兆し

~5日後・AJCC当日~



朝が早い仕事は、なにも競馬業界に限られたものではない。


生き物を扱う業界せかいの人間の仕事には、大概早起きが求められる。



舞台は、ガラっと変わって北海道。



同じ1月でも、海野たちがいる関東地方とは大違い、寒さは寒さでも#極寒__・__#の朝である。




ゴワァァァッッッ!




ガランとした広い建物の中で、拳銃のような形のノズルから、轟々と水が噴射されている。



合羽に身を包んだ男は、その『拳銃』を手に持ち、なにか曲芸でもするようにノズルを玩ぶ。


「ふぅ……」


一息をいた男は、ノズルをなだめるように柱の根元に置く。


柱に置かれたノズルから放たれる、高い圧力が掛かった水は、ザァァァッッッ!と轟音を立てながら、床を走って行った。


合羽の男――臼井優斗うすいゆうとは、深く被っていたフードを外し、建物の出口に向かう。



かなり遅れての登場になってしまったが、この見るからに幸が薄そうな顔をした男が、この物語の主人公である。



優斗が今、作業をしていた仕事は『水洗い』である。



この3文字だけではピンと来ない人が殆んどだろう……まして、これのどこにが関係するのか?、――そう思う者ばかりかもしれない。



ここで言う、水洗いとは……養鶏場の水洗作業の俗称だ。



高圧洗浄機を使い、建物の内外の隅々、エサ箱やドリンカー(※鶏に水を飲ませる設備の事)を丁寧に洗う。


高圧洗浄機と聞くと、コイン洗車場や通信販売で見かける家庭用の物を想像されるだろうが、業務用の水圧の強さは比ではない。


その気になって掌にでも押し付ければ、軽く掌を突き抜けて風穴を空けてしまうだろう。


扱いを間違えれば、凶器にも転じかねないシロモノだ。



なぜ、そんな仕事をしている彼が海野たちに関係するのか?


それは、彼がの正体だからだ。



優斗と、クロテンの関係……それは優斗が、クロテンの事を当歳(※0歳)の頃から、縁を感じてその動静を観てきた、筋金入りの『クロダファン』だという事である。



クロダ牧場が北海道にある地方都市『成実なるざね市』は、北海道の温暖な気候が特徴で、農業が盛んな所だ。



クロダ牧場の広大な土地は、その成実市の名も無い山のふもとに有り、その山の上には食肉メーカー傘下の大規模畜産農場がある。


優斗が仕事に就いているのがそこの養鶏場で、クロダ牧場の放牧地の間に設けられた道路を通り、マイカー通勤をしていた。


ここに勤めてから12年――優斗は仕事の帰りに、クロダ牧場の馬たちが放牧されている様を観る事が日課になっていた。



直接触れたりする事は決して無かったが、毎日見ていると不思議と親近感が沸いてしまい、ここで生まれ、ここから巣立って行った『クロダ軍団』の馬たちを応援するため、馬券も買うようになった。



そんなクロダファンの優斗にとっても、尾花栗毛という派手な風貌であるクロテンの印象は強く、特に気にしていた一頭だった。


『どんな成績を残してくれるのか?』と、ファンとして期待していた矢先に発表されたクロダ牧場の閉鎖は……本来、無関係の優斗にもショックな出来事だった。



そんな中、地元の噂で石原たちの行動を知り、偶然読んでいた本に記されていた競争馬へ送られるファンレターの話を見て、印象深かったクロテンの動向を調べ、自分も送ってみよう――と、思い至ったのである。



クロダ牧場は観光牧場ではないので、印象深かっただけでクロテンの名前や血統は解らなかったのだが、同世代に尾花栗毛はいなかった事に目を付け、最大の個性とも言える毛色と、クロダ牧場生産馬、という2つのポイントから探し当て、海野厩舎に手紙を送り始めた。


だが、名前や住所を関係者に知られるのはどうにもはばかられ、あんなちょっと奇妙なファンレターになってしまったのである。



「ん?」


優斗は外に出ようと、引き戸を引こうとするのだが、戸はガッチリと凍り付き、ビクともしない。



戸がしばれて、出入りが困難になるのは、冬の北海道の風物詩とも言える光景だ。



「ふんっ!」と、力を込めて戸を引き、何とか鶏舎からは脱出したが、今度は停めてあった自動車のドアが開かない……


これも力ずくでドアをこじ開け、優斗はやっと座る場所にありつけた。


運転席側のドリンクホルダーに置かれたマイボトルを開けると、ふぁ……と、コーヒーの臭いが混じった湯気が立ち上る。


こんな気温の中に置いても、中身の温度が保たれる――これぞ文明の利器だと、優斗はいつも思っていた。


時刻は午前6時――少し、日は照ってきたが、寒さは一向に緩んでいない。



「――さて、と」


運転席に座った優斗は、ホルダーのマイボトルを手に取り口元に運んだ。


ボトルの中の濃く淹れたブラックコーヒーと、助手席に置かれたバッグに入っていた、シャーベットの様に凍ったアンパン、それが優斗の今日の朝食だった。


仕事の開始は午前3時、一仕事を終えて、ようやく着いた休憩時間もそれほど長くはとれない。



優斗たちに……明確な勤務時間や就労時間は存在しない。



脳裏に?マークが付くかもしれないが、それがここの仕事の現状だ。



ここの水洗いの就労システムはいわゆる『請け負い』――だが、いわゆる自営業ではなく、ちゃんと会社に所属している。


鶏舎の水洗を『1棟いくら』で、会社が仕事を請け、従業員にスケジュールから何かを全てし、作業は全て一人で行ない、作業の進行などは全て自己責任――しかし、作業報酬はちゃ~んと会社が



だから、給与体系も棟数次第の実質、完全出来高――いわゆる裁量労働なのだ。



一見そう聞くと、仕事をするもしないも自分次第の『自由業』に映るかもしれないが、洗い終える納期もしっかり存在するし、かと言ってやればやるだけ、訳ではない。



出荷棟の数は年単位で計画されているし、一人だけの意向で稼動していては、そのスケジュールは回らない。


1棟洗い終えるまで約17~8時間、通常2日間の作業である。



そのスケジュールを全て、自分の裁量で仕事をこなす……洗い終われば、また次の鶏舎を洗う、その繰り返し。


工場はほぼ週5日稼動し、約1万羽が飼育されている鶏舎が一日3~4棟、約3万羽の鶏が出荷される。


次に床に敷き詰められた鶏糞を除去し、そこからが優斗たちの仕事……これに大体丸一日。


そして、洗い終える納期が3日後……水洗いには2日必要なので、つまりスケジュールは常にギリギリだ。



農場の稼動が週5日と言っても、土日が休みなのではなく、週中に一日挟む形。


土曜日もしっかり出荷されているので、出荷などの他のセクションが休んでいる日も、優斗たちは稼動しなければならない……納期は、翌日の月曜日なのだから。



それに、先に記した言葉の意味も関係してくる――だ。



優斗たちは先ほど記した様に、就労時間に決まりは無いので、厳密には他のセクションに合わせて早く稼動する義務は無いのだが、他のセクションの者と顔を会わせる度に――


「早く出勤しなくても良くて自由……楽な仕事だよな!」


――と、陰口とはとても言えないボリュームで言われては、気分の良いモノではない。



中には『関係無い』と、堂々とな勤務時間でスケジュールを組む人間もいるが、名前に似合わず、性格が激しい優斗は――


「――やれば、文句無いんでしょうよ!」


――というタイプで、出荷が稼動するより前から仕事を始めたりもする。


『出荷が終わる時間に合わせて終えれば、同じ就労時間だろ?!、これなら陰口を叩かれる必要無い!』と。


深夜勤務の手当てが、貰えるわけでもないのだが。


損な性格で片付いてしまう事だが、社会人として仕事の責任感をしっかり持っている人間なら、肉体的にも精神的にも、決して楽な仕事ではない。



『自由と責任は表裏一体』それが世の中の摂理なのだから。



ここまでの説明では『ただの掃除だろ?』と思うかもしれないが、鶏舎内に付く糞や細菌を洗い流すことで、初めて鶏の飼育が可能になるのである。



大げさにはなるが、この国の食糧自給率の片翼を担っている重要な仕事の一つである。


だが、そんな風に思っているのは優斗ぐらいだけなのが現実だ。



優斗が属しているのは、水洗いを委託されている業者の業者だ。


水洗いを委託されている業者も、養鶏生産者からの委託、生産者自体も食肉メーカーが経営している大規模農場から飼育を委託された下請け。


ちょっと書いている内に解りづらくなってしまったが、つまり水洗いという仕事は3度の委託を経て、優斗が属している業者に辿り着く。


様は、解り易く一言で言うと『曾孫請け業者』が優斗が所属している会社である。


優斗は肉体的なキツさ、不衛生な環境での作業、鶏の糞が放つ強烈なニオイ、いわゆるキツイ、キタナイ、クサイのいわゆる仕事を黙々とこなしている。



優斗は凍ったパンを口に詰め、コーヒーで喉に流し込むと、車のドアを開け作業に戻る。



(今日はテンユウの出るAJCC、観るためにさっさと仕事を済ませなきゃな)



要は――この辺が、この仕事のな部分ではある。



今日中にここを洗い終えれば、明日は仕事#ので休日――逆に言えば、途切れなければ延々と休みは無い。


まあ、他セクションの者には『月曜日から休みやがって!』と、また陰口を叩かれるだろうが。



「……やるかっ!」


ふっ!、と気合いを込めて洗浄機のスイッチを押し、優斗は鶏舎に入っていった。






「お疲れ様です」


仕事を終えた優斗は、場内に設けられている事務所兼休憩場に着替えのために戻って来ていた。



水洗いはちょっと想像出来ない量の水を使用する。


なので、いくら合羽を着ていたとしても、中に着ているモノが濡れるのは避けられない。


現に極寒の外を歩いてきた今の優斗は氷漬け状態なのだ。



「お疲れさん」


先に戻って来ていた同じ水洗い班の#斉藤明夫__さいとうあきお__#は、少し遅れた昼食を摂り終え、帰り支度の途中だった。


彼も優斗と似た、深夜から始める『やり終えれば良いんだろう?』というタイプだ。


明夫はこの道30年の大ベテラン、そういう狂気な面から変人扱いされているが、仕事は確かである。



「今日は、クロダの馬が出るんだって?」


明夫はバッグの中を探りながらボソッとつぶやく。


「ええ、楽しみですよ」


優斗は小さく笑みを見せ、パリパリと凍った作業着を脱ぎながら返事をする。



明夫はここで働く前、クロダ牧場で働いていた経験があり、優斗ほどではないにしろ、そんな縁故もあってクロダファンの一人なのだ。


「菊で2着に来たヤツだろ?、まぐれじゃないのか?、アレ……」


「どうですかねぇ~、今日で解るでしょう」


少し淡白に答えた優斗は作業着を脱ぎ終え、洗濯機に投げ入れた。



作業に使った衣服は、原則的に脱ぐ度に場内で洗濯しなければならない。



衛生上の問題で、自宅に持ち帰る事は許されず、場内で洗濯するのが通例である。


もちろん、今の状態で帰る事は命に関わる寒さ……めんどくさくても、洗わなければダメなのだ。



「じゃあ、お先に」


「はい、お疲れ様でした」


明夫を見送った優斗は下着一枚(※下の方)になり、強烈な身体の震えに耐えながら、下着を穿き替えるためにトイレのドアを開ける。



休憩所内には一応浴室が有り、脱衣所は有るには有るのだが……優斗は使用しない。



使えば、また陰口を叩かれるからだ。



何故かここでは『ワーカーズカースト』の様な、セクション別の暗黙の階級がある――その中で、水洗い班は最下層。


強制されている深夜作業で苦労しているからなのか、一番利益に貢献しているという陳腐な自負なのか――とにかくここでは出荷班がのだ。



狭いトイレの中で淡々と着替えを終えた優斗は、ドッと椅子に腰掛ける。


「はぁぁ~~~~~~っ!」


大きく息を吐き、上半身を背もたれに乗せ、グッ~と伸びをして天井を見上げる。



今日は他のセクションは休日、事務所に詰めている管理職も、他の稼動日でなければ出勤しない……明夫が帰った今、ここに居るのは優斗だけだ。


日曜日のこの時間が、優斗が一番リラックス出来る時間だったりするのである。


見上げた目線を、掛け時計の方に向けると、針は午後1時半を回っていた。



「……昼飯食おう」


隣に置いたバッグをまさぐり、食料を探す……出てきたのは、また菓子パンだ。


2食分用意するのに、ちゃんとした食事を摂るなんて事は意外に難しい……手間の面でも予算面でも、独身男なら尚更だ。


少しマシなのは休憩所には電子レンジがある事、優斗はパンを持っておもむろに立ち上がる。



ファァ……



「!」


――優斗は少しめまいがして、パンを床に落としてしまった。


「……またか」


優斗は首を振り、気をしっかり保とうと頬を叩く。



どうも今朝(※時刻としては夜中だが)から強烈な眠気が襲い、ちょっとした時に頭がクラクラするのだ。



慢性的に寝不足なので、いつもの事なのだが……今日のは強さも回数も激しい。



(競馬中継観たら、少し仮取した方が良いかな?)


そう考えながらパンを拾い、左胸を触る。



(まさか……?)



体調不良の原因には、寝不足だけではなく、思い当たるモノがもう一つあった……高血圧である。



数年前から健康診断で指摘されていて、再検査や治療を促されいたのだが、仕事の多忙さなどを理由に黙殺していた。



主な休みは平日なので、その休日を潰せば病院に行く事は可能だったが、若さゆえの豪気なのか、それよりも休息を摂る事を優先し、何よりも『高血圧なんて、病気の内に入らん』という職場の間違った空気に毒されていたのだ。



(代表的な病気として挙げられる、心臓や脳の病気はほとんど50代ぐらいからだぜ?


まだ30そこそこなんだから、まだまだ余裕だ)


――と、優斗は開き直り、高をくくっていた。


もう一度時計を見ると、もうすぐ午後2時、優斗はまたもコーヒーでパンを喉に流し込み、パンの袋をゴミ箱に投げ捨てた。

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