置き土産
「たっだいま~っ!」
陽気な空気を海野厩舎の事務所に運んできたのは、遠い海の向こう――ドバイから帰って来た関である。
「日本人騎手として初めて!、ドバイWCを制した天才ジョッキーっ!、関っ!!、昴ぅ~~!!、今!、帰って参りました~っ!」
トレセン内には似合わない、高級スーツに身を包んだ関は、事務所の敷居を跨ぐ間も無く、ポーズまで付けて、自分が成した偉業を自画自賛した。
だが――
「――ああ、関君か、ご苦労様」
――事務所の椅子に腰掛けていた海野は、関の自慢など聞いていなかった様に生返事を返した。
(――ありゃ?、スベッた?)
ユーモアの引き出しを精一杯広げて、ウケを狙ったつもりだった関は、ミョ~に恥ずかしくなってしまった。
「WCの映像、観たよ……やっぱり、アカツキの強さは別次元だね」
海野たちがクロテンの一件で右往左往したあの日の深夜、関はアラブ首長国連邦のドバイ、ナドアルシバ競馬場にいた。
目的はもちろん、ドバイWCに出走するアカツキに騎乗するためである。
アカツキは、初めての海外遠征にも動じず、日本で走る時と同じような強さを見せつけ、世界の強豪たちも寄せ付けずに4馬真差の完勝。
アカツキは――世界最強の称号を手に入れた。
同時に、関は先程、自分で言っていた様に――日本人騎手としては、初めてのWCジョッキーとなったのだった。
「あの勝ちっぷりだったら、世界ランキング1位も確実だろうね。
日本のホースマンの端くれとして、我が事の様に嬉しいし、誇りに思うよ」
海野は率直な感想を述べたはずだったが――
「……ムリすんな、ヨッシー」
――関はそう言って、海野の肩を掴んだ。
「クロテンの事――知ってっからさ」
「関くん……」
関はポンポンと、その掴んだ肩を叩き、口惜しそうな笑顔を見せた。
「厩舎に来てみりゃあ、みんなドヨ~ンとした雰囲気だもんなぁ……"空気"を入れ替えようと思ったんだが」
関は情けない素振りで、ふう――と、溜め息を吐く。
「若い二人はしゃあないけど、ベテランさんたちや、ヨッシーまで……どうしたのよ?」
「いやぁ、それこそ"空気"だよ、一言で言い表すなら……上げ潮、だったからね。
あの日までは、さ……」
海野はそう自戒して、クロテンとのこの一年を思い起こす。
「特に、AJCCの後は、みんな、怖い物無しという心境だった――それは僕も同じさ」
フォトスタンドに飾られた、クロテンと共に写った口取り式の写真に、海野は視線を向け――
「……クロテンは、そんな自信を抱かさせてくれる馬だった。
そんな存在が、急に居なくなって、まさに灯が消えたかの様だよ」
そう言って、海野はフォトスタンドを手に取り、写真のクロテンの顔の部分を撫でる。
「"美浦一の小心者"のヨッシーがそれ言うかぁ~?
石原さんに聞いた話じゃ、菊に出すのもグズッてたって聞いたぜ?」
「美浦一って……ヒドい言われようだね。
そんな僕にまで、最後――いや、あの日までは、そう思わせた馬なんだって事だよ」
海野は写真を元の場所に戻し、振り返ってまだ立ったままの関の姿に気付く。
「ごめん、ごめん、今、コーヒー淹れるから、座りなよ」
「ああ」
関は事務所内のパイプ椅子に腰掛ける。
「――あっ!、肝心な事を忘れてたわ、ほいっ!、"ドバイ土産"」
――と、関はそう言って、ゴソゴソと持って来ていた紙袋をまさぐる。
「あそこは、何回行っても、土産に何を買ったら良いか悩むんだよなぁ……だから、また空港で買える高級ブランドのチョコレートな」
「ありがとう、甘党の謙さんや、翼さんが喜ぶよ。
テーブルに置いておいてくれるかな?」
「あいよ……って、アレ?」
チョコレートの箱を置こうとした関は、先に置かれているお菓子の缶に気付く。
「……『白き思い人』?、俺、大好きなんだよね~……って、誰か北海道行ったの?」
『白き思い人』は北海道銘菓として有名な土産物である…
極薄のクッキーでホワイトチョコレートを挟んでいる、お土産としては定番のお菓子だ。
「……翔平くんがね、同行したんだよ、クロテンに」
「あっ、そっか……翔平は?、一番、落ち込んでるんだろう?」
「いや――逆に、一際元気だよ。
さっき帰って来たばっかりなのに、もう松村さんを手伝ってる……まあ、気持ちを逸らすためのカラ元気かもしれないが」
コーヒーを淹れ終え、海野はカップを関に渡し、自分は真向えに座る。
「翔平くんの前向きさが、唯一の支えだよ、今の僕らには」
「……そうか、貰うよ?、白き思い人」
そう言って関は、おもむろにテーブルの上の缶を開けた。
「そう言うと思ったから、甘い物に合うように、苦めに淹れて置いたよ」
「へへっ、お土産持って来たのに、ご馳走になってりゃあ世話無いが」
関は、珍しくそう弁明しながら、白き思い人を一枚、口に入れた。
「そういえば――クロテンの事を、真っ先に知らせてくれたのは"おやっさん"だったぜ」
関が言う『おやっさん』というのは、松沢の事である…
関が最初に所属した厩舎が松沢厩舎で、まだ色んな意味で若かった関を、一端の騎手にまで育て上げたのは、松沢だったと言っても過言ではない。
フリーの騎手となった今でも、松沢は関を高く評価していて、この師弟関係であり、信頼関係でもあるその絆は――実に堅い。
それも、
「松沢先生には、今回の事でもお世話になったよ。
動揺して、浮き足立っていた翔平くんと翼さんを、一喝して落ち着かせてくれたらしい」
「――ったく、自分のトコロの馬の海外遠征はムスコに任せて、自分はよそのスタッフの面倒見てるとは……自由というか、なんというか驚く人だよ」
あの時、疑問に思う方もいたであろう――
アカツキのドバイWCが深夜に迫っているのに、どうして松沢があの日の中山競馬場にいるのか?
――と。
それは単に、松沢が――
「オラぁ、今年は行かねぇわ。
泰博、お
――と、アカツキの担当厩務員であり、自分の後継者であり、実の息子でもある泰博に全権を委ね、自分は国内に残ったからなのだ。
「まあ、ドバイは気候や食べ物が合わないらしくて、いっつも腹壊して、競馬場に居た事ねぇもんな」
そう、松沢が馬主に失礼な事を承知に、同行を拒否したのにはそういう事情がある。
「去年なんて、3頭も連れてって、3頭とも惨敗――それで、自分はホテルで苦しんでたんじゃ、行きたくない気持ちは解かるけどな」
「今年は、定年を控えてるから、泰博さんに任せてみたのもあるかもね」
――ピンポ~ンッ!
二人がそんな雑談に興じていると、突然、事務所のインターフォンが鳴った。
「――はい」
海野はおもむろに立ち上がり、引き戸を開けると――
「ごめんください、海野調教師はいらっしゃいますか?」
――引き戸の前に立っていたのは、鞄を手に提げた若い男と、関と似たような高級スーツに身を包んだ、白髪混じりの初老の男だった。
その放つ雰囲気から、声をかけてきた若い男は秘書か何かで、用があるのは、少し後ろに控えている初老の男の方だという事が解かる。
海野は――その初老の男の事を、知っていた。
「あっ!、あなたは……白畑オーナー?!」
海野厩舎の事務所を訪ねてきたのは……なんとっ!、日本のサラブレット生産界の頂点、白畑Fの社長であり、業界最大手の一口馬主クラブ、白畑RCの代表でもあり、自身も馬主会の重鎮でもある白畑
「この方が海野先生だよ、里美くん」
白畑は落ち着きがある声色で、自分の部下に無礼を指摘した。
「これは、失礼いたしました……」
里美と呼ばれた秘書らしき男は無礼を謝り、一歩後ろに下がった。
「いっ、いえ……お気遣いは結構ですよ」
海野は少し脅えた様で、引きつった笑みを見せながら、陳謝した里美に向けて会釈をする。
「……っ」
海野は一秒にも満たない合間ではあるが、一口、ゴクリと、大粒の唾を呑んで――
「白畑オーナー……が、ウチに何の御用でしょうか?」
――と、死地に赴く侍の様な心境で口を開いた。
海野と白畑は、競馬場で何度も顔を合わせているので、初対面ではない。
だが、ほとんど明確な接点は無く、こうして言葉を交わすのは、ほぼ初めてだ。
「いえ、ちょっと――ご相談したい事がありましてね、入ってよろしいですかな?」
「あっ!、気付きませんで、どうぞ」
「では、失礼して――おや?、昴くんじゃないか」
椅子に腰掛けている関の姿を見つけ、白畑は驚いた顔を見せた。
「飛行機から降りて、随分いそいそと帰ったのかと思ったら」
二人は先程まで、同じ飛行機でドバイから帰国した関柄である。
「ドバイ土産を、置きに来たんですよ」
関はそう言って、チョコの箱を見せた。
「そうか……確か、旧知の仲らしいものな、キミと先生は。
用向きがあったのなら、一緒に来れば良かったかなぁ」
「オーナー、こちらへ……」
海野は白畑を来客用のソファーへ促す…
だが、招き入れたまでは良かったのだが、自分しか事務所にいない状況に、オロオロとしている海野を見た関は――
「オーナーこそどうしたんですか?、こんな"場末"の、"弱小厩舎"になんの用です?」
――と、関はカップを持って立ち上がり、白畑と共にソファーに腰掛けた。
これは――
(俺が相手しとくから!、お茶なりコーヒーなりを用意しな!)
――という、アイコンタクトである…
海野は――
(助かったよ!、関君!)
――という、アイコンタクトを送り返し、コーヒーの用意を始める。
「親友だからって、酷い言い様だねぇ」
「僕がハッパ掛けてるから、潰れずに持ち堪えてるんですよ」
関はそんな冗談で、場を和やかにさせ、見事に場を繋ぐ。
「……オーナー、どうぞ」
海野はコーヒーを持ってきて、自分は白畑の向かえに腰掛ける。
「オーナー、ココのコーヒーは絶品なんですよ」
関は我が事の様に自慢して、白畑にコーヒーを薦める。
「ああ、ウワサに聞いた事があるよ――では、遠慮なく頂こうかな」
白畑は二口、三口とコーヒーを啜り――
「うん……うん」
――と、2回頷いた。
海野は、ソファーに座るには座ったが、ガチガチに緊張して言葉が出ない……
「そういえば――成実分場で、先生の所の仔をお預かりしたそうですね、確か、石原さんの……」
「はっ!、はい!、クロテン――ではなくて、クロダテンユウを引き受けて頂いて、ありがとうございます」
やっと出た言葉は、意外にもクロテンの話題だった。
「いえいえ、あの仔にとって、あそこは故郷ですからねぇ。
育った場所で順調に回復してくれれば、預かった方としても嬉しいですよ」
そう――クロテンが放牧に出されたのは、白畑F"成実分場"、つまり元クロダ牧場である。
オーナーの石原は、自前の牧場は持っておらず、生産したクロダ牧場も存在しない今、今回の故障で課題となったのが、放牧を引き受け入れてくれる牧場探しだった。
石原自身、これといって馬主としてのコネも持たないため、何よりも世話が難しい状態でもあるクロテンの牧場探しは難航。
しかし、ダメ元で連絡した成実分場は快諾し、スピーディーに預託する事が出来たのである。
「――ウチのスタッフも、世話が大変な怪我だが、その分ホースマンとして、世話のし甲斐があると息巻いているらしいですよ」
「そうですか」
海野は白畑Fのスタッフたちの前向きな向上心に驚いた。
さて――クロテンの話題を振った様に、一方の白畑もあえてなのか、なかなか胸中にあるのであろう、本題には踏み込まない。
それにガマンしきれず、本題に向けての口火を切ったのは――やはり、関であった。
「――オーナー、相談したい事って何ですか?
"閣下"自ら、俺みたく雑談しに来た訳じゃあないでしょ?」
――生産界、馬主界のトップに君臨し続け、牧場にも、クラブ名義にも、個人名義でも、膨大な数の馬を所有している事から、その様を『白畑王国』と揶揄する者もいる。
その王国を統べる『白畑京吾』という偉大な男の事を、畏敬の念を込めてそう呼ぶ者は多い。
「――昴くんは、せっかちだねぇ、せっかく美味しいコーヒーを頂いてるのに」
「おっと、それは失礼しました」
「いや――良いよ、焦らすみたいな事をして、先生へ失礼をしたのは私だからね」
海野に会釈して、白畑はカップを置く。
「いっ、いえ、そんな失礼だなんて……」
そんな海野の対応に、白畑は不敵な笑みを見せ、スッと身を正した。
「さて――ご相談したい事というのは、今年の2歳馬の事です」
(えっ……?!)
海野と関は共に目を見張った。
「ウチのクラブの2歳馬を――一頭、預かって頂けないかと思いましてね」
「……っ!」
「へぇ……」
白畑の口から挙がった意外な申し出に、海野は驚きの余り声を失い、関はニヤリと笑みを浮かべた。
「ウッ!、ウチの厩舎に……ですか?!」
「ええ、今まで全くお付き合いが無いのに、いきなりの申し出で申し訳ないのですが」
白畑は最上級の遠慮を見せ、おもむろに頭を下げた。
これまで、クラブ所属の良血馬とはまったく縁が無かった海野厩舎。
そんなトコロに、最大手クラブの代表が、わざわざこのボロい事務所にやって来て、預託を依頼している……っ!
「――どうしたんです?、白畑オーナー……何か、あったんですか?」
(……!?、関くん!?)
何か、余計なコトを言いそうな関の態度に、海野はハラハラしている。
「――昴くん、どういう意味だい?」
「いえね、今まで……あまり、新規の開拓はしないじゃないですかぁ?、オーナーのトコロは」
関の指摘は確かだった。
白畑は――高い実績を誇る名門厩舎に預託する傾向がある。
代表的なのは、もちろん松沢の所だが――松沢との付き合いが始まったのも、松沢がクロダと組んで大レースを席巻した後、『名門』の通り名が付いた後の事である…
「――鋭いですねぇ、昴くんは」
白畑はまたも不敵な笑みを見せ、もう一口コーヒーを啜り喉を潤す。
「――メインでお世話になっている、松沢先生が来年2月で退職でしょう?
それに、お付き合いさせて頂いてる他の先生方も、奇しくも5年以内に退職する方ばかりだ」
白畑はもう一口啜り、口を滑らかにして――
「だから、"これから"お付き合いして頂ける、若手の先生方を探す必要があるんですよ。
――で、今年の2歳馬は、そういう40代以下の先生たちをメインにお任せしようと思った次第でね」
「それでヨッシー――いや、海野先生に白羽の矢が立ったと?」
「ええ、先生の独特な手腕は、我々馬主仲間の間でも話題でしてね。
それに、40代のトレーナーが、クラシックで連対する馬を出すというのは、なかなか難しい芸当ですし、その独特な手腕に、一頭お任せしてみようかと」
「………」
"学者風情が、良い馬を造れるモノか?"――とまで言われた自分が、評価されている?
勝てない日々に悩まされ、一時は廃業も覚悟した自分が?
しかも、業界のトップに君臨し続けている"閣下"が自分を?
――胸中に、色んな気持ちが渦巻き、海野は思わず、一筋の涙を流した。
「おっ、おい、ヨッシー……」
「先生……?、どうかされましたか?」
「いっ、いえ、何でも、ないです……すいません」
「……」
なんとなく、海野の胸中を察した白畑は余計な詮索はせずに――
「そうですか……で、預かって頂きたい仔というのが――」
――と、白畑は持参したクラブのパンフレットを里美に出させた。
「――こちらです」
写真に写っているのは鹿毛の牡馬、そこに示されている母馬の名前を見て、またも海野と関は目を見張った。
「ビッ!、ビロードディーヴァって!、阪神
「間違いねぇ――だって、そん時乗ってたのは俺だもの」
二人はパンフレットを手に取り、顔を見合わせた。
「今回が初仔ですから、繁殖実績はありませんが――母父がゴッドブレスとなりますからね、ウチでも期待してるんですよ」
ビロードディーヴァは、2歳女王決定戦であるGⅠ、阪神JFを、デビューから無敗の3連勝で制した名馬である。
その後は故障に悩まされ、大きな活躍こそならなかったが、その血統から繁殖牝馬としての期待は非常に大きい。
「父のゴールデンムーヴも……確か、今年の2歳が初年度産駒ですよね?
現役時は、アイルランドチャンピオンステークス(※芝の2000メートルで行なわれるアイルランド競馬の最高峰レース)を勝ってて、JCにも来ていた――」
ゴールデンムーヴはアイルランド産馬で、イギリスとアイルランドのGⅠを3勝。
JCにも出走していて、4着に食い込んだ実績もあり、日本の馬場への適正面でも期待されている。
「――今は、ゴッドブレスの娘たちに合う
色んな所から、色んな牡馬を連れて来ているので、こちらも期待していますよ」
(この人は……っ!)
海野は思った――
(――この人は、常に、未来を生きている人なんだ」
――と。
この人は、目先の勝敗ではなく、5年後、10年後の勝利のために行動しているのだと。
だから、白畑にとって、先日のアカツキの勝利も、既に遠い過去の出来事なのだろう――と。
白畑が、愛馬の勝利に、笑顔を見せない事は、業界でも有名である。
その理由の一端を、白畑の発言から感じ取った海野であった。
(なるほどぉ~、両親とも未知数だから、同じく未知数なヨッシーに任せてみる――って事か)
関は得心して、白畑の思惑をそう邪推した。
「いかがですか?、海野先生――依頼を受けてくださいますかな?」
白畑は、好々爺風の顔に似合わない鋭い眼光で、海野の目を見る。
「もちろんです――よろしくお願いします、白畑オーナー」
海野は即答で快諾し、白畑と握手を交わした。
白畑を事務所の外まで見送った海野と関は、ホッとしたのか「ふう~っ!」と、大きな溜め息を吐いた。
「良かったな、ヨッシー。
まだ2歳馬が決まらないって、悩んでたんだし」
「ああ、でも、問題はこの後だよ――この馬の活躍が、僕の運命を左右すると言っても、過言じゃない」
「そうだなぁ、結果を出せば、閣下の信頼を得て万々歳だが、ミスれば――」
「ああ、そうだ……気を、引き締めてかからないと!」
海野は、唇を強く噛み締め、白畑が置いていった例のパンフレットを観た。
「――なあ、ヨッシー」
関は目線を遠くに向け、らしくないマジメな表情で――
「空港から、真っ直ぐココに来たのはさ?、翔平や翼ちゃんが落ち込んでたら、話してやろうと思ってた事があったからでさ――」
若者たちに伝えたい、自分の経験を語り出す――
――あいつら、自分が"深く関わった馬"が、厩舎から長く離れる経験って、今回が初めてだろ?
それって――結構ズシン!、と気持ちに響くモンなんだよなぁ……特に、大怪我だったり、予期せぬ引退だったりすると。
少なくとも、俺はそうだった――で、俺がそんな状況になったのは、忘れもしない……クロダスティーヴの引退が決まった時だった。
あれは、有馬を勝った時の翌年の春天――俺は、スティーヴに乗って、クビ差の2着に食い込んだ。
最後の直線では、勝てるっ!――と、思った手応えだったんだが、どうにも一伸び足りなかった。
でも、それがサインだった――美浦に帰る前に、歩行がおかしいから検査したら、重い屈腱炎だって言われて……それが元で、引退が決まったんだよ。
――情けなかった。
毎日乗ってんのに、全然気が付かなかった自分に。
覚えたばかりの酒に逃げて、あん時は荒れたなぁ……スティーヴに乗って、有馬を勝って――"天才"なんて、言われてたクセに、やっぱ心の部分は、まだ"
――で、呑んでた店に、おやっさんが来てさ――
「一緒にハメ外すか、昴」
――って、一緒に呑んだんだよ。
そんで、一通り遊んで、まだギリギリ呑み潰れる前に――
「――昴よぉ、『発つ鳥、後を濁さず』っていう故事、知ってっか?」
「はい……確か『水面から飛び立つ鳥は、水面に波紋残さない様』でしたっけ?」
「そっか、お前、学、あんだな。
でも――
「えっ……?」
「競争馬は――去る時に、色んなモノを残してくれる。
お
お前の場合は、スティーヴに有馬、勝たせて貰ったなぁ?」
「……はい」
「――それから、オラのトコ以外からの騎乗依頼も増えたべ?、それが……スティーヴがお前に残してった"評判"よ。
この仕事は――コレの繰り返しだ。
残してくれた、色んなモノを活かす事が、俺らが出来る、世話になった馬たちへの恩返しなんだよ」
――っていう、話を聞かされた。
「――今日の出来事は、おやっさんの言う通りだな。
クロテンが、菊や重賞で頑張った事で、今度の依頼を呼び込んだんだ――まるで、クロテンが置いてった"土産"だぜ」
関はそう言って、懐に紛れ込んでいた、白き思い人の包装を取り出し、春の木漏れ日に透かして見せた。
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