思わぬ再会
転院
まだ薄暗い3月の朝、カーテンの間からゆらりと弱い日差しが窓を覗いている。
時刻は朝と呼ぶには少し、語弊を感じる薄暗さの午前5時43分、病室のベッドの上にいる優斗は、ゆっくりと目を開けた。
「……ふぅ」
厚い壁に覆われた病室だが、小さく吐いた息は少し白く、ある程度は外の寒さも実感出来る肌寒さだった。
優斗は左半身に体重の重心を傾け、これまたゆっくりと身体を起こした。
優斗は首を動かし、徐に右手に目をやって、右腕を動かそうとする。
――だが、当然の様に優斗の右腕は何も反応を見せなかった。
「ふっ……」
優斗はからかう様に少し笑って――
「動くわけないよな――アニメじゃあるまいし」
――と、皮肉めいた表情でつぶやいた。
脳出血を発症した優斗が、晴部市立病院に救急搬送されてから約1ヶ月――優斗は、今も入院を余儀無くされている。
優斗は意識を取り戻したあの日から、10日ほどは高度集中治療室で絶対安静の日々を送ったが、その後は今の一般病棟に移り、点滴による投薬治療とリハビリテーションを続けていた。
そのリハビリの賜物もあり、こうして身体を起こしたりも出来る様になったのである。
ここ1ヶ月の成果は、リクライニングを使わずに身体を起こせるようになった事や、自力で車椅子に乗れるようになった事――そして、それを用いてトイレに行けるようになった事だ。
優斗は下半身を引きずって、ベッドの側に置いてある車椅子に乗り込み、左側の車輪をぎこちなく回して、トイレへと向かった。
大きくて重い、車椅子用トイレの扉を左手でなんとか開け、広い部屋に入った優斗は、これまたなんとか左足1本で身体を立たせて、ようやくトイレの便器に座った。
これを読んだ方はいわゆる"ケンケン"を想像するだろうが、この恰好はそんなモノではない。
人間というイキモノはどこかに狂いが出れば、それは全身に影響する。
今の優斗は、人間の身体がいかに精密機械であるかを実感させられる姿だ。
脳神経を破損している上に、1ヶ月以上マトモに歩いていない優斗の足は筋力が削げ落ちている――そんな人間に"ケンケン"は無理だ。
あやふやなバランス感覚で立っている姿は、宛らピサの斜塔の様である。
ズボンを下ろすために、もう一度左足だけで立ち上がり、どうにかズボンを脱いで再度便器に座り直す。
尿意をもよおして目を覚ました優斗だったのだが、優斗の#アソコ__・__#からは、なかなか尿が出てこない……
(……また、空振り――か?)
――脳出血や脳梗塞による代表的な障害といえば、動かせない半身や、ろれつが回らない話す言葉を想像する人が多いだろう。
もちろん優斗もそれらに苦労しているが、それらだけではない。
優斗が、それら以上に苦労しているのは『排泄障害』だった。
"ヒトという精密機械"の中枢である脳が壊れたという事は、言わば"回路"がズタズタに切れたという事と同議――尿意や便意も、制御が困難になってしまう。
神経がズタズタになれば、何も動かせないので同時に筋力も低下してしまう。
人間を動かすのは全て神経と筋力、その2つが異常になれば何もかもが困難になるのだ。
――だから、便も尿も出したくても出せないという状態に陥ってしまう……これは、想像以上に辛い事なのだ。
優斗の場合は尿道の筋肉を刺激する薬を服用して、なんとか自力で排泄出来るレベルに治まったが、それでも出せなければ、腹部に穴を空けて管を膀胱に直接挿入し、ポンプを使って排泄する方法をとる場合もあるという。
たとえ出てこなくても、尿意はもう迫って来ている……このまま出さなければ、毒素が身体中に回ってしまう!
優斗は、力ずくで排尿する事にした。
「くっ…!」
優斗が腹部に力を込め、いきむと――…
(……!、来たか?!)
――僅かながら、尿道に反応があり、それを逃さない様に意識を集中して、さらに力を込めると――ようやく、尿が出てきてくれた。
「……ふぅ~」
優斗はやっとの思いで用を足せた。
トイレから病室に戻ろうと、車輪を回していると――
「おはようございます――」
――という院内放送が掛かった。
これは起床時間を告げる放送、つまり時刻が6時を回った事を指している。
(……小便
優斗は呆れる様な表情で部屋に戻った。
「あっ、臼井さん、おはようございます」
部屋に入ると、ワゴンを引いた夜勤の女性看護士がもう待ち構えていた。
「おはようございます」
ベッドの横に車椅子を停め、今回は看護士の介助もあり、比較的楽に立ち上がって、優斗はベッドに座った。
「体温計、失礼します――」
看護士が優斗の脇に体温計を挟み、計測が完了するのを待っていると――
「――いよいよ、今日ですね」
――と、看護士が尋ねてきた。
「ええ、今日でここのベッドとはお別れですね」
――と、優斗は無機質な表情でそう答えた。
このやりとりでお解りになるだろうが、優斗は今日、この病院から退院する。
『
――と、思う人は少なくないだろう……だが、これは現代医療の常識らしい。
しかし、これで優斗の入院生活が終わるわけではない……この病院と強調したように、退院するのはあくまでもココ、晴部市立病院からである。
つまり、退院したらそのまま別の病院に入院する――要は退院ではなく、転院だ。
――日本語というのは、実にややこしいモノだ。
完治して通常の生活が出来る事を連想させる退院という言葉を、あんな状態の者の事までもそう表すというのは、ある意味――言葉遊びである。
優斗は退院した後、リハビリを治療の主にしている、隣町の
晴部市立病院と泉別病院は地域医療の提携を交わしていて、優斗の様な病状の人は大概そこに転院しているという。
先ほど、"現代医療の常識"と書いたが、この連携がそうだ。
解かり易く言えば、命を救うのが、晴部市立の様な病院の役割で……身体を治すのが、泉別の様な病院の役割。
ますます、?マークが付く言葉遊びであるが、医療面から見れば『救う』と『治す』は違う意味を持つらしい……
何かを例に挙げるなら、プロ野球の投手リレーだろうか?
命を救う病院が先発投手で、身体を治すのが抑え投手――何にせよ、ソレが現代医療の通例なのだ。
ここまでを読んで――
『リハビリは今も出来るんだし、わざわざ転院する必要があるの?』
――と、思うのが普通だと思う。
転院に際しての説明に因れば、泉別は設備が豊富な本格的なリハビリ施設。
つまり、ここにある施設は最低限の設備だけの簡素なモノで、更なる身体的な向上を望むには転院は不可欠――それが、転院を勧める理由らしい。
先ほど例に挙げた投手リレー――先発と抑えの間に思い付くのは……中継ぎだろう。
ここのリハビリ施設の役割は、泉別での本格的なモノへの橋渡しに過ぎないのだ。
朝の検温を終え、朝食を済ませた後、優斗は車椅子を動かして病室のロッカーへと向かった。
ロッカーを開けると、そこには智恵子に持ってきてもらったジャージがあった。
それを取り出してベッドの上に置くと、優斗はぎこちない動作ではあるが、動かない右半身を左半身で巧みにサポートし、病衣を脱いでジャージへと着替えを始めた。
ジャージのズボンを左手を使って足首まで穿き、仰向けにベッドに寝転がる。
そして、少しずつゆっくりと腰までズボンを引っ張り、下半身の着替えは完了。
次に、上着の右腕部分を肘にまで入れ、そのまま左上半身から上着を羽織り、器用に左腕を使って上着も着終えた。
(慣れ――かね?)
優斗はちょっと我が身を関心しながら、出発時間を待つ。
――
――――
「――優斗」
泉別への移送の付き添いのために、智恵子と佐和子がやって来た。
「おばさん……悪いね」
「なに、あんたの身内は私たちしかいないのだから、気にするんじゃないよ」
「なんでもかんでも"ご家族"だもんね、病院ってのは……俺みたいな素性の人間は、世の中にいないと思ってるのかね?」
――天涯孤独で、妻子もいない優斗には――明確に『ご家族』と呼べる人はいない。
だが、ナニかといえば、ご家族の署名捺印を求められるのが、日本の通例である。
日本の社会は全て、"普通"ある事を基準に造られている。
30代の若さで両親は存命しておらず、結婚もしていない優斗は、普通のカテゴリーには収まらない――それでは、何事も円滑には進まないのだ。
それを文化と言ってしまえば、それまでだが……そんな真の意味での多様性を、事実上認めない国民気質は、こういうイヤな思いもさせる。
――最近の優斗は、何に対しても皮肉の様な発言が多い。
医者に言わせれば、これも脳障害の傾向の一つらしいのだが、それぐらいは健常者の中にでも一杯いるだろう――と、皮肉で返してしまう辺りもまた、脳障害がそうさせるのかもしれない。
「その、"ご家族"が名字違うと、これがまたややこしいんだよ――『どういうご関係で?』ってね」
智恵子はそう言って、ボストンバックに荷物を積め始めた。
優斗の緊急搬送という最大のハイライトのドサクサで、解説が遅れた形になってしまったが、優斗と智恵子たちは名字が違う。
優斗は智恵子に引き取られはしたが、養子縁組は交わさなかった。
智恵子は独身を貫いて定年まで勤め上げた、古い言い方で言う『職業婦人』である。
3年前に夫と死別し、遠方で暮らす娘から同居を勧められたが――
「今さら、晴部から離れたくない」
――と拒否して、今は智恵子と姉妹で同居している。
30代の優斗との間柄からすれば『おば』というには、少し不自然に感じるほど二人とも結構な高齢だが、それは響子が晩婚だったからである。
響子が優斗の父、臼井
「まあ、何にせよ、手続きは出来た――そろそろ行こうか」
「うん」
優斗は車椅子に乗り込み、佐和子に押してもらって病室から出る。
優斗と脳障害の『出来レース』の闘いは、次の舞台へと以降する――
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