コワレタココロ

ここは泉別病院の近くにあるコンビニ――そこの駐車場に、派手なピンクの軽自動車が停まっている。



そんな派手な色使いも印象的だが、後部座席には大量のぬいぐるみが鎮座していて、少し奇異に写る概観である…


その車の運転席で、スポーツ新聞を広げて記事に見入っているのは、小野奈津美であった。



ファンシーで可愛らしい外見の車内に、スポーツ新聞を読みふける女性――何とも、混沌カオスな光景である。



「はぁ~!、載ってない!、載ってないよぉ~!」


奈津美は激昂して、スポーツ新聞をクシャクシャに丸めて、後部座席に放り投げ入れた。


「――次!」


奈津美は助手席に置いたビニール袋から、新たに別のスポーツ新聞を取り出した。


そして、競馬面が展開されている辺りを広げ、隅から隅まで記事をチェックし始めた。


袋の中身をよく見ると、北海道のコンビニで扱われている全誌が取り揃っていた。



「あ~!!!、コレにも載ってない!、クロダテンユウはどうなったのよ~!?!?!」


奈津美はまた激昂して、新聞を破る勢いで後部座席に投げ捨てた。


「競争中止したのは、知ってるんだよ~!、"その後"がどうだったのかを知りたいのにぃ~~っ!、どこにも載ってないっ!!」


奈津美は頭を抱えて、車のハンドルを叩いた。


「ライジングサンが勝って、レーザービームが絡んで、まあまあ荒れたっていう記事ばっかり!、後は――」


奈津美が日経賞の記事の面をめくると――


『日本時間未明の決戦!、アカツキ!、世界を制すか?!』


――と名打たれた、ドバイWCの出馬表が載っていた。



「アカツキなら勝ったよ~!!!、クロダテンユウの事が気になって、眠れなくてCSの生中継観ちゃったし!」


八つ当たり気味に奈津美は、アカツキの写真を真っ二つに破いた。



「ネットニュースでも、全然触れないから――『スポーツ新聞なら!』と思って、早く出勤でて来たのにぃ~~っ!」


奈津美はスマホを取り出し、改めて何か情報が無いかを調べ始め『クロダテンユウ 競争中止』で、検索した。


TOPに出てきたのは、ほとんどスポーツ新聞記事の転載だが、そこに――


「あっ!、ちょっと見出しが違う!」


――と、奈津美は藁にもすがる思いで、タップしたが――


『クロデテンユウ故障!、泣きそうな顔で競争馬診療所へ急ぐ翼ちゃん――俺が慰めたい!』


――という、ファンのブログ記事だった…


「――勝手に思ってなさいよっ!」


奈津美はそうツッコミを入れて、今度はスマホを助手席に放り投げた。


「はぁ~……どうしよう。


ユウくんに、あんなの見せちゃうなんて……」


奈津美はうな垂れて、抱きつく様にハンドルを持つ。


「せっかく――順調に事が進んでいたのに、間が悪かったなぁ……」



リハビリに、患者本人の意欲は不可欠だ。



優斗の言語面での進捗が順調だった事も理由だが、長くなる事が必須の入院生活でのストレスを懸念したからこそ、奈津美は古い間柄の自分との雑談の中に効果を見出していた。


だから、奈津美は――


『クロダテンユウは無事だってさ!』


――という吉報を伝えられないか?、――そう思い、寝る間も惜しんで、クロテンの状況を伝える記事を探していたのだ。


「ユウくん、かなり落ち込んでた――ちゃんと、リハビリ受けてくれるかなぁ?」





不安を抱えたまま出勤すると、奈津美のその杞憂は考え過ぎのようだった。



当直の看護士などからの申し送りでも、特に変わった様子も聞かれず、奈津美はホッ……と胸を撫で下ろした。


そして、朝のカンファレンスを終え、今日のスケジュールを伝えるために優斗の病室を訪れると、優斗の表情は普段通りで、奈津美はさらに安心した。



だが――


「ユウくん~!、おはよ~」


「……ナツか、おはよう」


(――あれっ?)


奈津美も普段通りに接したのだが、返ってきた優斗の反応には、違和感を感じるモノがあった。



「丁度良かったよ――お前なら、話し易いし、理解も早いだろうから――」


優斗は、妙に優しい表情で、奈津美の目を見る


「……なに?、どうかした?」


「――ナツ、週明けにはなるだろうけど、来週中に退院する方向で話し合ってくれないか?」


「――えっ!?」


奈津美は突然の優斗の提案に、驚きを隠せなかった。


「ちょっ……!?、何を言ってるの?!」


「――潮時、だろ?、これ以上の回復は望めないんだろうし」


「な……っ!、まだコッチ来て、1ヶ月ちょっとだよ?!、そんなの早計――」


「俺は若い分、回復が早いのかもしれないけど……父さんは、この位の状態で帰って来てた。


それに、あんたたちだって、最初の内は目新しい事をやらせてたけど、最近は毎日、同じ事を繰り返してる――つまり、もうなんだろ?」


「それは違うよっ!、ユウくん!!


リハビリっていうのは、ムダに思えても繰り返す事で効果が出るモノだし――確かに、回復スピードは千差万別な病気だけど、ユウくんは早い分、まだ伸びしろがあるって、私たちは思ってるよ?」


懸命に説得しようとする奈津美に、優斗は呆れた様に冷めた笑みを見せ――


「――良いんだよ、今の状態で。


トイレも、食事も――人に頼らなくても出来るようになったしな。


まあ、まだ風呂には一人で入れないけど、それは帰ってから工夫すれば何とかなる――いざとなったら、テレビとかでもそういう介助してもらえるって、観た事もあるしな。


何でもかんでも、出来る様になるまで、居なきゃならないって事でもないだろう?」


「それは――本当に、回復の見込みが無いケースだよ……ユウくんは、まだくなる余地があるから」


「じゃあ――続けたら、って、言えるのか?」


「そっ、それは……」



奈津美は、優斗の鋭い指摘に、顔を引きつらせて言葉に詰まった。



優斗の治療計画目標に記されているのは、T型杖での単独歩行と日常生活の向上と自立――そして、スムーズな会話の実現――"まで"、だ。



「――あんたらの言うとおりにココに居たら、仕事にも復帰出来て、生活に支障無いレベルにまで回復出来るって!、言えるのかよぉっ!!!」


優斗は声を荒げ、涙を流しながら奈津美を睨みつけた。



「……」


奈津美は、言い返す言葉が見つからず、俯いてしまったが――


「……確かに、それは言えない――でもっ!、途中で投げ出しちゃあダメだよっ!!」


――今度は奈津美が声を荒げた。



「頭打ちなんかじゃない――私たちも、驚くぐらい順調だから、ああいう方針を取っているんだよ」


「俺が、患者本人が、"もういい"って、言ってんだっ!、ソレで良いだろうよっ?!


――もう、イヤなんだよっ!、俺に関わったせいて、誰かが不幸になっちゃいそうでっ!」



(――っ!、やっぱり……!)



優斗が、そんな提案を口に出した理由は――昨日の様子を見て、奈津美が感じた不安の通りだった。



――そんな気持ちを抱いてしまう人は決して少なくない。


「もう――良いんだよ。


どうせ後は、黙って再発を待って死ぬだけなんだからさ……」


「……っ!」


奈津美が、優斗の言葉に応えようとしたその時――


「――おはようございまぁす」


――同室の患者に、スケジュールを告げに来た中井愛実が入ってきた。



奈津美はそれを見て、何かを思いつき――


「――メグちゃん!」


「――はっ!、はい、小野さん!」


――昨日、優斗に聞いた一件で、こっ酷く怒られたのか、中井は脅え気味に返事をした。


「スケジュールを入れ替えてっ!、ユウくんの言語、午後だったのをこの後、朝イチに!」


「はっ、はい!、了解です!」


「このまま療法室に向うから、スケジュール調整はメグちゃんに任せるよ!、さあ、行こう、ユウくん!」


「おっ、おい!?、ナツ!」


奈津美は優斗のベッドのそばに一応、置きっ放しにしてある車椅子を押してきて、優斗の耳に口を近付け――


「ここで、言い合ってたら、他の人の迷惑になるからっ!」


――と、言った。


「……解かった」


優斗は頷いて、奈津美の申し入れを受け入れた。





言語療法室内の1番と記された部屋に入った二人は、いつもの様に机を挟んで対峙した。



しかし、いつもなら会話を交わすモノだが、今は二人とも無言のまま、言い出す言葉を模索していた。


ココへ向う間に、優斗も少し冷静になったのか、声を荒げた時のような高ぶりは見えない。


一方の奈津美も、ジッと優斗の顔を見詰め、冷静を保っている。



「……ねえ、ユウくん――」


口火を切ったのは奈津美だった。


「急に、あんな事を言い出したのは――なぜ?」


「……前から、思ってた事だ。


家に帰れるぐらいが関の山だろう――って、思ってたからな……単純に、言い出せなかっただけだよ」


「私が――昨日、あんな光景を見せちゃったからじゃないの?


『俺が応援してたせいだ……』って、落ち込んでたし――さっきも『自分に関わったら不幸になる』とも言ってたし」


「……ナツのせいじゃないだろう?、観ても観なくても、ああなったんだろうしな……とにかく、俺のせいなんだよ、俺の――っ!」


優斗は昨日観た、クロテンが失速する映像を思い出し、下を向いて唇を噛んだ。


「どうして、ユウくんのせいなの?、私、解からないよ……」


「俺も解からないよ!、なんでっ!、こんな事になっちまったのか!


確かに、身体は酷使していたし、健康に無頓着だったのも確かだ――でも、父さんの遺伝なのも警戒はしてて、俺は一口も酒を呑まない下戸を貫いてたし、タバコもやらなかった!、それでも!、それでも――」


優斗は、混乱気味に嗚咽を漏らし、左手で机を叩いた。


「なんで――なんで俺が……!、そう思ってたら、もう、思い着いたのは、オカルトみたいな発想だよっ!


俺には死神が憑いてるんだ!、その死神がいよいよ、あの世に連れて行こうと思ったのに、医者がして助けちまったから――『じゃあ、身体の半分は先払いでね』――ってのが、今の状態なんだろうさ」


「……」


奈津美は――あえて何も語らず、優斗が吐露している気持ちを黙って聴いていた。


「――その利息なんだよ!、昨日のテンユウだってきっと……くだらない、妄想だけどさ」


優斗はふっ……と、呆れたような笑いを漏らした。



(順調に進行してると思ってて――甘かった)


奈津美は心の中でそう悔やんだ。


(入院の長期化によるストレスを、ちゃんと懸念していたつもりでいたけど――トントン拍子で、回復していたから)



病院内での生活という"非日常"――それは、どれだけ長期になろうとも、決して"日常"にはなり得ない……それは、経験した者しか解からないだろう――


これは――世間の風潮や潮流への批判になるかもしれないが、どんなに快適な施設で、どれだけ手厚く扱われても、自分の家には敵わないモノだ。


その方が、楽で幸せだろうと思って、施設へと入れるのは――本人にとって、実は苦痛の一種でしかない。



そして、優斗の場合は、発症した病気の特性――脳血管系の病気は、大概が突然の発症である。


ある意味――拾った宝くじに当った様なモノ、心の準備など、しようが無い。



比べる事は適当ではないが、ガンならば治療法を選択するにも、自分の意思を反映出来るし、手術ともなれば、ある程度、"覚悟"を決めるインターバルがあるだろう。


何より、重度の障害が残るケースが少ない――という事は、少なくとも、生活に大きな不具合を背負うような事も少ないという事だ。


つまり、生命を失う危険性は上かもしれないが、闘病の末に"勝利の可能性"が残る。



対して、脳血管系の病気に、障害はある意味"セット"。


生活が一変するのは必至であり、それは全快する可能性はほぼ皆無――解かり易く、馬の怪我に例えれば『予後不良』である……安楽死にこそはならないが。


それらは周りが思う程、簡単に受け入れられるモノではない――ましてや、何の前触れも無く唐突に、何もかもが一変してしまうのだから。



「――どうせなら、救急搬送されなければ良かったんだよ。



そしたら、それで、何もかも終わったのに……」



「――そんな!、そんな事……っ!」



仕事として関わる事により、たとえ最低限にでも、その苦痛を理解出来る奈津美にとって、優斗のは、まさに痛恨――



「違う――そんなの違うよ、ユウくん……」


言いたい言葉は……沢山あるのに、どれを紡げば良いのか悩んだ奈津美は、同じ様な言葉を繰り返した。



そして、奈津美は、優斗の顔をジッと見て――


「――ユウくん、厳しい言い方かもしれないけど――聞いてくれる?」


「……なんだよ?」


「ユウくんは――グングン回復する分、幸運なんだよ?


一般的に回復のリミットとされる発症から半年を越えてても、今のユウくんより動けない人は――沢山いる。


これまでのひと月でも、沢山そういう人の姿を見たでしょ?」



それは――奈津美の言う通りだった。



そのリミットを越えても、ここに残りリハビリを続けている人――車椅子のまま、あるいは寝たきりのまま、追い立てられる様に、他の施設に移っていく人――まだ、ココに来て1ヶ月ちょっとでも、優斗はそんな光景を散々見てきた。



「そういう人を見たからこそ、思うんだよ――"この程度"で、長く残って居られないって」


「また、そんな――」



辛さや不安――そんな、心に貯まったモノを吐き出しても、優斗の#負__・__#の感情は治まらない。



(ダメだ――なんとかしなくちゃ!)



奈津美は考えを巡らすが、彼女は決して、カウンセリングの専門家ではない――本来なら、匙を投げてしまう展開だが、何故か彼女は懸命に対処しようとしている。



(……!)


何かを思いついた奈津美は、意を決した表情で口を開いた。



「ユウくん――私の話をするね」


「えっ?」


「――聞いて。


再会した時――って、言ったでしょ?、実はね――」


「……」


優斗は不思議に思いながらも、今までに無い奈津美の雰囲気に気圧され、黙ってしまった。


「――私も、父さんを亡くしてたんだ。


専門学校の卒業間近の時に……」


「えっ?!」


優斗は驚いて、ガタッと椅子を揺らした。



「父さんはその3年前――つまり、私が高2の時に"脳梗塞"を発症したのよ」



脳梗塞は、医学的な細かい違いはあれど、優斗が発症した脳出血と、結果的には似たような障害が残る病気だ。



「?!」


衝撃的な告白の連続に、優斗が面を喰らっているのを他所に、奈津美の告白は続く――


ここからはしばらく、奈津美自身に語ってもらおう――





――あの年の冬休み、クリスマスが終わって、世間はお正月に備えて、忙しさがピークになった頃――あの日は、ありがちな"歳の瀬寒波"だなんて呼ばれた、とっても寒い深夜だった。



父さんの隣で寝ていた、母さんが異変に気付いて――急いで救急車を呼んだんだけど……ユウくんは、隣に住んでたから知っているよね?、ウチのアパートが車道からは結構離れた所だって事を。


それだけでも、搬出するのに時間がかかるのに、あの日は――さらに運悪く道は大雪。


父さんは、通常より大幅に遅れて病院に搬送された。


それでも通報が早かった事が幸いで、なんとか一命は取り留める事が出来た。



でも――ユウくんも言われたと思うけど、脳の病気の救命治療はスピードが大事。


父さんは到着が遅れた事で、重い障害が残るだろうと言われた――その通りで、リハビリの進捗はかなり遅くて、晴部の施設では始められないまま、救命施設に居られる期間の限度に迫られて、寝たきりのまま、ココ――泉別病院に移ったの。



本格的なここの施設でリハビリしても、父さんの回復は難しかった。



例のリミット――"半年"を越えた時点での状態は、自力で車椅子にも乗れないレベル。


当然のように、退院出来る状態じゃなかった――だから、父さんは、亡くなるまでココに居て、リハビリを続けたの。



父さんが1番苦労したのは、言語だった――私たちがお見舞いに来ても、ほとんど会話にならない状態で。



幸い、利き腕が使えたから、筆談は出来たの……でも、私たちと筆談する度、思うように意思を伝えれない事を悔やんでいたわ。



そんな父さんの姿を見て、私は言語療法士を志す事を決めた。



父さんの入院費もあるから、母さんには苦労をかけてしまうとは思ったけど――母さんは、快く賛成してくれて、私は札幌の専門学校に進学した。


金銭面で苦労をかけたくなかったから、学校の近くのシェアハウスを選んで、家賃を節約して、学校の後はバイトもして、仕送りも貰わなかった。


大変――といえば大変だったけど、志した熱意の方が強かったのかな?、苦労には感じなかったよ。


それで、就活が始まる時期が近付いて、私は父さんがいるここを志望するつもりだった。



その矢先だった――父さんが、再発して、危篤だという連絡が入ったのは。



2度目の今回は、ユウくんと同じ脳出血も併発していて……今が"峠"だと言う――私は、札幌駅から列車に飛び乗った。



でも――乗った列車は、トラブルに巻き込まれて遅れてしまって、私は……間に合わなかった。


父さんと会えたのは、ここの霊安室だった――あの時の光景は、目に焼きついて離れないよ……



そして、父さんが倒れる前――ナースコールを押す前に、筆談用のメモに殴り書いていた言葉は――


『これでもう、楽になれる』


――だった。



私は――悲しくて、悲しくて……そして、情けなくなった。



父さんが、そんな気持ちだった事に気が付かなかったなんて――そんな悲しみの中で、私はふと、ユウくんの事を思い出した。



ユウくんは――子供の頃に、こんな悲しさを体験していたんだなって、私だったら……きっと、耐えられなかっただろうとも思ったよ。


父さんの葬儀を終えた後――私は予定通り、ここでの就職を望んだ。


躊躇いが無かったと言えば、ウソにはなるけど……一度、目指した以上は、自分の志を曲げたくなかったから。




「だから――そんな父さんの姿を家族として、見てきたから……!」


奈津美は、涙を流してしまう事を堪えていたが、ついにその涙腺は決壊した。


「だから――だから、ね?」


奈津美は嗚咽を漏らし、流れた涙をハンカチで拭きながら話を続ける。


「イヤな事や――ツラい事は、少しは解かるつもりだからさぁ……辛い思いは、毎日ここで、私に全部吐き出しちゃいなよ!


そして、もう少しだけ頑張ろうよ!、帰れるぐらい、治くなる余地があるんだから……!」


「……」


「私は――"頑張れば、何でも出来る様になる"なんて、そんなは言えない――近くで、多くのその現実を知っているから。


でも!、父さんみたく、死んだ方が楽だなんて――そんな事を、そんな事を言わないでよっ!、ユウくん!」



奈津美は、グシャグシャに泣いたまま、優斗の手を握った。



「うっ、うっっ……」


「ナツ……」


優斗は、泣きじゃくる奈津美の手を握り返して――


「わかった……もうちょっと、頑張るってみるよ」


「ユウくん……っ!」


「ゴメン、ゴメンな――ナツだって、他の人たちだって、俺のために懸命に動いてくれてるのに」


「……ホント?」


「ああ、約束する――やれるだけやってみるよ」


考え直した優斗の決意を聞いた奈津美は、またもボロボロと涙を流し――


「うっ、うっっ……やった、流石、涙は女の武器だよね……えへっ、えへへへ……」


――そんな風におどけて見せて、泣きじゃくる自分の姿を誤魔化そうとするが、本気の涙を見てしまった優斗には、もう通用しない。


「もう良い……もう良いよ、ナツ……」


「えへへ……お化粧、直さなきゃなぁ」


奈津美はハンカチで涙を拭い、自分の顔が写っている窓を観た。


「こっ、こんなヒドい顔を観られたら、もうお嫁に行けないなぁ!


責任取って、ユウくんに貰ってもらおうかなぁ?、あはっ!、あはははっ!」



――このやり取りの後、優斗は普段通り、いつものリハビリをこなした、何事もなかったかの様に。



奈津美も普段通りの仕事をこなし(※化粧もキッチリ直して)、何事も無かった様にパソコン画面に向って、一日の報告を纏めている。



(ニガテなんだよなぁ、パソコンって……)


言葉にあるように、奈津美はパソコンによる事務処理が苦手だ。


最低限には扱えるが、いつもこの時間は憂鬱である。



奈津美は――この日の優斗の進捗報告にはこう書いている。



『入院の長期化に因るストレスは、想定以上のレベルに達している、ケアに努めているが、限界は近い。


本人は、更なる向上よりも、症状の安定化と早期の帰宅を希望している。


これからは日常生活の向上より、最低限の自立を達成する事に重きを置き、帰宅へ向けた段階にシフトする事を提言したい』



――これが、今日の優斗の心が疲弊した姿を見た奈津美の答えだった。

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