に礼を言った。


「おっ!、翼ちゃんもかぁ~俺も、土曜日は中山だよ。


2Rも騎乗馬決まってる」


「はいっ!、よろしくお願いします!」


「……お~、勝つ気マンマンだなぁ、でも、勝つのは俺だよ?」


「いいえっ!、私です!」


「よ~しっ!、騎手たる者、レースの度にそうでなくちゃな!、良いよぉ~その意気!」


関は左手のグローブを外して――


「お互い、悔いの無い騎乗をしような」


――と、握手を求めた。


「はいっ!」


翼は満面の笑みで握手に応じた。


「じゃ、そろそろ行くよ、ヨッシー、コーヒーご馳走様」


関はカウンターの紙コップを手に取ろうと海野の横を通り――


「……握手は、セーフだよね?」


――と、小声で囁いた。


「君の場合は、ギリギリが付くけどね」


「ひでぇなぁ、俺はロリコンじゃないっての」


そうして、二人は笑みを見せ合い、関はクシャッと紙コップを握り潰した。

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