帰宅

現実

カタカタカタ――


作業療法室にある、リハビリ用のパソコンを使っているのは優斗である。



というと、真っ先に想いつくイメージは、スポーツ選手が復帰に向けて、マシンなどを使って行なうトレーニングの事を連想する方は多いだろう。



そんな方は――


『パソコンで何してんのよ?、入院してんのに、遊んでんのかぁ?』


――と、思われるのかもしれない。



以前、奈津美が『遊ぶ事も』と、言っていたのを覚えておられるだろうか?



その言葉通り、これも作業療法リハビリの一環なのである。


優斗は今、その療法室に置かれた文庫本を手に取り、その文章をひたすらパソコンに入力する"作業"を行なっている。



パソコン――いや、正確には、キーボード操作するのがこのリハビリの目的。



指先を動かす事が可能になった優斗は、塗絵やジグソーパズルなどを、壊れた脳への刺激も兼ね、療法士に薦められるまま行なっていたのだが――


「――パソコンあるけど、誰かが使ってるの、観た事無いねぇ」


――と、ある日、優斗は何の気無しに担当療法士の中村淳志なかむらあつしに尋ねた。


中村は、年の頃は優斗と同世代の小柄な男で、黒縁のメガネを掛けたインテリ風の容姿が印象的な男だ。


「ええ、図形パズルとかのソフトを入れて導入したのですが、患者さんは年配の方が多いので――なかなか、使おうとする方が少ないんですよぉ」


――という話を聞いて、優斗は自らこのリハビリを提案したのだ。



優斗は、確かに肉体労働を生活の糧としていたが、それなりにパソコンも使えた。



特に、文章は――いや、ここから先の話は少し待っていただこう。



――で、素人であるはずの優斗の提案に中村は驚いたが、プロの目からも一理あると踏んで、GOサインを出したのである。


それ以来、このリハビリの時間は、ほとんど誰も使わない、パソコンデスクに座り――優斗は、さながら写経の様に文章を打ち込んでいた。



「――出来た」


優斗は、その文庫本のまで、全てを打ち込み、「ふうっ……」と、一息を吐いた。



「ご苦労様です――ついに、一冊分を打ち込みましたね」


「最初は、半ページも時間内ではムリだったのにな……今日は、あとがきの3ページ分、一気に片付ける事が出来た」


「ええ、私たちも、ビックリするぐらいの回復ペースですよ」



これは月の初めにある、現状の障害の度合いを測るテストでも実証されていた。



確かに、中村は入院当初の3月分のデータと、数日前の4月分のデータを見比た結果を見て――


「この数値の上がり方――今まで見た事無い上昇度ですよ!」


――と、驚いていた。



年齢の若さ――というのも否定は出来ないが、これが優斗が淡々とこなしてきた結果なのだ。



「これやってる時だけは、そう感じる事が出来るな」


優斗はそう言って、まだ素直には動いてくれないその右手を見た。


「じゃあ、臼井さん。


今度は、どんな本にしましょうか?」


「――いや、今度は、創作をやってみようかな」


「えっ?!、創作……って、つまりオリジナルの、ですか?!」


中村は相当、この提案に驚いたのか、呆気に取られている。


「ええ、少し、やる気が刺激される事をしようかとね」



優斗の競馬に次ぐ趣味は、創作小説を書く事だった…



それは優斗のキャリア等からすると、意外に見えるかもしれない。


優斗は、子供の頃から空想する事が好きで、よく物語を構築し、書き散らかすのが好きな少年だった。


そんな子供は――お世辞にも、"普通"の少年だとは言えないだろう。


子供社会でなら、下手をすれば"いじめ"に繋がりかねない趣味かもしれない。



だから、優斗はこの趣味を隠して暮らしていた。



大人になってもその生活は変らなかった――彼は、社交的な性格でもないので、休日はもっぱら家に篭り、寝転がっているか、ネットショッピング目的で買ったはずのノートPCをイジり、ワープロソフトで文章を書き殴っていた。


だが、誰かに読んで欲しい訳でもなく――ただ書いて、ただ消去するという趣味ひまつぶしである。



しかも、就職したのは荒くれ者の集まりの様な、いわゆるガテン系職場――そんなネクラな趣味を知られれば、バカにされるのがオチである。



優斗が競馬を観始めたのは、ギャンブル要素を利用し、荒くれ者たちからそんな趣味を隠すためのカモフラージュの一種でもある。



奈津美はもちろん、その優斗の"秘密"を知っていて、子供の頃の優斗にとっては、彼女は唯一とも言える読者の一人だった。



奈津美が優斗から競馬を好きな事を聞いて、意外に思っていたのにはそういうカラクリがある。



「まあ、完全オリジナルではないけどね、いわゆるを――」


「……?、二次?」



そう――二次云々という単語は、世間一般カタギからすれば、ピンと来ないシロモノであろう。



「あ~……まあ、書き始めてみれば解るよ」


「そう――ですか。


確かに、ストーリーも考える過程が加わる事で、脳を刺激する効果が上がるでしょうが……」


中村は自分の顎を撫で、苦笑いを見せる。


「なかなか、思いつかない方法ですよ。


回復のペースといい、アイデアといい……臼井さんには、驚く事ばかりですよ」


「んな、褒められるモンじゃないでしょ?」


優斗にとっては、この退屈で希望も無い入院生活を、何かに没頭する事で誤魔化そうとしているだけなのだが。



「じゃあ――そろそろ行くよ、先生に呼ばれてるからな」


優斗が言う"先生"というのは、もちろん自分の主治医の事だ。


実は今日、今後の方針について話し合いたいと、面談室に呼ばれているのである。


「大丈夫ですよ、改めてお呼びしますから、焦らず病室でお待ちください――担当の私たちも同席しますので、もう少しかかりますから」


「そっか――じゃ、キーボードの打ち過ぎで、右手もピクピクしてるから、一休みするか」


優斗はそう言ってデスクからゆっくりと立ち上がり、作業療法室を出た。






「優斗」


優斗が病室に戻ると、そこには智恵子の姿があった。



「おばさん――遠い所に、悪いね」


今日、呼ばれた今後の方針についてには――


「『ご家族の方』の同席を――」


――と、病院側が連絡したらしく、"ご家族"の欄に署名していた智恵子が呼ばれたのである。



「――ったく、やるのは俺なんだから、話聞くのは俺一人で充分だろうに」


「そう簡単にいかないのが、世の中だよ」


智恵子はそう言いながら座っていた椅子をずらし、優斗が通りやすい様に道を開けた。


「リハビリ――だったんだって?、看護士さんに聞いたよ」


「うん」


「……たいしたモンだねぇ、"本格的な設備"というのも――」


優斗が、ゆっくりと一人でベッドに腰掛ける姿を見て――


「――こんなに早く、歩けるようになるなんてねぇ……」


――と、智恵子は関心してみせた。


「でも、全然、退院するメドは立たないらしいからねぇ」


「ムリしちゃダメさ。


これから一生、この障害からだと付き合っていかなきゃならないんだからさ」


智恵子はこの間の事を知らないはずだが、優斗の苛立ちを察したかの様に、そう諭す。



「優斗、もし大丈夫なら、ちょっと病室へやから出ないかい?」


智恵子は同室の患者たちの存在を気にするそぶりを見せ、優斗に目配せをした。


優斗は他人には聞かれたくない、"何か"があると察して――


「ああ、大丈夫……じゃあ、行こうか」


――と言って立ち上がり、二人は病室から出た。






二人はデイルームに向かい、そこの一番端にあるソファーに腰掛けた。



「――どうしたの?、急に病室から出ようだなんて?」


「……やっぱ、気付いてたかい」


「ガキの頃からの付き合いだよ?、雰囲気で解かる」


「それもそうだね」


智恵子は苦笑いを見せ――


医者せんせいの呼び出しが無くても、一度来なければならないと思っていたんだ。


実はね――」


智恵子は、ゆっくりと口を開いた。


「――あんたの、会社の事さ」


「……会社?」


「そう、あんたが勤めてる、労引社ろういんしゃ、あんたの給料、未払いなのさ」


「えっ?!」



――病院から身動きがとれない優斗は、アパートの鍵を渡し、入院費を含む家計の収支を智恵子に一任していた。


智恵子はその任をキッチリこなしてくれていて、それは病院へ郵送されて届けられる、各領収書を見ても確認している。



「……どういう事?」


「3月の給料日に銀行に行ったら、振り込まれてなくて――で、郵便物を確認するために、アパートに行ったら、逆に"社会保険料の不足分を払え"って、手紙が入ってたんだよ」


「……はぁ?!」


優斗は訳が解からず、あんぐりと口を開けた。


「有給は、かなり貯まってるんだよ?!


働いて10ウン年、一度も使って――いや、使う余裕が無いスケジュールなんだから!


確かに……法定で、50云日ぐらいで切り捨てだとは聞いてたけど」



優斗が勤めている労引社は、月末〆の翌月20日が給与支給日。


優斗が倒れたのが1月の下旬――法定日数を越えたのは、少なくとも3月の半ばなので、4月分までは払われていなくてはならないのだ。



「2月分は、ちゃんと振り込まれていた――いや、冷静になればあんたから聞いてた金額と違った。


それで今回の一件――有給の分、払わないつもりなんだよ!」


「……っ!」

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